Web Only
ウェブでしか読めない
 
オリジナル連載 (2007年3月6日掲載)

時事新報史

第13回:中上川社長時代の社員たち  
 

























『福沢諭吉の出版事業 福沢屋諭吉』はこちらから 

『近代日本の中の交詢社』はこちらから 

 
 

 中上川社長時代の時事新報社員はどのような顔ぶれで、どのように選ばれていたのだろうか。

 官吏を辞めさせて中上川を社長とすることは創刊計画当初から固まっていたらしく、福沢はその下に、独立の活計を得ず三田に出入りしている義塾卒業生や、福沢家に寄留して秘書のように働いている者達から何人か選んでとりあえず配するつもりであったと思われる。要(かなめ)となる社説執筆には、前回述べたごとく水戸から人材を確保して準備に余念がなかった。ところが、番狂わせは、十四年政変で下野した者が加わったことである。採算が合うかどうか手探りで、もとより不安定な経営は、過剰人員によって、覚束(おぼつか)なさを増すこととなってしまう。

 そこで福沢は、とりあえず入社させた者には転職を促し、目に叶う必要な人材は新たにスカウトして、社員を積極的に入れ替えていった。中上川時代とは、端(はな)から人員整理の期間であったといえるだろう。

 創刊から2年弱ほど過ぎた頃、社説執筆について福沢は、「拙者も中々達者、なお十年位は従前の気力を損することなかるべし。今の新聞社説など少しも苦労と思わず」(書簡804)と、自分の筆で、今は何とかなると自信を見せている。記者達の文筆力について、「新聞の社説とて出来る者は甚だ少なし、中上川の外には、水戸の渡辺、高橋、また時としては矢田績(やだ・いさお)が執筆。その他は何の役にも立ち申さず、不文千万なる事なり」(書簡830)と述べている。当時40歳代後半の壮年で、気力体力とも充実していた福沢。経営のことを考えれば、多少無理をしても人員を切り詰めることを優先する方針であったといえよう。したがって、ある程度文章力があり社説執筆に関与していた者さえ、就職口があればどうぞお辞めなさい、というのがこの頃の福沢の方針であった。たとえば創刊から記者として在籍し、時々社説執筆にも加わったという矢田が、新たに創刊される『神戸又新日報』に移るときの経緯を見てみよう。

 『時事』の給与に不足を感じていた矢田は、神戸の新聞に論文を投稿して副収入を得ていた。その文章が神戸の有力者の目にとまり、新たに創刊する新聞で主筆を任せたいと福沢に依頼があったのは明治17年4月頃のことである。しかしいつつぶれるとも知れない新聞のために東京を去りたくない矢田は、断る理由が欲しく、福沢の右腕といわれた義塾の重鎮・小幡篤次郎(おばた・とくじろう)の所に相談に行く。

矢田

「小幡先生は私に向かってあなたは手紙が書けますかといわれました。私は手紙位は書けるつもりですと答えると、手紙が書ければ立派なものだ、田舎の新聞の論説は、手紙が書ける人なれば立派に書けると言わるるので、私もそんなものかと思いましたが、元来が余り行きたくないので大いに躊躇してグズグズしていると、福沢先生からは私の下宿屋へことさらに先輩中上川彦次郎君を遣わされて、是非とも神戸に行けと勧められました。」(矢田績『福沢先生と自分』)

 こうして思惑の外れた矢田に、次のような福沢の書簡が届いて追い打ちをかける。

「今度神戸新聞社より聘招の義これ有り候らえども、永久の見込みなきをもって、ご承諾相成らざるよし。一応ごもっとも千万に候らえども、目下世の中に仕事少なき時節、時事新報社とて実は会計の困難、諸氏のこの社にいるは、仮のステーションにして、もしも他に地位のあるあれば、さっさと行かずしては叶わず。固より莫逆(ばくぎゃく)の朋友一処に団欒たるは好ましきことなれども、人力に叶わぬものは会計の一条なり。かかる時に当たりて、いやしくも仕事とあれば、何はさておきまず出掛け候よう致したきことに候。」(書簡856)

 出版事業(旧出版社)の資金運用で痛い目にあい、この当時債務整理に追われていた福沢はその事に触れて、次のように続ける。

「時事新報と申す社の名あれば、何かその社には無主の資本にてもあるように思われ、こと急なれば社にて如何ようにもなるなど、随分一時の考えに浮かぶことなれども、無より有を生ずるの理なし。段々積もりて社の負債となり、その負債の極度は、また第二の旧出版社の如く相成るべく、こりごりいたし候ことなり。故に今日の処は、本社のためを思うても、神戸の方へお出で下されたく、くれぐれもお頼み申し候。」(同上)

 さっさと行けとか、こりごりだとか、この書簡を受け取った矢田は、さぞ複雑な心境だったろう。こうして矢田は、神戸行きを決断せざるを得なくなるのである。

 同じく創刊から在社し、17年7月に外務省に出仕することとなった波多野承五郎についても、福沢は、米国留学中の息子にあてた書簡で「波多野承五郎氏は外務省の出仕を命ぜられ、月給百円なり。時事新報社も毎月損毛には相成らず候えども、人の多きに過ぎ困る折柄、一人にても役人になる方、本人の幸いのみならず、新報社の都合にも相成り候ことに候」(書簡883)と、社のためにも本人のためにも転職が望ましいと述べている。

 福沢は、彼をサポートする中上川と、生え抜きの高橋・渡辺両水戸出身記者に絶大な信頼と期待を寄せていたからこそ、他の記者は「仮のステーション」の身としかとらえていなかった。雑報を書いたり、外報を飜訳したり、校正、印刷指示、営業などをしていた社員は、さしあたって定職のない福沢周辺の者がやっていたという感じが否めない。ある程度文章が書ける者も、『時事』の記者として育成する気はなく、各方面に巣立って行くことを歓迎したのだ。

 追い出す一方で福沢は、「これは」という門下の人材をスカウトした。のちに『大阪毎日新聞』社長となる本山彦一(もとやま・ひこいち)には創刊直前から、「必ず御出京、ご加入下された」いと書き送り(書簡639)、ロンドンから論文を寄稿していた日原昌造(ひのはら・しょうぞう)に宛てても「御帰朝の上は、新聞のことをも大兄と共に致したきように存じおり候」(書簡911)と、熱烈なラブコールを送っている。本山は明治16年早々に入社、日原は入社こそしなかったが、継続的に論文を執筆して福沢の筆を助けた。

 「仮のステーション」枠は、人が入れ替わりながら、常に存在した。その採用はもっぱら福沢がおこなっていたようである。たとえば明治16年初旬頃入社したらしい竹越(当時は清野)与三郎(たけごし・よさぶろう)は、回想の中で、「福沢先生に、私も金がなくなったし困ると言ったら、そうかそれならまあ時事新報へ来なさいと言うので時事新報に入った」(「竹越与三郎氏談話速記」)と語っている。同様の話では、中上川退社直前(明治20年初旬)に入社する山名次郎(やまな・じろう)の回想が、かなり詳しい。

「〔福沢〕先生の所に行ってみると、同級生の川上熊吉という先客があり、待つ間のつれづれに話をしてみると、私と同じく時事新報入社の希望で先生の所に来たのだという。私はこれを聞いて内心大いに困った。やがて川上君が先に呼ばれて先生にお会いしたが、出て来た顔が甚だ浮かぬ色なので、「どうだった」と聞いてみると、「あなたは商館の番頭がよいと先生からいわれた」とのことで、私も内心ビクビク甚だ不安になってきた。しかし、私は大いに自らの心を鞭撻して、先生に呼ばれるや、先手を打って前もって考えておいた自分の決心をとうとうと述べ、「是非時事新報社に入れて下さい」と熱誠をこめてお願いした。私はその時、文章も大いに勉強してうまくなるつもりでありますから、八十円くらいは月給ももらえるようになると思います、したがって自分の生計も立つことなど、甚だ虫の良い自分勝手を無遠慮に三十分ばかりまくし立てたのであるが、先生は始終黙って聞いておられたが、「大変考えて来ましたね。まあ新聞は東京でなくとも田舎にもある。とにかく今日交詢社でまた会いましょう」といわれた。そこで、私は午後交詢社にお訪ねした所、時事新報社で会われ、まず当時時事新報社長たりし中上川彦次郎氏のテーブルの所に連れて行き、「どうだ、この人は薩摩芋だが、新聞記者をやってみようという変わり者だ。中々面白い人だから一つやらしてみようじゃないか」といわれ、無造作にすぐ採用された。」(山名次郎『偉人秘話』)

 随分気まぐれな採用のように見受けられる。ちなみに竹越はすぐに辞めてしまうが、その時の事情についてはこう述べている。

「どうもやはり私が〔慶応義塾の〕正当の卒業をしないし、社内には一種の「グループ」が出来ておって、一向手が伸びないのです。それで私は福沢先生に、罷めますというと、先生はどういうわけだというから、もう少し広い世界へ出てみようと思いますからと手紙一本で出てしまったのです。」(「竹越与三郎氏談話速記」)

 このように、入社も退社も至ってルーズで、福沢自身が「仮のステーション」と言ったほどだから、真に社会人として独り立ちするまでの腰掛け程度で在籍することが許されていたとみえる。会社組織として成熟することには余り関心が払われず、もっぱら福沢個人が人事を統括する形で中上川時代は過ぎていくのであった。ちなみに、福沢書簡を見る限り、社の収支がだいたいトントンになるのが明治17年中頃、利益を上げ始めるのは18年頃である。

 最後にこの時代の社員の顔ぶれを掲げておきたい。中上川時代について、残されている記録をあれこれ総合して、在籍していたと思われる者の名を集めてみたものである。未だ万全なものではないことをお断りしておく。(下線は中上川時代途中で退社した者)

【創立時在社】
中上川彦次郎、飯田平作、伊東茂右衛門、牛場卓蔵岡崎亀雄、岡本貞烋、須田辰次郎、津田純一波多野承五郎、森下岩楠、矢田績、小幡篤次郎(客員)

【途中入社】
飯田三治、井坂直幹、石河幹明、伊藤欽亮、井上角五郎、岩本述太郎、岡本利兵衛、清野(竹越)与三郎、桑田(三宅)豹三、小金井権三郎、高木喜一郎、高橋義雄、竹下権次郎、津田興二、村田彬本山彦一、山名次郎、渡辺治、日原昌造(客員)

【入社時期不明】
石川半次郎、江口源治、岡崎郁二郎、小野田孝吾、金子静一、金子友之助、川上精一、河野頼策、小原(左近)与之助、鈴木千巻、長尾喜三、夏目力蔵、平塚源太郎、馬越章造

【名目役職者】
大崎(牧野)鈔人、箱田半三郎、福城□〔一字不明〕朗


資料
・書簡番号804、明治16年11月24日付福沢一太郎・捨次郎宛、『書簡集』4巻。
・書簡番号830、明治17年2月1日付福沢一太郎・捨次郎宛、『書簡集』4巻。
・矢田績『福沢先生と自分』(昭和8年)。
・書簡番号856、明治17年4月14日付矢田績宛、『書簡集』4巻。
・書簡番号883、明治17年7月20日付福沢一太郎宛、『書簡集』4巻。
・書簡番号639、明治15年2月21日付本山彦一宛、『書簡集』3巻。
・書簡番号911、明治17年11月19日付日原昌造宛、『書簡集』4巻。
・「竹越与三郎氏談話速記」(『政治談話速記録』第6巻、ゆまに書房、平成11年)。
・山名次郎『偉人秘話』(実業之日本社、昭和12年)。

画像
・青年時代の矢田績(『懐旧瑣談』、名古屋公衆図書館、昭和12年)。『神戸又新日報』主筆となった矢田は、10年以上勤めたのち三井銀行に転じて名古屋に派遣され、そのまま名古屋財界の重鎮となった。

   
 
著者プロフィール:都倉武之(とくら・たけゆき)
1979年生まれ。2007年慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。 現在、慶應義塾福沢研究センター専任講師。
専攻は近代日本政治史。 主要業績に、「明治十三年・愛知県明大寺村天主教徒自葬事件」『近代日本研究』18号(2002年3月)、『福沢手帖』115号(2002年12月)、「資料 機密探偵報告書」『福沢諭吉年鑑』31巻(2004年12月)、「愛知県におけるキリスト教排撃運動と福沢諭吉」(一)・(二)『東海近代史研究』25・26巻(2004年3月・2005年3月)、「日清戦争軍資醵集運動と福沢諭吉」『戦前日本の政治と市民意識』(慶應義塾大学出版会、2005年)、「福沢諭吉の朝鮮問題」(『福沢諭吉の思想と近代化構想』、慶應義塾大学出版会、2008年)など。
ブログパーツUL5

他ジャンル

ジャンルごとに「ウェブでしか読めない」があります。他のジャンルへはこちらからどうぞ。
ページトップへ
Copyright © 2005-2006 Keio University Press Inc. All rights reserved.