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オリジナル連載 (2007年1月31日掲載)

時事新報史

第12回:水戸出身記者の入社  
 

























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 『時事』創刊から数年のうちに、水戸出身の慶応義塾卒業生4人が記者として入社した。明治15年の高橋義雄・渡辺治(わたなべ・おさむ)、17年の井坂直幹(いさか・なおもと)、さらに明治18年の石河幹明の4人である。なぜ続けて水戸人が採用されたのであろうか。

 このことは、福沢諭吉が遺伝学説に深い関心を寄せていたことと関係がある。元来科学者である福沢は、古くは明治9年の論文で遺伝に言及、明治14年秋に発刊の著書『時事小言』においては、最先端であったゴルトン(Francis Galton)の優生学説に基づき士族血統の維持を主張している。福沢門下の犬養毅(いぬかい・つよし)は、世間で遺伝などということをいう人がいない当時、福沢が盛んに遺伝論を唱えていたことを記憶しており(『福沢先生を語る』)、三田演説会でも遺伝について話した記録がある。

 創刊早々の『時事』でも「先天遺伝の有力なるは決して欺くべからず、また争うべからず」として、人間の外形だけでなく、能力なども遺伝するものであると、次のように主張した。

「武人の子は武を好み、文人の子は文を好む。商人の家に生まるる者は利にさとり、学者の家に生まるる者は学事にさとる。彼の俳優または碁将棋の師家と称する者が血統の世々にその芸を伝うるといい、また封建の時代に儒者医師などに家を限りたるも、無稽(むけい)の法の如くなれども、自ずから遺伝するところのものありて、事実他家の子孫に異なるところあることならん。」(「遺伝の能力」)

 優性学を詳細に説くこの社説は、今日から見れば陳腐化しているが、近代化を急ぐ日本の実情として、国民の知的水準を均質に士族レベルまで向上させるのは現実的ではなく、当面は士族に引き継がれた優秀な資質を活用することに重点を置くべきという福沢らしい結論に行き着く。自ら経営する新聞でも早速これを実践しようと、能文家の多い水戸人に記者の素質を見出し白羽の矢を立てたわけである。


 しかし、水戸といえば頑迷な漢学の本場でもあり、福沢が最も嫌う思想風土ではないのか。確かに、明治10年頃に至っても水戸の教育現場では、洋書はもちろん翻訳書さえ排斥する傾向があった。しかし、当時全国的にそうであったように、この地にも福沢の門下生数名が教師として赴任し、英学の浸透に一役買っていた。最も力があったのは、茨城県師範学校・茨城中学校(師範学校予備科)の教師として明治11年に赴任した松木直己(まつき・なおみ)である。彼は福沢と同じ豊前中津出身で、慶応義塾の事実上の分校・中津市学校で英学を修めた経歴を有し、水戸では教壇に立つかたわら、自宅に私塾を開いて英学を盛んに鼓吹(こすい)した。


松木

 新人記者4人は、それぞれこの松木という人物に教えを受けた者であった。特に親しく英学特訓を受けたのは茨城中学に在籍した高橋と渡辺である。松木は「学校教師としてはやや機略に富み、悪くいうと多少ほら吹きで、輪をかけて福沢先生の偉いことを宣伝し、何だか福沢先生は自分の叔父さんでもあるかのような顔をし」、「福沢先生直伝として漢学排斥論やら民権論、国権論やらを振りまわし、私らを煙に巻いて仕舞うので、私らも始終難問を試みて議論を上下したが、全然小児扱いにされてほとんど切り込むすきがなかった。その間にミルの代議政体、ギゾーの文明論、アダムスミスの経済論などいう、当時初耳の新論を断片的ながらも吹き込まれて私らは大いに啓発する所があった」(『箒のあと』)と、高橋が回想している。

 明治14年初旬、すなわち『時事』創刊の1年ほど前、記者養成について思案していた福沢を、たまたま松木が訪ねたことから、4人の人生は大きく動き始める。

「ちょうどこの頃松木が上京して〔福沢〕先生を訪問すると、この能力遺伝論より段々話が持ち上がって、先生の説に、水戸は黄門光圀(みつくに)の大日本史編纂以来代々学者を招聘して、二百五十年間学者の後胤(こういん)は、藩内に充満しているはずであるから、書生中に文章をよく書くものがあるだろう。この遺伝の能力を空(むな)しうするのは、誠に惜しむべきことだから、如何にもしてこれを利用したいものだが、幸い近々新聞事業を起こすつもりなれば、水戸の学生中より文章の達者なもの四五人を選抜して上京せしめては如何。もしその候補者が定まらば、とりあえず慶応義塾に入れて、卒業するまで当方で一切世話をしてやろうというありがたい話になったので、松木は雀躍(こおどり)して水戸に帰り、この意を私〔高橋〕と、私の無二の親友であった故渡辺治と、今日時事新報主筆たる石河幹明君、及び能代木材会社長たる井坂直幹君に通じた…(後略)」(『実業懺悔』)。

  高橋   井坂   渡辺   石河  
        時事新報時代の水戸出身4記者      

 この話が伝えられたとき、高橋・渡辺は中学卒業後に地元で就職するつもり、井坂・石河は独力で上京するため学費を稼いでいた。4人は、思わぬきっかけから相前後して慶応義塾に入学、卒業して直ちに『時事』の記者となる願ってもない機会に恵まれたのであった。

 これだけ期待された4人であるから、当然福沢に師事して記者として生涯を送ったかというと、どうもそううまくいかない。そのことはおいおい述べていくが、今回は4人のその後の人生をつまみ食いして終わりにしよう。

 高橋義雄(1862-1937)は、15年7月に入社。主に福沢を助けて社説を執筆したが、「売文」に生きることを嫌って実業を志し20年7月に退社。その後も福沢から復帰を熱望されたが断り、三井に入社、三越の近代デパート化の素地を作ったことで知られる。後半生は箒庵(そうあん)の雅号で数寄者として名を馳せる。

 渡辺治(1864-1893)は、15年7月入社。高橋と共に社説執筆に当たり、かたわら会計や印刷の業務にも携わったが、現実政治への関心を深めたため徐々に福沢の不興を買い、22年1月事実上解雇。『大阪毎日新聞』初代社長、『朝野新聞』社長などを務め、衆議院議員にもなったが、30才で病没。号は台水(たいすい)。

 井坂直幹(1860-1921)は、17年1月入社。外報飜訳や経済関係記事の執筆に当たったが、記者としては芽が出ず20年1月退社し、大倉喜八郎の日本土木会社に転じる。のち秋田県能代を本拠に木材産業近代化に尽力、秋田木材株式会社を創立し、こんにち「木都能代の父」と讃えられる。

 石河幹明(1859-1943)は、明治18年5月入社。4人の中で唯一時事新報社に残り、新聞記者としての生涯を送った。福沢没後の主筆を務め新聞界に重きを成すも、大正11年6月に社内紛争で退社。解決後は名誉主筆となり現場には復さず、『福沢諭吉伝』や『福沢全集』の編纂に従事した。

 なお余談ながら、遺伝の話をついでに。福沢の父・百助(ひゃくすけ)は44才で、脳溢血により没している。福沢が、食事や運動にこだわり、さながら「健康オタク」とも呼ぶべき生活を送っていたのは、父の早すぎる死の「遺伝」を意識したものであったようである。幼少からことのほか愛した酒を、後年に至って節せしめたのは、福沢の科学信仰の力であろう。しかし時すでに遅し。福沢は68才で脳溢血に倒れ、その原因は青年時代の大酒にあるといわれる。



資料
・「遺伝の能力」、『時事新報』(明治15年3月25日付)。『全集』8巻にも収録。
・高橋義雄編『福沢先生を語る―諸名士の直話―』(岩波書店、昭和9年)。
・高橋義雄『箒のあと』上巻(秋豊園、昭和8年)、同『実業懺悔』(箒文社、大正4年)。
・『井坂直幹』(大正11年)。
・4人は、水戸の漢学塾・自彊舎(じきょうしゃ)で共に学んだ時期がある(明治11年頃)が、茨城中学の同窓ではない。誤記している資料が多いので特に記しておく。

画像
・松木直己(高橋義雄『箒のあと』上巻口絵)。
・時事新報時代の水戸出身4記者。左から高橋義雄、井坂直幹、渡辺治、石河幹明(高橋は『箒のあと』上巻口絵、渡辺・井坂は『井坂直幹』口絵、石河は慶応義塾図書館蔵〔部分〕)。

   
 
著者プロフィール:都倉武之(とくら・たけゆき)
1979年生まれ。2007年慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。 現在、慶應義塾福沢研究センター専任講師。
専攻は近代日本政治史。 主要業績に、「明治十三年・愛知県明大寺村天主教徒自葬事件」『近代日本研究』18号(2002年3月)、『福沢手帖』115号(2002年12月)、「資料 機密探偵報告書」『福沢諭吉年鑑』31巻(2004年12月)、「愛知県におけるキリスト教排撃運動と福沢諭吉」(一)・(二)『東海近代史研究』25・26巻(2004年3月・2005年3月)、「日清戦争軍資醵集運動と福沢諭吉」『戦前日本の政治と市民意識』(慶應義塾大学出版会、2005年)、「福沢諭吉の朝鮮問題」(『福沢諭吉の思想と近代化構想』、慶應義塾大学出版会、2008年)など。
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