Web Only
ウェブでしか読めない
 
                 

オリジナル連載 (2012年05月24日掲載)

時事新報史

<第28回>

時事新報と演劇改良(2)
団菊への期待と不満

 
 

























『福沢諭吉の出版事業 福沢屋諭吉』はこちらから 

『近代日本の中の交詢社』はこちらから 

 

 

 歌舞伎は、その名が「傾く」(かぶく)から来ているように、元来反権威、体制批判的なニオイを背景とした庶民の娯楽、猥雑でアウトローな存在で、役者の社会的地位も低かった。劇場も不体裁で、その興行は当たるも八卦、当たらぬも八卦というばくち同様で、劇場が差し押さえられたり、上演中にガスが止められて照明が消えるというようなことが現実に起きていた。あらゆるものを西洋流にしていく欧化熱のただ中にあった維新後の日本で、歌舞伎も西洋流の演劇へと改良していくべきだという声が高まる。オペラのように、外国から賓客を招いた際もてなす、社交の場に模様替えすべきだというのだ。

 このような声は、実際に賓客をもてなす必要に迫られた政府要人の間で強くなり、能は猥雑さがないとして、いちはやくそのお目にかなったのだが、歌舞伎は原点が原点なので、ハードルはなかなか高い。まずストーリーそのものがいけないという。歌舞伎には超人的な霊力を持つ人物の登場する「荒事」(あらごと)と呼ばれるジャンルがあったり、明け透けにいえば、売春、惨殺のようなシーンが少なくない。このように荒唐無稽だったり、高尚とはいえない話では、賓客にとても見せられないというのが第一点。次に男が女も演じるという女形のような不自然なあり方を改めたり、社会に重んじられる高尚な人物が役者となるべきという議論が第二点。さらに大人数を収容し、清潔で快適、客席と舞台を分離(花道も廃止)し、経営も合理化した劇場を設けるべきというのが第三点。

おおよそこのような問題を解決することを目的に、明治19年8月、政府の肝いりで、演劇改良会なる組織が結成された。この動きに反応して、『時事新報』も立て続けに社説で演劇について論じ始めた。しかし、前回記したように福沢は歌舞伎はおろか、田舎芝居すら見たことがない、ずぶの素人。この時の社説は、改良会の主張に大方沿ったもので、通り一遍で面白みに欠けるように感じられる。

 

…芝居は社会の風俗男女の気風に容易ならざる影響を及ぼすものにして、決して軽々に看過すべきものにあらず。今の日本社会を改良せんとするには今の芝居を改良することのごときも無論その重要の部分を占むるものたるべし。近日井上外務大臣、森文部大臣をはじめ朝野の諸名士同感をもって相集まり、演劇改良会と称するものを起こして広く会員を募り、大いに今の日本芝居を改良せんとするの企てあり。我輩の甚だ同感賛成するところにして、諸氏の労の空しからざらんことをあくまで希望しておかざるなり。(「芝居の維新」明治19年8月9日付)

 

改良会の動きが一つの実を結ぶのが、翌年4月に麻布鳥居坂の井上馨邸で行われた天覧歌舞伎である。明治天皇はじめ皇族の前で歌舞伎が披露されることによって、梨園の地位は飛躍的に向上した。天覧に値する文化芸術であることが内外に示されたわけだ。福沢が初めて新富座に足を運んで観劇したのはその天覧の前月のことであった。福沢の性分として、歌舞伎の空気を知りもしないのに、天覧を云々することは良しとしなかったのだろう。『時事』は、福沢の初観劇を次のように報じている。

 

…〔福沢が〕江戸に来たりて三十年、演劇のことを忌むにもあらず、時としては悦んでその談を聴き、また語ることもあれども、自ら見物を思い立つは兎角おっくうなる様子にて、されば今日という日もなく、遂に独醒翁の姿になりしが、昨年来芝居改良の説もありて、この世の中に一度も芝居を見たることなしというも余り異なものなり、時もあらばといいながらまた数か月を過ぎ、ようやくにして本月二十一日家人に伴い新富座の見物に出掛けたり。実にこの日こそ先生が日本の芝居に関して生来の第一日なり。(明治20年3月28日付雑報)

 

この観劇が、痛く福沢を感激させた(洒落ではない)。この記事はおそらく福沢自身の筆で、文中の「独醒」の語を含む、次のような漢詩を作っている。

 

誰道名優伎絶倫  誰かいう名優の伎(わざ)は絶倫なりと
先生遊戯事尤新  先生の遊戯事はなはだ新たなり
春風五十独醒客  春風五十独り醒むるの客
却作梨園一酔人  却って梨園の一酔人となる

 

今までひとり醒めて芝居など見なかった福沢が、50を過ぎてはじめて歌舞伎を見て、「一酔人」になったというわけだ。以後の福沢はたびたび芝居小屋へ通い、役者もしきりに福沢を訪ねるようになった。福沢が中津の旧友に送った手紙に「団十郎、菊五郎、左団次など申す者どもを拙宅に呼び、芝居の芸談に及び、随分味あるが如し。何芸にても日本一と申す者は微妙に入るもの多し」(山口広江宛福沢書簡、明治23年7月8日付)と書いたものがある。随分熱が入っている書きぶりだ。以後『時事』と梨園の関係も急に深みを増していった。

 

団十郎を描く時事新報のチラシ

画像1 団十郎を描く時事新報のチラシ

 

ところで、当の歌舞伎役者たちは、演劇改良の風潮にどう向き合ったのだろうか。時の歌舞伎界は「団菊左」の時代。すなわち九代目市川団十郎(1838-1903)、五代目尾上菊五郎(1844-1903)、初代市川左団次(1842-1904)の黄金時代で、とりわけ、団十郎と菊五郎は維新後の歌舞伎のあり方を模索しつつ、しのぎを削ったライバル同士であった。

団十郎は、歌舞伎が直面した「近代」という課題に、不器用と思われるほど真正面から取り組んだ。とりわけ荒唐無稽なストーリーを、実写的、現実的なものへ改良することに力を注ぎ、それらは「活歴物」(かつれきもの)と呼ばれた。この呼び方はもともと、活きた歴史(つまり芝居としては面白くない)という揶揄から来ているのだが、団十郎はこの呼称を意外に気に入り、今日流にいえば時代考証を行うことに熱中する。そうして演じ方や衣装の定着していた作品も史実に即して再解釈し、書き下ろし作品も同様のテイストで上演した。団十郎といえば抑制の効いた「肚芸」(はらげい)で知られたのも、リアリズムの追求と理解できるのだろう。団十郎による一連の活歴は、見物には実に不評で不入りを重ねたが、歌舞伎の近代を模索する信念に貫かれており、新しい時代を切り開いていく使命感は誰よりも強固であった。さらに、男女混合で演じるべきとの議論に応えて、二人の娘を女優として舞台に立たせたり、フランス人女優と共演したりと様々な試みを行った。

この姿勢が、梨園の地位向上と歌舞伎の演出方法の確立に大きく貢献したと、今日では高く評価される。歌舞伎を日本が誇る文化に洗練させていく牽引役になったことは間違いないだろう。

菊五郎は直情径行の江戸っ子気質で情に厚い。新しもの好きで、凝った役作りや道具の工夫を好み、世相を反映した生世話物と呼ばれるジャンルを得意とした。時事ネタを織り込むアドリブなどもお手のものだった。外国人でも動物でも、面白そうなものを芝居にどんどん取り入れる反面、演劇改良にうさん臭さを感じて心中では反発を覚えつつ、政府方針でもあり渋々従っていた。名コンビの狂言作者河竹新七は、改良、改良の風潮に嫌気がさして引退を表明、その後は「黙阿弥」を名乗り、その黙阿弥と組んだのが、前回詳述した例の「風船乗」だったことを思い出して欲しい。

さて、福沢の観劇以後の『時事』の論調は、いかにも福沢的文明論の発想で、上からの押しつけがましい改良を嫌い、しかし現状をよしとはせず、合理的、現実的に好転させていく姿勢といえる。まず演劇改良そのものについては、次のように説いている。

 

見物人の品格の高尚に赴くと共に、芝居もまたこれに誘われて徐々に地位を進むるのほか、手段なきことならん。如何となれば、今の芝居は正に今の人心に適し、これより少しく高尚にすれば少しく見物人を失い、大いに高尚にすれば大いに入りを減ずべければなり。(「芝居論」明治20年11月3日付)


強いてこれ〔演劇改良〕を行うときは、芝居浄瑠璃、正雅に改良したり、ただしこれを見物聴聞する者は一人もなしなどいう奇談なるべきのみ。しかりといえどもこの種の改良は人文の進歩と共に自然に行わるるもの…。(「演劇演芸の改良」明治21年6月9日付)


改良の議論は如何に美にしてその注意は如何に丁寧なるも、今の日本の経済と人情とに訴えて許さざる限りは、しばらくこれを無用の空論として視るべきのみ。(「芝居改良の説」明治21年10月9日付)

 

世の人々のあり方が高尚に進歩していったなら、おのずと演劇も進歩するものであり、人心に沿わず、ひとり演劇だけを高尚にしても人が入らないだけで意味が無い。個人一人一人が変われば、おのずと国も変わるという「一身独立して一国独立す」という語に示される発想とパラレルに捉えることができるだろう。つい先年の社説とは、随分趣が異なっている。ちなみに「芝居改良の説」では、芝居脚色は学者の作であるべきとの説については、芝居を直接「人事世教」(社会の現状や道徳の改良)に用いようとする「大間違い」だと手ひどく批判、女形廃止の説については「西洋癖の愚」で、日本古来の芸である女形を続けて「何の故障あるや」と書き、さらに西洋には無い女形の芸をますます研究し、「もって梨園独歩の長技多芸を誇らん」と説くなど、歌舞伎本来の伝統を日本の演劇の独自性として大切にすべきとの傾向が強くなっている。面白いのは福沢が、歌舞伎のセリフの芸術性、文学性に着目していることだ。

 

ここに我輩が文壇の一士人として芝居の見物に利する所をいえば、鳴物にあらず、立回り所作にもあらず、ただ有益なりと思うところは浄瑠璃の文句と、ことにその掛け合いせりふの妙処にあるのみ。…文法は学問にしてこれを知るに道あり。その道に限りありといえども、文章の妙は学問以外に属し、全く芸術のことにして、その人の天賦と経験熟練に存すること、あたかも芝居の芸に似たるもの…俳優の一種族は少小の時より畢生の力を籠めて言語の用法に注意し、厘毫の巧拙をもって栄辱を争う者なれば、その上乗に達したるは論をまたず…」(「芝居論」明治20年11月3日付)

 

ただし興行方法や劇場の経営者、役者の姿勢については大幅な改善を勧告する。

 

改良の要は、芝居の当局者たる座主も役者も、ようやく磊落の気風を脱して商売の主義に近づき、道楽を転じて正業に帰するにあるのみ。当局者当事者にしてひとたびこの辺りに思い得たることもあらんには、その営業をもって身を立て、家を起こすは決して難からず。如何となれば、日本の芝居は所得の薄からざるものなればなり。いわんや俳優の優等なる者は日本一と称し千両役者と呼ばれ、その真実はともかくも、世人の評するところにて他人の得て争うべからざる伎倆をもっぱらにするにおいてをや。実にその道においては日本国中の大家というのほかなし。この大家にしてその家はすなわち貧なりという。畢竟祖先伝来の遺風にて人事に迂闊なるの罪なれば、今にして早くその図を改むるは、我が国梨園のために急要のことなるべし。(「芝居改良の説」明治21年10月9日付)

 

興行を道楽から「正業」にすること、さらに「芸ある者はその芸を呈して正当の報酬を申し受け、いわれなき祝儀などは勉めてこれを謝絶する」などして風紀も向上させ、役者も独立していくことを説き、また茶屋を通してチケットを買う不明朗会計を批判して、その改良を促している。

あれこれ理屈を大所高所からのたまって、実際の世の中に何ら変化を与えない学者先生や政治家を福沢は最も嫌った。やれることを積極的にやってみて、主張の実現を模索してみるというのが『時事』の行き方だった。そこでまず福沢は、自ら台本を書いてみようと思い立ち、「四方の暗雲波間の春雨」(よものくらくもなみまのはるさめ)という芝居を作り始めた。これは、プロイセンとブルガリアの両王室間の縁談を巡るヨーロッパ諸国の駆け引きを描いたもので、明治21年頃書かれたものらしく、当時の諸新聞には脱稿したと書いているものもあり、ビスマルク役に擬せられていたのは団十郎だったという。

 

福沢自筆「四方の暗雲波間の春雨」

画像2 福沢自筆「四方の暗雲波間の春雨」

 

しかし、今日伝わっているのは、文字通りのあらすじで、全文を『福沢諭吉全集』で読むことができるものの、台本とはほど遠い。遂に完成しなかったのか、完成したもののボツとなったのか。その辺の事情は今後さらに探索してみたいが、同時期に『東京日日新聞』の福地桜痴も歌舞伎台本の執筆に着手、明治22年の歌舞伎座の開場にも関与して、その後狂言作者としての地位を確立する。福沢と福地は幕末からの旧知の仲だが、維新後の政府との距離の取り方では真逆の道を進み、独立の福沢に対して御用新聞の福地となった。ジャーナリストとして「天下の双福」と並び称されたこともあったので、あるいはこの辺りと福沢の台本立ち消えが関係しているのでは無いかと筆者は邪推する。

福沢の台本は実現しなかったが、次に『時事』が始めるのが、読者からの劇評募集だ。やってみるタイミングがいかにも福沢らしい。福沢は、社会が何かに一途になっている状態を不健全と考え、わいわいと多事争論が行われることこそが社会発展の種であると考えた。だから、日本人が老いも若きも男も女も、一つの話題で持ちきりという時には、それをわざと壊そうとする。特に持ちきりの話題が「政治」であるとなおさらだ。明治23年はまさにそういう年だった。大日本帝国憲法が施行され、帝国議会が開会したこの年、福沢は眉間にしわを寄せていたのだ。日本の憲政史上初の総選挙が行われ、議会の開院を今や遅しと全国民が待っていた頃、『時事』が掲げた社説は題して「芝居もまた談ずべし」(明治23年7月29日付)。

 

…近来日本社会はほとんど政治一色にして…政治のほかに人事の談ずべきものなきが如き有様あるは、サテサテ窮屈なることどもならずや。かかる窮屈なる政治談の中に、ひとりその語頭を転じて芝居のことなど談じたらば、世人は我輩を変調者視してひそかに驚惑することならんといえども、芝居も人事中の一要具にしてその優美温雅なるをもって人心を和らぐべく、その高尚活発なるはもって志気を励ますべく、完全愉快なる想像的の芝居は、不愉快不完全なる政治的の活劇と正しく相映照して澆季(ぎょうき)の薄俗を戒むるに足れり。かつこの政治一色の社会に我が時事新報社において今度芝居の評などを募りて文芸上より技術上より世人と共にこれを楽しまんと欲するは…人事の多岐多端なる一方に凝りて、他を忘るることなからんがため、政治論の騒々しき中にも政治以外のことにつき十分その発達を謀りて、共々に人文の進歩を致すこと甚だ肝要なりと信じたるがゆえなり。

 

社説の4日前から紙面に載った広告「芝居評を募る」にはこうある。

 

芝居は至って微妙なるものにして、その評もまた容易のことにあらず。滔々(とうとう)たる俗評かえって名優をして泣かしむるもの多かるべしと思い、時事新報は…芝居の評を広く天下に募り、無双の名什(めいじゅう)に美麗なる絵を添えて紙上に掲げ、敢えて芝居評の清光をもって梨園を照らさんと欲するものなり。(7月25日付)

 

劇評に添えられた左団次の河内山の絵

画像3 劇評に添えられた左団次の河内山の絵

 

こうして、政治熱に浮かされる日本社会で、もちろん政治情勢を伝えつつも、『時事』には芝居小屋の一コマが大きな挿絵と共に掲載された。政治熱にわざと水を差す仕掛けだったわけだ。スペンサーの「風船乗」もこの年の暮れの出来事、菊五郎がそれを演じるのは年が明けて早々のこと。あの奇抜な演目は政治熱への当てつけという文脈で、福沢の肩入れがあったと理解できる。

明治26年5月には、「青年俳優の奨励」と題して、若手俳優の人気投票を実施した。その広告ではこう記す。

 

演劇は文明のことなり。俳優は文明の人なり。また凡俗世界の玩弄物にあらず。すでに文明の人とあれば、その伎倆もまた百般の文明事業と共に歩をともにして、駸々(しんしん)上達すべきは論をまたず。…〔団菊左の後進生は〕日夜勉励、先輩の驥尾(きび)について進まんとするその趣は正にこれ春風に開くの花、夏雨に浴するの草一夜の間に面目を改めて人を驚かすもの多し。よって時事新報社は…世間の好劇家を煩わし、これら日新の俳優中につき、誰か今度歌舞伎座の五月芝居に大いに伎倆を進めて観客を悦ばしめたる者か、おのおのその見るところに従い、優の地位如何に拘わらず、役割の利不利を問わず、ただその腕前の進歩を標準にして投票せられんことを乞うものなり。(明治26年5月9日付)

 

 

青年俳優の人気投票用紙

画像4 青年俳優の人気投票用紙

紙面に印刷した投票用紙を切り抜いて応募させるという、AKB48の総選挙さながらの商売上手で、約1か月の応募期間を取った。このイベントは評判となり、歌舞伎ファンたちはそれぞれ贔屓の役者を当選させようと、必死になった。毎度ながら時事新報の思うつぼである。贔屓の役者が当選しなかったら、壮士を差し向けるぞという脅迫状まで届く始末で、集計結果は6月10日に次のように発表されている。

 

有効投票数3万8463票
 2万2361票  市川米蔵
 5841票   市川猿之助(初代)
 4274票   尾上菊之助(二代目)   (以下略)

 

当選俳優には時事新報の金牌(メダル)が贈られ、この3人に団菊左を加えた6人の石版刷肖像が読者に附録として配布された。

さらに福沢は、劇場の創設も働きかける。人気投票の同年、三菱の経営の中枢を担っていた門下生に宛てて出した次のような書簡が残っている。

 

この人は兼ねて御承知も御座あるべく、手塚猛昌氏なり。過日来一案を案じたるは、府下に新たに劇場を設けて、一切の旧弊を除去し、芝居をもって学者士君子〔学問を身につけた人士の意味〕の業に帰せしめんとするの企てにて、…ただ必要はその劇場の地をえらび、場を建築することなれども、そのこと甚だ易からず。旧劇場のある処には、茶屋そのほかの有形物共に、無形の旧弊風を存して、とても意の如くならず。よって丸の内の一区をもってこれに用いたく、これについては百事試みにお話致したき旨、手塚氏の所望に任せ、わざと一書を呈し候。(荘田平五郎宛福沢諭吉書簡、明治26年11月15日付)

 

三菱が広大な敷地を取得し、オフィスビルの建設を始めていた丸の内に劇場を作るという計画である。福沢が発案者かどうかわからない書き方をしているが(福沢はしばしばこういう書き方をする)、この件で自分の門下生である手塚を三菱に紹介している。この話は荘田から岩崎弥之助に伝えられ、すぐに三菱関係の建物の設計に従事していた建築家ジョサイヤ・コンドルに図面作成が命じられた。その図面によれば、和洋の劇場の要素を織り交ぜた造りで、花道や回り舞台も組み込まれていた。だが、翌年には日清戦争が起こるなど、世情が不安定となったためか、残念ながらこの時は実現を見なかった。とはいえ、それが芽となって福沢没後10年にして丸の内に花開いたのが、お堀端の帝国劇場というわけであった。

さて、話を戻そう。『時事』は当初、歌舞伎が徐々に良い方向に向いていると考えたのであろう、明治22年3月30日に「市川団十郎」と題する社説を掲げている。ここで取り上げられたのは、団十郎が忠臣蔵のおかるの役を嫌がったという話を聞きつけたからである。団十郎が拒んだのは女郎としてのおかるを演じることで、『時事』は世の貴顕と呼ばれるお歴々の不品行を引き合いに出して、その潔癖な品行を賞揚し、「泥に蓮の花を開くもの」とたとえた。

福沢は芝居小屋にしばしば足を運び、親族や時事新報記者などを誘う書簡もたくさん残っている。『時事』と歌舞伎界は蜜月にあったようにみえる。ところが福沢は、変わらない歌舞伎の姿に徐々にいらだちを覚え始めたようだ。

明治30年4月、歌舞伎座で福地桜痴の脚本「侠客春雨傘」(おとこだてはるさめがさ)が上演されると、『時事』はそれを、これ以上無いというほどの激烈な言葉で罵倒する。

 

この種の狂言はただこれ人間醜態の披露にして、いやしくも上流に位する士人子女の観るべきものにあらず。小にしては演劇社会の恥辱、大にしては帝都の不体裁なれども、世間にこれを怪しむ者なく、なおこれを見物して平気なるは何ぞや。自ずからその由来なきにあらず。上流社会にては年来演劇の改良を唱道したれども、当局俳優輩の無学無識、その芸のますます上達して銭を得ることますます多きに従い、ますます品行をやぶるにあらざれば、高慢自慢、ますます人事を忘れて、傍らより手の着けようもなく、改良談など到底実際に行われざるを悟りて、ここにおいてかしばらくこれを中止し、今は芝居を一種人間外のこととなし、役者をも人間外の者とみなし、初めよりその事柄の醜美如何を問わずして、ただその芸の巧みなるを見物し、その四肢の運動、セリフの音調など、すべて人意に適するを悦ぶのみ。…畢竟俳優社会に学者はもちろん、人並みの人物もなきがためにして、演劇改良の如き、まずもって覚束なしと知るべし。(「演劇改良」明治30年5月4日付)

 

この作品が如何に弱きを助け強きをくじく義侠を示す内容だとしても、ひたすら遊郭を舞台とする内容に、一体これをうら若き子女や海外の賓客にどう説明するのか、と問い詰めて止まない。その作者が、福地桜痴であったからなおさらかもしれないが、十年来親しく意見を交わして大いに買っていた団十郎にして、これであるかとの思いがこの社説を書かせたのであろうか。しかしこの演目は、興行としては大成功で、今日でも名高い作品となっている。

悪いことにこの年7月、安政4年黙阿弥作の「網模様灯籠菊桐」(あみもようとうろのきくきり 通称小猿七之助)が、菊五郎主演で上演されると、これまた『時事』を痛く刺激した。『時事』は雑報欄に次の記事を載せて、厳しく批判するだけでなく、ボイコットを呼びかけた。

 

○歌舞伎座の猥褻芝居
目下歌舞伎座にて興行の「小猿七之助」という芝居(菊五郎、福助、八百蔵等の一座)はいつころ誰の作に成りしものかいかにも淫猥極まる狂言にして、先度同座にて興行したる団十郎の暁雨〔春雨傘のこと〕にも劣らず、世の風教に大害を及ぼすものと認めざるを得ず、ことにその二幕目…三幕目…のごときに至っては人間世界の最も醜悪なる事柄をそのまま事細かに丸出しにして、ただ観客の嘔吐を促すのみ。かかる汚らわしき狂言を白昼帝都の中央に演出して怪しむ者なしとは実に驚き入りたる次第なり。歌舞伎座は近頃株式会社の組織に改まり、重役は皆世上に名を知られたる紳士なりと聞くに、その会社がいかに収利のためなりとはいえ、一度ならず二度までもほとんど人間外の醜を犯して恥ずるなしとはその無頓着、いな鉄面皮のほどこそ計り知り難けれ。とにかくに今度のごとき風俗壊乱的の演劇は警察の筋より禁止の命令を発するをまたず、世間上流の紳士淑女が互いに自ら見物を差し控えていわゆるボーイコットを実行し、日本の社会がいまださほどまで堕落せざるの事実を世界に示すべきものなり。(明治30年7月20日付)

 

翌日にはさらに、菊五郎を「芸道に熱心にして並々ならぬ伎倆をこそ有すれ、世間見ずの何にも知らぬ男」と書いて、今回の「小猿七之助」を指して、「かかる卑陋の狂言に筆を染むることあたわ」ずと、紙上に毎度恒例の劇評さえ掲げないと宣言した。この強烈な批判が効いたのか、7月22日には突如歌舞伎座の興行が打ち切られている。

このようにすっかり団菊に愛想を尽かしてしまったらしい『時事』はその後しばらく、幕間の時間短縮(菊五郎は上演時間より幕間が長いことで有名だった)や不明朗会計の批判など、歌舞伎のごく基本的な形式面の批判を繰り返し、一頃の熱意は嘘のように消え失せてしまったようだ。福沢が脳溢血に倒れて一線から退いても、その冷めたスタンスは変わらない。明治33年10月19日付社説「団菊の後に団菊無きか」では団十郎の名を挙げて、老優が舞台にあぐらをかいて後進の道をふさいでいると、これまた入念に批判する。

 

世間あるいは老優を待つこと古物に対するが如く、みだりに古色の古びたるを愛して口を極めて賞揚すれば、老優自身も随って得意となり、天下の妙技、古今の至芸なりと、自分免許の自惚心をほしいままにし、一方に青年立身の道をふさぐと同時に、一方には毎度面白くもなき芝居を演じ、人をして顰蹙せしむることなきにあらず。誠に憫笑にたえざる次第なり。芝居社会の繁昌はもちろん、役者自身のために謀るも、老優が自らその身の老境に向かいたるを覚り、万事を控え目にし、青年若輩を教導して立身の路を開き、もって梨園の後進生をして老輩の徳を謳わしむるの心掛けこそ好分別なるべし。

 

北沢楽天筆、団十郎と菊五郎

画像5 北沢楽天筆、団十郎と菊五郎

 

だが『時事』は、若手の成長による歌舞伎のさらなる発展には引き続き関心があった。芸道に熱心な菊五郎の姿を語り伝えるべく、病に倒れて療養中に独占インタビューを実施して明治35年8月より翌年1月まで連載した。菊五郎が死去したのは、その後まもない2月18日のことである。3月には時事新報社から『尾上菊五郎自伝』として出版され、その序文で息子たちは次のように記している。

当時亡父は私共に向かって申すよう、古来俳優にして自伝を世に遺すものは、ひとり自分あるのみ、真に愉快事なりとて喜色面に現れ、その後他人の履歴芸談を問うものあるごとに固く辞して自分の履歴芸談なれば時事新報に載せてあります、かれをご覧下されとて再び口を開かざるの常なりき。世間亡父のことについて記載せるもの甚だ多けれども、亡父の自ら物語りたるは即ちこの書あるのみ。敢えて私共の保障するところなり。(六代目尾上梅幸・六代目尾上菊五郎による序文)

 

『時事』に連載されたことは、菊五郎にとって特にうれしく、ご自慢だったのだろう。菊五郎の死に際して『時事』が掲げた社説は、菊五郎を「江戸の粋はこの人と共に尽くる」と書き、去りゆく老優の一方で、若手が頭角を現さないことを惜しんだ。

 

菊五郎が名優の誉れを成したるはその技芸の絶倫なるがためとはいいながら、その熱心と注意とをもってよく時代の精神を動作の間に現し、社会の人気に投じたるこそ、その名をしてますます高からしめたる所以なれ。もしも今日の後進俳優が今日の社会に成長しながら、単に前人の模型を学ぶのみにて、時代の精神を看取してこれを技術上に応用するの機転なきにおいては、その演技は次第に社会の情態と遠かりて遂に全く一個の死芸たるに至らざるを得ず。(「尾上菊五郎の死去」明治36年2月20日付)

 

『時事』の関心は、あくまで俳優の気風品格に向けられていた。

 

菊五郎の如き、実に天下の名優にして、文明技芸の精華として誇るべきところの人物なれば、もしも西洋の文明社会ならんには、一般の敬重はいうまでもなく王室の辺りよりは特に爵位の賜もありてその名誉を表彰すること必然なるに、我が国にて俳優といえば技芸の絶倫なるにも拘わらず、その地位甚だ卑(ひく)くして士人の間に歯(よわい)せられざるは、古来の習慣とはいいながら、畢竟俳優社会の気品が一般に賤しきがためにほかならず。菊五郎の如き技芸をもってするもその名誉を社会の表面に発表して士人の間に伍するを得ず。単に一個の芸人として身を終わりたるが如き、ただに俳優社会の恥辱のみならず、実に社会文明の欠点にこそあれば、今の俳優たるものは大いに奮発して、自らの気品を高むるの心掛けなかるべからず。(同上)

 

さらに数か月後、市川団十郎が逝くと、社説「市川団十郎死す」(明治36年9月15日付)を掲げて次のように論じた。

 

今の日本俳優の地位が昔時に比して幾分か進歩したるの点ありとすれば、社会文化の然らしむるところとは申しながら、団十郎の一身もまた与りて力ありといわざるを得ず。…維新以来四民同等の世の中となりて世間一般の気風は頗るその趣を変じたるにかかわらず、俳優社会の風儀は依然として改まらず…彼らの腐敗堕落もむしろ甚だしきを加えたるその中に、団十郎はその身を持すること割合に堅固にして品行上に甚だしき非難を聞かず。…団十郎ひとたび去りて梨園の寂寞を感ずるのみならず、俳優の地位をしてますます堕落せしむる如きことあらんには、その罪はいまの後進輩にありといわざるを得ず。我輩が団十郎の死を惜しむと共に、一言いささか警戒を加うるところなり。

 

芸というものは、熟練によって向上していくが、気風品格は団十郎のごとく、より自覚的、主体的な努力を必要とするというのが、福沢生前からの『時事』の変わらぬスタンスであった。覚束ないまでも団十郎が築いた気品は、はたして歌舞伎界に継承されていくのか、歌舞伎界はよりよく洗練されていくのか。そしてそれは社会の変化と相照らして進歩していくべきものであったが、それが一向良くなったと思えない。福沢晩年の、そして没後の『時事』の歌舞伎界への批難は、とりもなおさず日本社会の気品の欠如に対する落胆でもあったのだ。

 


参考文献
神山彰『近代演劇の来歴 歌舞伎の「一身二生」』(森話社、2006年)
倉田喜弘『芝居小屋と寄席の近代』(岩波書店、2006年)
原徳三「丸の内に新劇場を、諭吉の夢」(『福沢手帖』103号、1999年12月)

 

画像1 団十郎の毛剃九右衛門を描いた時事新報のチラシ。日本一の時事新報に日本一の役者という趣向だろう(服部禮次郎氏寄託、慶應義塾福沢研究センター保管)。

画像2 福沢自筆「四方の暗雲波間の春雨」冒頭部分の写真。『福沢先生遺墨集』(昭和7年)所収。原本は戦災で焼失した。

画像3 左団次の河内山宗俊を描いた挿絵。議会開会10日前の『時事』の劇評に添えられた(明治23年11月14日付)。

画像4 青年俳優の人気投票用紙(明治26年5月9日付)。投票締め切り前日の6月4日まで連日掲載された。

画像5 時事新報の漫画記者北沢楽天が描いた、死の前年の団十郎と菊五郎(明治35年3月25日付)。団十郎は神職の資格を持っていたため御幣を手にしている。菊五郎は、前年末に脳溢血で倒れ左半身に麻痺があったことを描いたものか(?)。


   
著者プロフィール:都倉武之(とくら・たけゆき)
1979年生まれ。2007年慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。 現在、慶應義塾福澤研究センター准教授。
専攻は近代日本政治史。 主要業績に、「明治十三年・愛知県明大寺村天主教徒自葬事件」『近代日本研究』18号(2002年3月)、『福沢手帖』115号(2002年12月)、「資料 機密探偵報告書」『福沢諭吉年鑑』31巻(2004年12月)、「愛知県におけるキリスト教排撃運動と福沢諭吉」(一)・(二)『東海近代史研究』25・26巻(2004年3月・2005年3月)、「日清戦争軍資醵集運動と福沢諭吉」『戦前日本の政治と市民意識』(慶應義塾大学出版会、2005年)、「福沢諭吉の朝鮮問題」(『福沢諭吉の思想と近代化構想』、慶應義塾大学出版会、2008年)など。
ブログパーツUL5

他ジャンル

ジャンルごとに「ウェブでしか読めない」があります。他のジャンルへはこちらからどうぞ。
ページトップへ
Copyright © 2005-2006 Keio University Press Inc. All rights reserved.