Web Only
ウェブでしか読めない
 
                 
オリジナル連載 (2008年1月15日掲載)

時事新報史

第21回 中上川社長の退社

 
 

























『福沢諭吉の出版事業 福沢屋諭吉』はこちらから 

『近代日本の中の交詢社』はこちらから 

 

福沢の筆と中上川の経営手腕により、『時事』は確かに東京で第一の新聞と称されるようになっており、日々の社内統括については中上川に基本的に任されていた。

一方で、中上川は新聞経営に飽きたらなさを感じるようになっていた。明治18年頃より、実業界に関心を深め、貿易商として活躍していた慶応義塾出身の甲斐織衛(かい・おりえ)と共に商事会社を設立する計画を進め始めた。これは福沢も知るところで、資金面でも相当協力的であったところを見ると、この時点での中上川は、新聞との兼業で手がけるつもりだったようである。ところが銀貨の下落に伴い資金繰りが覚束なくなり、将来性に疑問を持った福沢は、一転「資本は一文も出さぬ」と消極姿勢に転じたため、この事業は始動前に暗礁に乗り上げてしまった。「時事新報も目下既に基礎確定必ずしも小生の在社するを要せずとは申すものの、小生の身には色々の関係ありて一概に自由わがままの働きをなすわけにも参りがたく、種々ひとり考案中にござ候」(19年12月9日付本山彦一宛中上川書簡)と、中上川は鬱屈した思いを秘めて、19年末の南鍋町への社屋移転の陣頭指揮を執っていた。

明けて20年元日に出された本山宛中上川書簡には、新天地を求める抑えられない心情が表明されている。

時事新報は慶応義塾社中の熊本城なり、陰に陽にこの城のために慶応義塾社中のその名誉利益を全うすること少小ならず、この城を築いてこの城を守る城将の面目この上あるべからず。中上川もこの城に終始して遺憾なきはずなれども、凡夫にうぬぼれなきはなし、中上川も凡夫の一人として時事新報の一業を成すのみに満足し得ざるのうぬぼれあり。それがために年中心配の絶え間なきことにござ候。ご一笑ご一笑。

そんな中上川に、ひと月も経たないうちに転機が訪れる。福沢門下で、三菱の幹部であった荘田平五郎から山陽鉄道会社による大規模な鉄道敷設計画(神戸下関間、現JR山陽本線)について聞かされ、同社の初代社長になってはどうか、という話がもたらされたのである。これに中上川が食いついたのはいうまでもない。早速方々に周旋を開始し、福沢にも相談した。福沢は、既に同社の発起人会による創業準備が報じられていたことから、中上川の社長就任実現に半信半疑であり、かつ『時事』の将来を思えば困惑を隠すことが出来なかった。この件について中上川と発起人たちの仲介をしていた大阪在住の本山彦一に宛てた書簡は、なかなか正直である。

今度の鉄道については過日荘田氏よりごく内々彦次郎へ懇談これあり、老生も熟考候ところ、随分面白きことにつき、従事しかるべき旨申し置き候。もとより未定の義、深く信じも致さずそうらえども万々一これがほんとうに相成り候ときは、新聞社は如何致すべきや。老生も今日なおいまだ老したるにあらず、全力を用いたらば新聞社の始末位は出来申すべく存じそうらえども、としよりの冷や水、あまり面白くもこれなく、かつ余暇あらば生涯にいま一事致したき文学上〔学問上の意〕の道楽もこれあり、かたがたもって新聞紙の方へ少々閑をぬすみたき素心、ついては編集の方の執筆は日原〔昌造〕氏などへ談じたらば少しは出来申すべく、これは中上川を要せずそうらえども、全体の監督注意、会計の渡辺なども実は壮年、中上川なくして独歩は少々不安心、かつまたもしも今日中上川が社を去りたらば、社中壮年一時に功名心を起こし、われもわれもとあたかも勃起して諸方に仕事を求め、新聞社などは隠居の仕事などとてこれを蔑視して、人々皆うきあし相成るべきは必然の勢い、これにも困り申し候。如何致してしかるべきや、お考えくださるべく候。(明治20年2月13日付本山彦一宛福沢書簡)

この頃の時事社内の様子をみてみると、編集局内で福沢直属の「執筆」(社説記者)は、福沢、中上川のほか、高橋義雄、渡辺治の4人であった。中上川が抜けると残りは3名だが、横浜正金銀行の日原昌造など、従来からの社外協力者の助力を請えば大丈夫であろうとの見通しであった。問題は、社内を統括していた実質的な社長がいなくなるということである。福沢は「老生も壮年とともに新聞紙などはなんのそのと見なし、誰へか放任せんかと存じ候こともこれあり」(同)といいつつ、『時事』の担うべき役割について使命感も感じていた。

今後の日本国中にことをなさんとするには新聞紙は甚だ必要にして、すなわち今度の鉄道のためにも欠くべからざるものならん。それこれ思えば、辛苦これまでに出来たる新聞紙を、馬鹿者の手に渡すも残念なり。実に当惑の次第、ただ人物さえあれば維持は易し。(同)

こうして福沢は、中上川の後任となるべき人物が定まるまで、自分がその役回りを演じる覚悟を固め、連日多忙を極めるようになる。

3月に神戸入りした中上川は4月5日、正式に山陽鉄道会社創立委員総代に選出され、同月22日、一時帰京した彼の送別会が銀座交詢社において催され、70名余りが来会した。この日、福沢は次のように演説したと、警視庁のスパイが記録している。

中上川氏が鉄道会社長に聘せられたるは真に喜ばしきことなり、同氏は今後とも決して時事新報社と縁を絶つものにあらず、一年のうち半年は神戸に住し、半年東京に住するという、ゆえにやはり前の如く時事新報へは手も出し足も出すはずなり、また神戸に住するときは時々社説の起草を送り、または肝要なる記事を送らるべし、ゆえに時事新報社員はもちろん、一般同氏の知己もまた、右様思し召されしことを望む云々。(「三島通庸関係文書」)

この報告が正確に福沢の言葉を伝えているかどうかわからないとしても、福沢の未練がましい言葉は、社員に向けてというより中上川に向けたものであったろう。なお、この少し前、福沢と中上川の間には、今後時事の純益について、その5分の1を中上川に与えるという内約が交わされていた。これは「レッテツ」(劣姪)と呼びつつ溺愛した甥が東京を旅立つに当たっての「親心」だったものか、その後25年9月まで継続された記録がある(「新聞紙差引中上川関係」)。

中上川の山陽鉄道着任を『時事』(20年4月8日付)は次のように記している。

中上川氏は時事新報創立以来最も新聞紙のことに尽力し、かねて鉄道論者中の一人にして、欧州の事情にも明なる人物なれば、山陽鉄道会社資金に乏しからざるその上に社長その人を得たり。東京より東青森に至るまで日本鉄道会社あり、西大津に至るまで東海道鉄道あり、これに接して神戸より馬関に至るものは、すなわち山陽鉄道にして、これを今日日本帝国三大鉄道というも可ならん。

中上川退社に当たっての時事新報社員集合写真

こうして中上川は時事を去っていった。

さて、中上川去って後、時事は福沢一人が切り盛りした。3月から4月にかけての書簡には、その姿がかいま見える。「私は近来誠に忙わしく、毎日時事新報にあり」(3月1日付、中村道太宛)、「中上川が新聞紙を去りては、拙者は少々困るわけなれども、ことの軽重大小あり。かつ拙者もなおいまだ老衰したるにあらざれば、新聞は今しばらく勉強、拙者一人にて担任のつもり」(3月7日付、福沢一太郎宛)、「新報社の方は、拙者が少々勉めれば何も差し支えはこれなく候」(4月13日付、福沢一太郎宛)といった記述がそれである。

余裕の口ぶりが一転、緊張し始めるのは、わずか数か月後の初夏の頃であった。「執筆」のメンバーが次々と退社を臭わせ始めたのである。7月9日付福沢一太郎宛書簡は「新聞社は実に忙しく、彦次郎が山陽鉄道へ参り候のちは、拙者一人にて、高橋と渡辺を加勢にして、今日まで参りそうらえども、この高橋も渡辺も実は当てになり申さず。既に渡辺などは、今度水戸の旧殿様が公使を命ぜられ、ヨーロッパへ参るに付き、渡辺もその付属を内願し、あるいは出来申すべき様子。左様相成るときは、なおさら拙者は困り入り候」とその様子を伝え、さらに7月20日付伊吹雷太宛では、「新聞社はますます無人にあいなり、暑中も寸暇を得ず、誠に当惑いたし候」、7月27日付中上川宛では「高橋はいよいよ社を去りて、昨日より養蚕地方へ出掛け候。渡辺はまず十月頃までと申し」云々と、「執筆」のメンバーが総崩れとなっていくさまが書き残されている。

中上川という創立以来の「重し」が不在となって、5年にわたって積み上げられてきた時事の秩序は、音を立てて崩れ始めていた。これは、『時事』が迎えた最初の危機といって差し支えないであろう。


資料
・明治19年12月9日付、20年1月1日付本山彦一宛中上川書簡(『中上川彦次郎伝記資料』、東洋経済新報社、昭和44年)。
・明治20年2月13日付本山彦一宛書簡、『書簡集』5巻。
・「三島通庸関係文書」537-16(20年5月5日付)、「資料機密探偵報告書」『福沢諭吉年鑑』31号、平成16年12月所収。
・「時事新報関係中上川勘定記録」、『全集』21巻。
・「山陽鉄道会社」『時事』(20年4月8日付)。
明治20年3月1日付中村道太宛、同年3月7日付福沢一太郎宛、同年4月13日付福沢一太郎宛、同年7月9日付福沢一太郎宛書簡、同年7月20日付伊吹雷太宛、同年7月27日付中上川彦次郎宛各福沢書簡、『書簡集』5巻。

画像
・明治20年4月22日、銀座二見楼で中上川の退社記念で撮影された時事新報社員集合写真。前列中央に帽子を持つ福沢、その右に中上川。全員洋装である。慶應義塾福沢研究センター蔵。


   
著者プロフィール:都倉武之(とくら・たけゆき)
1979年生まれ。2007年慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。 現在、慶應義塾福沢研究センター専任講師。
専攻は近代日本政治史。 主要業績に、「明治十三年・愛知県明大寺村天主教徒自葬事件」『近代日本研究』18号(2002年3月)、『福沢手帖』115号(2002年12月)、「資料 機密探偵報告書」『福沢諭吉年鑑』31巻(2004年12月)、「愛知県におけるキリスト教排撃運動と福沢諭吉」(一)・(二)『東海近代史研究』25・26巻(2004年3月・2005年3月)、「日清戦争軍資醵集運動と福沢諭吉」『戦前日本の政治と市民意識』(慶應義塾大学出版会、2005年)、「福沢諭吉の朝鮮問題」(『福沢諭吉の思想と近代化構想』、慶應義塾大学出版会、2008年)など。
ブログパーツUL5

他ジャンル

ジャンルごとに「ウェブでしか読めない」があります。他のジャンルへはこちらからどうぞ。
ページトップへ
Copyright © 2005-2006 Keio University Press Inc. All rights reserved.