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オリジナル連載 (2006年12月1日掲載)

時事新報史

第10回:『時事新報』論説をめぐって(2) 〜「我輩」は『時事新報』である〜 
 

























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 前回は、『時事』論説をめぐる議論について紹介した。ごく大ざっぱな把握であるが、論説を根拠として「福沢はアジア侵略主義者で、天皇崇拝主義者で、差別主義者である」などと福沢を批判する立場と、「侵略的などといわれる『時事』論説は、福沢の書いたものではない」と資料を批判して福沢を擁護する立場が対立しているという話である。しかし、この議論は余り有益でない方向に向かっているように思われる。特に福沢擁護論は、福沢自身の認識から大きく外れた議論になってしまっているのではなかろうか。

 論説の書き手の意思、どういうつもりで書いていたか、という観点から考えてみたい。渦中の我輩論説で用いられる「我輩」という主語に注目してみよう。今日この語を見ると「わたし」という一人称単数のように思いがちである。ところが、我が国における近代的国語辞書の嚆矢(こうし)として知られる『言海』(明治23年)を引いてみると、「ワガトモガラ。我等」と、一人称複数の意味のみ記されており、『時事』創刊当時の一般的な意味は漢字の通りの「われわれ」であったことに気付く。主要他紙、たとえば『東京日日新聞』の論説の主語「吾曹」なども「われわれ」の意味である。福沢の没後も使われていた「我輩」の語であるが、時代がかったためか、大正時代には使われなくなり、代わって登場したのは「吾々」(われわれ)という主語であった。これらをみれば、我輩が具体的な「誰」でもなく、『時事』全体を指す抽象的な人格という位置づけであったことは明らかだ。したがって、無署名論説の執筆者を特定しようとする発想には、そもそも余り意味がないように思われる。

 では、読者側のつもりとの関係でいえばどうか。この時代の新聞をさして「パーソナル・ジャーナリズム」という語があるように、福沢なくして『時事』は存在し得なかった。本連載第4回の新聞評判記に見えるように、『時事』は世間で「福沢の新聞」と認識されていた。毎回の論説一言一句を福沢が書いていないことくらい当時の人も知っており、有力な記者の名前も知られていた。それでも世間では福沢の顔を思い浮かべながら論説を読んでいたのである。かなり自意識過剰の気がある福沢が、そのことを意識していなかったとは思えない。つまり、福沢自身が筆を執ったかどうかにかかわらず、論説は福沢の思想が披瀝(ひれき)される場と認識され、福沢もそう思われる前提で『時事』を経営していたとみるのが妥当であろう。

 以上をまとめれば、基本的に『時事』論説の主張は福沢のものと見なすべきものと考える。論説の文章が福沢の文章か否かを議論する必要はなく、『時事』のものとして扱えばよい。なぜなら「我輩」は特定の誰でもなく福沢の新聞たる「時事新報」として書かれたものだからである。論説執筆を芸術家集団のアトリエにたとえて「福沢工房(アトリエ)説」と称する考え方が有力になってきているが、まさに言い得て妙だと思う。

 次に、論説評価の問題を考えてみたい。批判されている論説も福沢の主張と考えるなら、福沢がアジア侵略主義者で、天皇崇拝主義者で、差別主義者であるなどとする批判を受け入れるのかといえば、そうではない。すでに「官民調和論」について詳しく論じたように、福沢の言説は、世論が進むべき道を外れそうになると元に戻るよう誘導することに主眼があり、左に傾けば右に引っ張り、右に傾けば左を声高に主張し、中道にあればこれを勇気づけ、事態が緊迫すれば世論を強く誘導しようと激烈な言葉を用いることも厭わず、右の時と左の時の主張を並べれば、一見大いに矛盾することも珍しくない。このような『時事』論説執筆の姿勢は福沢が意識的に行っており、論説は極端にいえば、その日限りの使い捨ての主張であったといっても良い。それを前提として彼が望んだ「世論の進むべき道」を批判するならともかく、書かれた時の状況を無視して文言を切り貼りしたような批判が力を得ていることは甚だ疑問である。すなわち、批判される論説の執筆者が福沢でないから免罪されるのではなく、そもそもこういった主張における論説の読み方が間違っているというだけなのではなかろうか。

 現代とは言語感覚の異なる明治時代の文章である『時事』論説を、状況や背景を説明せずあちこちから切り取って読ませれば、普段読み慣れない読者をたちまち福沢批判者にすることが出来るだろう。筆者もその気になれば、福沢を共産主義者にも、国粋主義者にも、はたまた見境のない三田の色魔にも、無私で高潔な聖人にも仕立てる『時事』論説コラージュを作る自信があるが、それはもとの福沢の思想とは全く無関係な福沢像である。

 同時代の他紙や、アジア諸国の日本認識、西洋諸国の言論を考えてみたとき、福沢と同レベルまで語彙や表現などが掘り下げて点検されているだろうか。福沢研究は同時代の他の分野に比して極端に深化し、突出してしまっているのではなかろうか。それゆえに、福沢がやり玉にあげられてしまっているのが現状であるように思われる。

 この論争を積極的に総括するとすれば、福沢全集の『時事』論説が、実は石河幹明によって選ばれた一部だけを収録した、いわば『時事』論説のダイジェスト(より正確に言えば、石河の考えるところのダイ ジェスト)であることを気付かせたという点において実に有意義であったと思う。これからは、むしろ全集に入っていない論説も含めた、大きな流れの中で個別の論説を位置付ける読み方が必要であろう。そして、今後福沢全集を編むことがあるならば、紙面に掲載後「福沢諭吉立案」として単行本化され福沢生前の全集にも入っている『時事』論説以外は収録せず、別に「時事新報論説集」を編み、論説を全日分収録するのが最も適切な扱い方であると思う。



画像
・ 福沢自筆の論説原稿  (部分、慶應義塾福沢研究センター蔵)。

※論説の引用に誤読があったため、訂正を加えた。(19/02/27)

   
 
著者プロフィール:都倉武之(とくら・たけゆき)
1979年生まれ。2007年慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。 現在、慶應義塾福沢研究センター専任講師。
専攻は近代日本政治史。 主要業績に、「明治十三年・愛知県明大寺村天主教徒自葬事件」『近代日本研究』18号(2002年3月)、『福沢手帖』115号(2002年12月)、「資料 機密探偵報告書」『福沢諭吉年鑑』31巻(2004年12月)、「愛知県におけるキリスト教排撃運動と福沢諭吉」(一)・(二)『東海近代史研究』25・26巻(2004年3月・2005年3月)、「日清戦争軍資醵集運動と福沢諭吉」『戦前日本の政治と市民意識』(慶應義塾大学出版会、2005年)、「福沢諭吉の朝鮮問題」(『福沢諭吉の思想と近代化構想』、慶應義塾大学出版会、2008年)など。

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