実質2年にわたって連載がストップしてしまった。休載していたとはいえ、展覧会準備などを通じて『時事』に関する視野を広げることができた。目指す行き先も遠くなってしまい、以前にも増して先が見えなくなっているのだが、今度こそ確実に歩を進めたい。
さて、再開第1回では、以前2回にわたって取り上げた時事新報論説の問題を今一度考えてみたい(第9、10回参照)。まずはおさらいから。福沢の執筆とされる『時事』社説が侵略的だ、という近年の批判に端を発して、どの社説は誰が書いたか、という議論が随分盛り上がった。福沢全集を編纂する時、無署名の社説の中からいずれが福沢執筆か判断し、全集収録の採否を決定した門下生の石河幹明が、福沢の思想を歪めた犯人であるという声が大きくなった。
しかし、筆者の考えは、異なる。『時事』社説の主張は、当時の人々にとって福沢の主張であると理解され、福沢もそう読まれると自覚していたはずである。福沢の官民調和論(第5、第6回参照)の特徴を踏まえ、日々の国際情勢や福沢が得ていた情報などを整理し、裏にある意図を丹念に読み解く努力がなされなければ、表面上の言葉をいくら読んでも、福沢の思想は見えてこない。福沢にとっては日々読み捨てられるもの、世論を導く道具にすぎない新聞上の言葉の意図は、今日の視点から紙上だけをいくらにらんでも見えてこないのだ。
そして、『時事』社説の主語である「我輩」は、特定の「誰」でもなく(福沢でさえない)、そもそも当時の一般的用法に照らして「われわれ」という意味として理解すべきであり、福沢の思想を共有する人々の集まりとしての時事新報の人格ととらえるべきものである。のちに「独立自尊」という語に集約される福沢の思想を共有し、新聞紙上で発信していく主格が「我輩」なのである。
このような趣旨を前に記したところ、当時はかなり痛烈なご批判も賜った。特に「我輩」は「われわれ」であるという読み方には、あまり同意を得られなかったように思う。しかし、上記の読み方についてその後いくつかの新たな資料を見出して意を強くした。
たとえば「我輩」に、「われら」とルビがある例を見出した。といっても、これは福沢著作の海賊版なのだが、『時事』紙上に連載され、明治19年に単行本となった『男女交際論』の海賊版(明治31年刊)にそれは見られる。この本は、正規品とは違い勝手に総ルビに改められているのだが、ご丁寧にも、全ての「我輩」に「われら」のルビが振られているのである(画像参照)。その他にも、我輩を複数形の意で用いている同時代の福沢周辺の資料は例にこと欠かない。 |
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福沢諭吉『男女交際論』(干城社、明治31年)。
これは明治19年に刊行された同書の海賊版である。
「我輩」の横に「われら」とルビがある。 |
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「われわれ」かどうかというのは、形式の話にすぎないが、実質についても良い資料があった。「新聞記者の徳義」と題する『時事』社説がそれである。明治18年12月22、23日の2日にわたって掲載されているが、福沢諭吉全集には採録されていない。この社説では、新聞の守るべき「徳義」とは何かが次のように議論されている。
新聞といえど商品であり、一枚でも多く売って経営していかねばならないことを見すえれば、「記事の品格を下し、学理高尚の部分を省いて通俗の人情談を交え、遠国宰相の進退を記すをやめて目前の喧嘩、窃盗、馬車の顛覆、洋犬の奇特などを載せ、筆加減をもって雅俗の調合あんばいに注意せざるを得ず」。したがって、新聞が純粋に商売であるという考え方に立てば、品がなく高尚でない記事を載せていたとしても、不徳義とは言えない。
また、政党新聞と呼ばれるものは「万事万端自党のために弁護し、美はあらわし醜はおおい、その党の士人の言行は事細かに賛揚し、他党のことはこれを略して知らざるに付」すものである。例えば演説会の観衆の入りや反応について脚色したり、反対党の言論には何が何でも反対するなどの例がまま見られると指摘し、これらは一見、新聞の不徳義というべきもののように思われるが、必ずしもそうではない。「党派心なるものは愛国心に等しきもの」であり、外国人が日本のことを尋ねたら、我々は日本の良さを強調しようとするではないか。これこそが愛国心のなす働きであり、「こと内外の弁にわたれば、この働きの極めて鋭敏ならんことを望まざるを得ず」、すなわち外交問題などにおいては、むしろこのような感性が新聞記者には極めて重要であるというのである。
かつて「脱亜論」について論じたとおり(第16回参照)、福沢は当時の弱肉強食の世界情勢において、新聞は正論を振りかざす場ではなく、時に方便を用いて、世の中あるいは自国の立場を好転させていくための道具にすぎない、という冷徹な認識を持っていた。この社説は、そのことを端的に明言し、こう問いかける。では「新聞の徳義」に背く「罪人」とはいかなる者のことであろうか、と。
ここで『時事』はロンドンタイムスを引き合いに出す。新聞には創刊時から「固有の性質」と呼ぶべきものがある。かのタイムス紙において、社中1、2の人が交替したとして「社の本色」が変わるだろうか。「社会の人のこれを信ずるも、その人を信ずるよりも、むしろその社を信ずるの趣あり。」すなわち、タイムス紙の信望は、特定の誰かに対するものではなく、社に対するものなのである。これがタイムス紙に対して「我輩の常に欽慕してやまざるところのもの」である。
「世上あるいは記者一身の私のためにその新聞社の色相を変じ、一時の口気は純然たる急進論者にして世人もまたみなその急進の本色を認めおる最中、色相にわかに変じて守旧となり、前後の論議を対視すれば自ら論じて自ら駁撃するがごとき奇観なきにあらず。すなわち、一身の私にしたがいて自ら欺き、世を欺き、兼ねてまたその新聞紙を欺きたるものにしてこれを名教の犯罪人といわざるを得ず。」
同一の紙上で、ある日の社説が別の日の社説と論争をするような「奇観」こそが「新聞の不徳義」である――こう批判する『時事』は、さらに言葉を続けて、こういった発信態度は、自説を流布する目的であっても賢くないと述べて、ロシアのスパイが、ドイツにおいて新聞を創刊しロシアに利する報道を数年にわたって行った例があると紹介、「本色」すなわち各新聞に固有であるはずの思想の根幹を変転させ、しかもそれが目について指摘されるような新聞は、「記者の徳義に愧ずるのみならず、智術もまた極めて浅薄」と酷評し、「自らいましめ、またこの流の記者輩がその痕跡を世に絶たんことを希望するものなり」と結んでいる。
「本色」の一貫性こそが、『時事』の誇りであったことをこの社説は示している。そして、特定の記者の出入にかかわらず、『時事』に継承される「本色」の主格が「我輩」(われわれ)なのである。
もし福沢の文章の文学性、とりわけ語彙などに関して研究するのであれば、福沢が後半生において執筆の舞台とした『時事』社説は避けて通れず、どれが福沢の書いた文字であるかを丹念に検討する必要があるだろう。しかし、福沢の思想を検討する上ではこういった観点は無力であると、筆者は考えるのである。
なお付け加えるならば、福沢は自分の文体について、非常に自覚的な人物であった。『福翁自伝』において、福沢は偽手紙を書いたエピソードを2つも誇らしげに記している。一度は商人、一度は遊女になりすましてもっともらしく手紙をでっち上げ、いずれも目的を達成した。また、二人の門下生、箕浦勝人と藤田茂吉の名前で『国会論』(明治12年刊)を発表した時にも、文体を福沢らしくないよう改めさせることを忘れなかった。コチコチの漢学者にも自説に耳を傾けてもらうために、わざと古くさい体裁で理路整然と書かれたのが『文明論之概略』(明治8年刊)であり、子どもが楽しく西洋の知識を吸収してくれるよう、七五調で覚えやすく、大きな草書で習字のお手本にもなる地理の教科書『世界国尽』(明治2年刊)を出しベストセラーにした。人を見て法を説くことは、福沢にとってお手のものであり、人より秀でた感性であると自認していたわけだ。
これらのことは、『時事』論説の文体や発想を考える上では、多くの示唆を与えてくれると思うのである。福沢諭吉という人は、同時代では突出して文章の役割に自覚的であった。これほど後世の研究者をもてあそぶ文章家も珍しいだろう。