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目次一覧
 
第1回 連載の視座/発会式
 
 
自発的結社の原点―その(1)
 
自発的結社の原点―その(2)
 
同窓会から交詢社構想へ
 
「知識交換世務諮詢」(ちしきこうかんせいむしじゅん)の登場
 
交詢社「緒言」−専門分化への危機意識
 
社則「緒言」から「交詢社設立之大意」へ
 
「社会結合」と結社像の転換
 
「社会結合」と結社像の転換
 
交詢社設立の中心人物たち―小幡篤次郎2
 
交詢社設立の中心人物たち―馬場辰猪
 
交詢社設立の中心人物たち―馬場辰猪(2)
 
交詢社設立の中心人物たち―馬場辰猪(3)
 
交詢社の初年―『交詢雑誌』
 
『会議弁』と交詢社―演説の時代―
 
第16回 交詢社の2つの意図―国会開設運動と交詢社(その1)
 
 
著者について
    近代日本の中の交詢社  
 
       
     
   

第1回 明治13年1月25日、発会式

交詢社ビルディング

銀座にある交詢社ビルディングの佇まいは瀟洒で、いかにも粒よりの紳士たちが集うに相応しい。明治、大正、昭和の幾星霜を経て、交詢社は現在も活動を続ける「社交クラブ」である。厳しい入社審査を通った紳士が集まる倶楽部だけに、部外者の眼には閉鎖的に映るかもしれない。だが、草創期の交詢社が近代日本に果たそうとした役割に関心を寄せるとき、社員ならずともその歴史に興味を呼び起こされずにはいられなくなる。

★連載にあたって

交詢社の通史に関しては『交詢社百年史』(交詢社、1983年)に加えて、『交詢社の125年』(交詢社、2007年)も刊行された。前者が詳細な資料の収集に基づいた大部であるのに対し、後者は簡潔ながら最新の研究動向を反映して新たな視点を加えた。上記2書によって通史を知ることができる。この連載では現代の我々が暮らす社会の原点を再認識する“しるべ”として交詢社の歴史的省察に臨みたい。軸となる視点は、「自発的結社」と「近代社会」の自覚的な形成である。

★三大事業のひとつ

明治維新後、福沢諭吉は意識的に政府に出仕せずに生涯を過ごした。福沢が在野でとり組み続けた仕事に慶応義塾、交詢社、時事新報という「三大事業」があった。慶応義塾は説明を要しないだろう。時事新報は明治から昭和にかけて一流の日刊新聞として存在感を示したが、昭和11年末、定時株主総会で解散が決議され、福沢が直接手がけた新聞は終わった。したがって慶応義塾と交詢社が現在も存続する福沢の事業ということになる。彼の名を聞けばたいていの人が慶応義塾を想起するのに比べて、どれほどの人が交詢社について具体的なイメージを描けるだろうか。メンバーズオンリーになっていることもあって関係者以外には馴染みが薄い。構成員を厳選する団体がなぜ「大」事業のひとつに位置づけられたのだろうか。交詢社設立当初に遡って考えてみよう。

★源に遡る

冒頭で社交クラブという語に括弧を付したのには理由がある。現在の交詢社は社交クラブであるが、創立時には必ずしもそのように特定できない結社であった。交詢社は福沢をはじめ、小幡篤次郎、馬場辰猪ら設立者たちの切実な問題意識によって構想され、誕生した。政府(国)と個人の間に中間団体(自発的結社)を「始造」し、社会を形成することが差し迫った課題として交詢社の設立者たちの脳中にあった。「始造」は福沢が『学問のすゝめ』と並ぶ代表作『文明論之概略』の緒言で使用したことばである。彼は西洋の衝撃(ペリー来航に始まる)以降、異文明に触れた経験を「極熱の火を以て極寒の水に接するが如く、人の精神に波乱を生ずるのみならず、その内部の底に徹して転覆回旋の大騒乱を起さざるを得ざるなり」といって以下のように述べていた。

「今の我文明はいわゆる火より水に変じ、無より有に移らんとするものにて、卒突の変化、ただにこれを改進というべからず、あるいは始造と称するもまた不可なきが如し」  (『文明論之概略』緒言 下線部は筆者による)

江戸時代までに形成されてきた政治制度のみならず社会生活や文化生活の行動様式(型)までが崩れゆく中で、文明を新たに造り出すという次元に福沢の事業は含まれていた。諸個人から国家にいたるまでの急な「文明開化」の中、人々の精神の混沌の中から新たな社会・文化の型を造り上げるという課題に迫られた時代であった。最終的には教育勅語にみられるように天皇制という国家体制の枠によって解決が図られることになる。教育勅語制定以前、この課題の回答となる可能性を秘めた試みとして交詢社は設立された。国家の制度という器だけではなく、それを満たす中身(国民)の形成にもとり組んだ福沢や小幡の問題意識が交詢社「始造」の背景にあった。

交詢社に限らず、彼らの時代に始造された文明の諸原理はその後発達をみせ、今日に至っている。科学技術は典型的なものだろう。政治や社会のしくみも同様である。それらは日常的なものとなり、自然物のように我々の身の回りにある。その結果、人々が文明の果実を自然のもの同様に(木の実を採る原始人のごとく)享受するようになってしまうことが現代生活に含まれた陥穽である。高度な文明の外観をまとった今の時代よりも、それを「始造」しようとした時代の方が「文明の精神」は濃かったかもしれない。その意味で交詢社をふりかえることは、「文明の精神」を再確認する機会となる。また異なった時代をみることで、今の価値観を離れて自らの時代を相対視できるようにもなるだろう。

福沢は政治を論じても官僚や政治家にはならなかった。そこに言論空間という公共意識の誕生をみることができるのだが、『福翁自伝』で彼はそうした自分の姿勢を「政治の診察医」と表現した。また、一般に政治は可能性の技術といわれる。近代日本に含まれていた歴史的・政治的可能性をふりかえる上でも、今日の政治・社会を診断する意味でも、交詢社は格好の素材となる。読者の皆さんと「始造」の時代に遡ることで、文明の精神を再確認するささやかな一歩を踏み出したい。まずは、交詢社発会式当日の午餐、福沢が縞の着物に頭には手拭という姿で掛け蕎麦を食べていた頃に戻ってみよう。

★発会式

明治13年1月25日、東京芝区愛宕下青松寺で交詢社の発会式が行われた。1767人の社員中、596人が集まったという。『交詢雑誌』第1号(明治13年2月5日)の「発会記事」によると、午前6時半から会場の設営が開始され、9時頃より社員が集まり始めた。10時に開会。創立事務委員の江木高遠より会頭に長岡護美、副会頭に鍋島直大を選出する動議の提出。参会者の賛成を受けて、両名の承諾があった後、常議員選挙に入った。予め郵送してあった投票1142通の開票作業を開始。11時54分、計算終了。下記の上位24名の常議員当選者姓名を読み上げて告知した。 

福沢諭吉   小幡篤次郎   西周   早矢仕有的   藤田茂吉   矢野文雄
栗本鋤雲   箕作秋坪   菊池大麓   江木高遠   小泉信吉   馬場辰猪
石黒忠徳(悳)   中上川彦次郎   由利公正   荘田平五郎   箕浦勝人   熊谷武五郎
林正明   朝吹英二   肥田浜五郎   小野梓   岩崎小二郎   吉原重俊

正午12時、創立事務委員総代として小幡篤次郎が創立事務委員報告をおよそ10分間朗読。 続いて、長岡護美、西周、福沢諭吉の演説。

午後1時13分、閉会。参会者全員で食堂にて午餐の後、解散。

この「発会記事」を読んで気づくのは具体的作業の進行と時間経過の正確な記録である。これは単に記者が几帳面であったという訳ではない。恐らく明確な意図が存在した。それは交詢社のような自発的な結社の運営の仕方や会議の仕方を読者に伝えるという意志である。現在我々が当たり前のように行っている会議、団体の運営という行為は当時の人々には必ずしも自明のものではなかった。その証拠に福沢諭吉は明治6年に『会議弁』という書を出版して、会議の仕方を広く世に伝えようとした。交詢社の「発会記事」にも同様の意図が含まれていたはずである。さらに交詢社には「会議」の仕方のみならず、人々が自らの手で「社を結ぶ」という行為を全国に広げて習慣化しようとする意図も含んでいたように思われる。
 では、なぜ福沢諭吉は「人々が自発的に社を結び、会議する」という行為を全国に広めようとしたのだろうか。この問いは交詢社がなぜ設立されたのかという問いにもつながる。それを説明するには交詢社をみるだけでは難しい。交詢社以前に福沢が手がけた慶応義塾を知る必要がある。慶応義塾は単なる学校ではない。近世日本から近代への時代の変化の中で画期的な人間類型(近代人)の登場を典型的に示した結社でもあった。その内容については次回に。

   
 
 
 
 
       
           

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