Web Only
ウェブでしか読めない
目次一覧
 
第1回 連載の視座/発会式
 
自発的結社の原点―その(1)
 
自発的結社の原点―その(2)
 
同窓会から交詢社構想へ
 
「知識交換世務諮詢」(ちしきこうかんせいむしじゅん)の登場
 
交詢社「緒言」-専門分化への危機意識
 
社則「緒言」から「交詢社設立之大意」へ
 
「社会結合」と結社像の転換
 
「社会結合」と結社像の転換
 
交詢社設立の中心人物たち―小幡篤次郎2
 
交詢社設立の中心人物たち―馬場辰猪(1)
 
交詢社設立の中心人物たち―馬場辰猪(2)
 
交詢社設立の中心人物たち―馬場辰猪(3)
 
交詢社の初年―『交詢雑誌』
 
『会議弁』と交詢社―演説の時代―
 
第16回 交詢社の2つの意図―国会開設運動と交詢社(その1)
 
著者について
    近代日本の中の交詢社  
 
       
     
   

第14回 交詢社の初年―『交詢雑誌』―

明治13年1月25日に開催された発会式の翌々日、交詢社は初めての常議員会(発会式および常議員については第1回を参照されたい)を開いた。常議員長に福沢諭吉、常議員副院長に西周が選出され、社の船頭役である幹事には小幡篤次郎が任命された。そして2月5日に機関誌『交詢雑誌』を発刊する。『交詢雑誌』の特長となった読者参加型の編集方針は、福沢によって明治7年『民間雑誌』上でも試行されていたが、6年もの歳月を経た『交詢雑誌』でようやく定着することとなる。『交詢雑誌』で読者参加が定着した理由は何だったのだろうか。今回は創刊当時の『交詢雑誌』をとりあげたい。

★「知識交換世務諮詢ハ即チ無形物ノ貿易運輸ナリ」
-『交詢雑誌』の発行―

交詢雑誌

交詢社創立時の事務は、文書往復や帳簿記録に岡本貞烋(おかもとていきゅう)が、来客に応じる応接掛に成田五十穂、金銭出納や庶務を担う会計掛には中島精一、八田小雲、堀省三らが当った。岡本は群馬県で役人をしていたが、交詢社発会に向けて創立事務委員たちが準備に忙殺される中、発会1ヶ月前に小幡篤次郎、小泉信吉らが岡本の参加を訴えて、福沢が勧誘の手紙を送ったことから交詢社に関わることとなった。発会後は彼が本局事務の中心となる。岡本は1853年生まれの小田原藩士だった人物で、『時事新報』が発行されると印刷長を務め、後に多くの企業の役員を歴任した人物である。岡本貞烋、中島精一、八田小雲らはいずれも慶応義塾出版局(明治7年より合資会社慶応義塾出版社) で出版事業に従事した経験をもつ人物たちであった。創刊当初の交詢雑誌は四六判(縦17.5㎝、横11.3cm)、分量はおよそ20~30ページ前後で毎月5日、15日、25日の3回発行された。四屋純三郎が雑誌編集の主任挌、その下に犬養毅、鈴木千巻、大和田建樹らがいたという。奥付を見ると、校閲担当者として阿部泰蔵の名もみえる。創刊当時の『交詢雑誌』は市販されず、社員のみに配られた非売品であった。なお、『交詢雑誌』は明治34年4月25日発行の第571号『交詢社員姓名録』を最後に休刊ないし廃刊されている。この点について社告・声明のいずれも出されていない。あるいは同年2月の福沢逝去と関連しているのかもしれないが、現在もこの休刊・廃刊の理由は明らかではない。交詢社の機関誌としては、24年後の大正14年4月から昭和18年まで発行された『交詢月報』があり、昭和25年からは再び『交詢雑誌』が復刊されている。さて、『交詢雑誌』創刊号の巻頭を飾った「緒言」を要約すると次のようになる。

水上で物を運ぶのは船であり、陸で貨物を輸送するのは人力車や蒸気機関車であるが、そうした運送手段がなくなれば、人々は相い通じ合うことがなくなって「文明の頂きもたちまち野蛮の淵」に変じてしまう。交詢社は貨物を運ぶ訳ではないが、社是「知識交換世務諮詢」は「無形物(知識や世務―筆者注)の貿易運輸」を意味している。つまり、『交詢雑誌』は人々が互いの知識や処世を伝えあう輸送手段(船や車)であり、編集者はその船の御者である。積荷である互いの知識は、社員同士の「報知意見」であるから、文学、法律、政治、経済、商売、工芸、農業など何についても知らせて欲しい。

松崎欣一氏が指摘した通り(「創刊年の『交詢雑誌』を読む」)、確かに交詢雑誌の記事は①会務の報告や記録、②日本社会の現況、日々の動向を伝える諸情報と論説、③社員からの質問と問答の大きく3つの類型に分けられるが、この「緒言」をみると『交詢雑誌』 の一大特長を「問答欄」にしようという意図があったことが分かる。

★明治時代における雑誌の発展

ここで、明治時代における雑誌の発達について少しばかり紹介しておきたい。今日私たちが目にする雑誌のはじまりは明治時代、柳河春三(やながわしゅんさん)の『西洋雑誌』とされる。彼は幕府開成所頭取を務めた洋学者で、佐幕派の『中外新聞』を主宰した人物だが、この雑誌では各国の王家や政治事情から化学、医学までの初歩的な紹介がされた。江戸時代には雑誌の源流のような各種評判記があり、また随筆集などに「雑誌」という言葉が使われたようだが、明治時代にmagazineの訳語として「雑誌」が定着する。当時、他の訳語としては「志林」「宝函」などがあったという。政府は新聞や雑誌が人々の啓蒙に有用であることを知り、維新後しばらくの間奨励していた。

西田長壽「明治初期雑誌について」によれば、明治初期における雑誌の発展は次のように区分けされるという。明治7年頃までの「啓蒙雑誌の誕生」期、明治8年から10年までの「評論雑誌の誕生」期、西南戦争後から明治16年4月の新聞紙条例改正までの「本格的な評論雑誌の誕生」期である。言論メディア誕生時代の雑誌は、宗教、教育、学術についての啓蒙的、初歩的な内容のものが多かった。明治7年頃から啓蒙に留まらず、政治的、社会的批判を含んだ雑誌が現れてくる。明六社の『明六雑誌』、慶応義塾の『民間雑誌』などである。

★『民間雑誌』と『交詢雑誌』

民間雑誌

『民間雑誌』は慶応義塾が初めて発行した雑誌で、『明六雑誌』(明治7年3月)とほぼ同時期に発刊(明治7年2月)された。不定期刊行で翌年6月の第12編で一旦は終刊となるのだが、『民間雑誌』発刊時に記された編集方針が『交詢雑誌』(明治13年2月)と関連して興味深い。その内容は次のように要約できる。

われわれ編集部は都会に居て「田舎民間の事情」を知らない。だから、地方有志の人に以下の情報を当社に知らせて欲しい。①農業、牧畜、養蚕、製茶などの各地方における利害得失、②地方の生産品の種類、職人の給料、機械の便不便、③地方の人々の豊かな人、中等の人、生活に苦しい人の生活費、④海陸の運送の便利について。近隣の都会への運送費、⑤貸金の利息、⑥各地方での結婚年齢、⑦学校や私塾の数、人口比、使用教科書、⑧自治体ごとの識字率。

誌面をみると、読者からの情報を求める編集方針はうまくいったとはいえないが、『交詢雑誌』では定着したのだから不思議である。この明暗を分けた理由としてまず考えられるのは、『交詢雑誌』には交詢社という結社が存在し、読者は自覚的に社員であることを選択した人々であったことである。さらに東京在住者36%、地方在住者64%という社員構成の背景に、新しい時代を生き抜くための知識を求める地方の人たちの知的需要が読者参加型の雑誌を成功させたようにも思われる。だが、それがなぜ明治13年初頭という時期だったのだろうか。

★明治メディア史における『交詢雑誌』の位置と『問答欄』盛況の理由

さて、西田氏の分類によれば、『交詢雑誌』は本格的な評論雑誌時代のひとつということになるが、『交詢雑誌』は必ずしもそのように言えない側面があった。『明六雑誌』『民間雑誌』など学術的要素の濃い雑誌の特長は、人々へ思想的な知識を提供することによって現実に対する批判の目を養うというものであった。これに対して『評論新聞』『近時評論』といった政治評論雑誌は政府の政策を直接的に批判するものであったという。しかしながら、先に述べたように『交詢雑誌』の特長は「問答欄」にあり、それは「緒言」に明らかなように自覚的な意図に裏打ちされたものであった。

「問答欄」は読者(交詢社員)が質問を交詢社本局に郵送し、本局が雑誌上で答えるというものである。質問件数も多く、重要なものを本局で取捨選択し、誌面上に回答を掲載するという形をとっていた。誌面に掲載されなかった質問でも本局で保管され、来訪した社員は閲覧できたという。担当者が簡単に回答できない内容については繰返し問答が行われた。ここに問答の例をあげてみよう。たとえば、選挙法に関する質問と回答(国会府県会選挙法、国会議員選挙法)、中央と地方の関係(国税と地方税、分権新論)、国勢に関する質問(日本全国の長広、幅員、経度・緯度、人口村数の問)などがある。明治13年に発刊された33号分の『交詢社雑誌』上記事については、先の松崎氏の徹底した調査があるが、それによると3つに分類されるという。選挙法や税に関する議論のような①国家の枠組みに関する諸問題、②日本の経済、産業に関するもの、③日本の社会、文化に関する諸問題、である。この中で、最も多くの割合を占めたのが②であった。おそらく、このことが『民間雑誌』『交詢雑誌』が試みた双方向コミュニケーションの失敗と成功を分けた点のように思われる。

本連載第8回で維新後の社会変動の大きさを述べたが、『民間雑誌』が刊行された明治7年初頭は様々な特権の喪失による生活苦などによって士族反乱の機運が高まりつつある頃だった。農民においては地租改正への異議、徴兵制度や学制などの負担増に対して新政反対一揆が現れようとしていた時期でもある。『民間雑誌』が試みたように都会の人が地方の様々な情報を知ろうとしても、相手の方ではそれに応える経済的、精神的余裕がなく、都鄙一体となって共に国づくりに向かうという機運になっていなかったとしても不自然ではない。したがって『民間雑誌』編集部の呼びかけにもかかわらず読者からの反応は乏しかったように思われるのである。しかし、西南戦争が終わって武力による解決の道が遠のき、政府への不満は言論によってぶつけられるようになっていく。その回路として新聞や雑誌、結社があった。

特に結社は新聞や雑誌、そして当時盛んに行われた演説会を主催する装置の役割を果すようになる。政治への不満を醸成する原因のひとつは、日常生活の先がみえない不安である。この時代に全国で結社が数多く生まれたのもそのためであったように思う。新井勝紘氏の調査(「自由民権と近代社会」)によれば、判明しているだけで明治7年から23年までに全国で2116もの結社があったという。本連載第5回や7、8回で述べたように、人々の暮らしの不安をなるべく政府の手を借りずに解決してゆこうと始まったのが交詢社であった。そして生活不安解消の方法として政治へ申し立てをする以外のもうひとつの手段に起業があった。武力の時代の終わりと相まって、特に士族層の生活手段獲得の方法として関心が高かったように思われるが、創刊年に社員から寄せられた質問回答のうち、最も大きな割合(約65%)を占めたのが経済・産業に関するものであった。金融、貨幣、商社といった経済の基本的な知識から、農業牧畜や養蚕業の技術、小作関係における慣習、酒造技術や水産漁業上の問いなど、これらの質問は日本経済が各地で近代化しはじめてゆく様子を物語っている。交詢社が設立された時代状況は、このように人々が生きてゆくための経済上の関心が積極的に生まれた時期でもあった。

『民間雑誌』のときにうまくいかなかった読者参加の編集方針は、以上のような時代状況の変化によって『交詢雑誌』では多くの読者(社員)の反応(質問と報知)を引き寄せることに成功したといえるだろう。想像以上の質問の多さに編集者が苦しむことさえあったという。今回述べた時代状況の変化、すなわち武力による異議申し立ての時代から、新聞雑誌・結社による言論の時代へという変化の中で交詢社は生まれた。それが都鄙一体となって国づくりへという盛り上がりをみせたのが自由民権運動であったが、それと交詢社との関係については次回以降に。


【参考文献】
『交詢社百年史』(交詢社、1983年)
『交詢社の百二十五年―知識交換世務諮詢の系譜』(交詢社、2007年)
新井勝紘「自由民権と近代社会」(新井勝紘編『自由民権と近代社会』、吉川弘文館、2004年)
稲田雅洋『自由民権の文化史―新しい政治文化の誕生―』(筑摩書房、2000年)
尾佐竹猛『新聞雑誌の創始者 柳河春三』(高山書院、1940年)
西田長壽「明治初期雑誌について」(『日本ジャーナリズム史研究』(みすず書房、1989年)
松崎欣一「創刊年の『交詢雑誌』を読む」
  (『近代日本研究』22巻、慶応義塾福沢研究センター、2005年)
   
   
 
 
 
 
 
ブログパーツUL5          

他ジャンル

ジャンルごとに「ウェブでしか読めない」があります。他のジャンルへはこちらからどうぞ。
ページトップへ
Copyright © 2005-2008 Keio University Press Inc. All rights reserved.