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目次一覧
 
第1回 連載の視座/発会式
 
自発的結社の原点―その(1)
 
自発的結社の原点―その(2)
 
同窓会から交詢社構想へ
 
「知識交換世務諮詢」(ちしきこうかんせいむしじゅん)の登場
 
交詢社「緒言」-専門分化への危機意識
 
社則「緒言」から「交詢社設立之大意」へ
 
「社会結合」と結社像の転換
 
「社会結合」と結社像の転換
 
交詢社設立の中心人物たち―小幡篤次郎2
 
交詢社設立の中心人物たち―馬場辰猪(1)
 
交詢社設立の中心人物たち―馬場辰猪(2)
 
交詢社設立の中心人物たち―馬場辰猪(3)
 
交詢社の初年―『交詢雑誌』
 
『会議弁』と交詢社―演説の時代―
 
第16回 交詢社の2つの意図―国会開設運動と交詢社(その1)
 
著者について
    近代日本の中の交詢社  
 
       
     
   

第15回 『会議弁』と交詢社―演説の時代―

前回少し述べたように、交詢社の構想がはじまった明治12年の頃は新聞雑誌に加えて結社や演説という新しい政治文化が盛んになった時代である。 福沢諭吉はそれらのいずれにおいても重要な先駆者であった。例えば、明治初期に限ってみても、結社という点で慶応義塾を挙げることができるし、新聞雑誌については出版事業という点で慶応義塾出版局(慶應義塾大学出版会のホームページで連載中の「福沢諭吉の出版事業 福沢屋諭吉」参照)における『民間雑誌』『家庭叢談』の刊行などがある。 そして演説については福沢がその社会的効用を意識的に行った最初の人物であったといっても過言ではない。 そこで今回は自由民権運動と交詢社との関係を知る前史として、この時代の政治文化、中でも演説について交詢社との関連をみてみたい。

★演説の時代―明治10年代前半

明治12年5月28日付『郵便報知新聞』に「演説の盛衰」という社説がある。 内容は、近頃になって演説討論がますます盛んになり、都会だけではなく地方でも行われるようになってきたことにふれつつ、警官による演説会中止が専ら地方で起きて都会で起きないのは演説の「風格」の有無による、と論じたものである。 演説が最も盛んな場所として東京の演説会の様子が説明されているが、特に著名な演説会として江木学校講談会、嚶鳴社、三田慶応義塾社中、共存同衆の名が挙げられている。

これらの演説会では300人から1000人ほどの聴衆が集まったというが、同じ時期の『団団珍聞』(110号、明治12年5月31日)には演説家を相撲の番付に見立てた表が掲載されていて、当時の演説の流行ぶりがうかがえる。 「東京演説社会人名一覧」という表では、当時演説会を主催した代表的な結社と所属する論客が掲載されているが、交詢社と37名の社員の氏名がみえる。

当世流行筆舌の相撲

公開演説会は明治8年頃から少しずつ行われるようになり、明治11年頃には政府が規制に乗り出すほど盛んになった。 このように明治10年代前半は演説の時代といっても過言ではなかったが、演説という行為がいかに始められたかを知ることによって、草創期交詢社の性格が複雑なものとなった要因の一端を明らかにすることができると思われる。

★「演説」という言葉と行為

明治30年に刊行された『福沢全集緒言』(『全集』①)の中で、福沢は自身の主要著作についてふりかえっているが、『会議弁』にふれながら、「スピーチ」に当たる訳語として「演説」を採用したことを述べている。

彼が育った中津藩には藩士が自分の身上について述べる「演舌書」というものがあったが、「舌」という言葉があまりにも俗なので「説」という字に改めたのだという。 石井研堂『明治事物起原』によれば、「演説」という語は元々仏教語として使用されてきたもので、スピーチと関連した用法は江戸幕府崩壊の際、開成所の人々が会議を催したときに始まるという。 その後、「福沢氏の一団がこれを研究修練して、普及せしめ、始めて軌道に乗りあげ」たとされる。 宮武外骨『明治演説史』によると、「演説」は西洋から輸入したスピーチと旧来の講義や説教の慣例が合致したものであるという。 この慣例の起原として、戦闘における大将の軍令の下知を挙げ、学術演説の起源としては平安朝時代における律令官養成機関であった大学寮(大学)講堂における講義、宮中での和歌、漢学の講義を挙げている。 また公衆的演説に近いものとして心学の講釈、仏教者の諸国行脚における路傍の説法、講釈師や落語家の噺といった「演説」の伝統がわが国にあり、これらの伝統が明治時代にスピーチの習慣が早く定着した要因となった。 さらに宮武は、「演説」という言葉の古来からの用例を挙げて福沢の発明でないことを指摘している。

確かに厳密にいえば「演説」という言葉は福沢の発明ではないが、重要なのはその行為の意味がいかに理解されていたかという点であり、当時スピーチの意味について福沢以上に自覚的だった人物はいなかったようにも思われるのである。 では、彼は演説をどのように捉え、またどのようにはじめたのだろうか。 本連載第1回で、福沢に『会議弁』という作品があることについてふれたが、この時期の新しい政治文化についての福沢の意図を知ることができるという点で、この著作は交詢社の設立意図と重要なつながりを含むものと考えられるので紹介したい。

★『会議弁』の2つの意図―三田演説会、交詢社へ―

『会議弁』は小幡篤次郎と小泉信吉(小泉信三の父)との共著であるが、演説の方法を紹介したという以上に、人々が率先して会議を起すという意味での「集会の手続き」の手引きという性格をもつ作品である。「総論」「集会を起す手続」という本文に加えて、集会規則の例として「三田演説会之序、憲法、式目」が付せられた全27丁の小冊子である(丁は和装本の2頁分を1単位にしたもの)。そこでは、ある村で村民たちが道普請のために集会をもち、議決に至るまでを、具体的な集会の進行に即して再現しているが、福沢や小泉、小幡といった著者のみならず、当時の塾生やその名前をもじった人物が登場するのが、当時の光景が目の前に浮かびあがってくるようで面白い。

小泉がこの作品の原書を持ってきたのが、福沢はじめ慶応義塾の人々が演説・討論に足をふみいれる発端であった。 『福沢全集緒言』によると、明治6年の春から夏にかけての頃であったという。 その頃から福沢周辺のごく内輪の人々で演説の稽古がはじめられ、翌年に『会議弁』が出版されるが、同じ頃の明治7年6月に三田演説会という集会が開始されるのである。

慶応義塾の教員、塾生による少人数の会員制でスピーチとディベートの練習が始められ、明治8年5月には聴衆を前にした公開演説の空間として三田演説館を開く。 演説を試みた当初は人前で話すことの気恥ずかしさからか「決して笑ひ出してはならない」と約束を交わしたという。 こうした試行錯誤の様子は松崎欣一『三田演説会と慶応義塾系演説会』および『三田演説会資料』に詳しいが、そもそも演説・討論への関心はどういうところにあったのだろうか。 この点に関しては、宮村治雄『開国経験の思想史』において次の2点が指摘されている。

1つ目は国会開設との関連である。 明治7年1月、副島、後藤、江藤、板垣らによる民選議院設立建白書が提出されたが、翌月の荘田平五郎宛福沢書簡ではスピーチの稽古の理由として、民選議院のようなものができたときに義塾社中の人たちが「明弁流るゝが如し」となるようにとの意図が記されている。 議会ができたときに、その実質を担保する習慣として福沢は演説に注目をしていたように思われるが、明治7年6月、肥田昭作宅での練習会において福沢は演説の必要性について次のように述べていた。 「日本に演説の習慣がないために意見書を交わすことがある。 これは筆談のようなもので、議院などの席で書いたものを読み上げた後では、もはや議論ができないというのでは話にならない。 こんなことでは民選だろうが官選だろうが議院なぞうまくできないだろう」(「明治7年6月集会の演説」『全集』①58)。

2点目は福沢が「会議」を権力機構のものとしてだけではなく、人々が一切の人事に際して日常的に行うものとして捉えた点である。 この点について少し説明を補うと次のようになる。幕末から維新にかけて「会議」は立憲主義思想、議会構想に関連する言葉として流布され、同時代の多くの知識人たちはこの言葉を議会という制度的装置として捉えていた。 福沢も『西洋事情』、『英国議事院談』などにおいては同様に捉えていたが、「会議」をそうした権力機構の制度としてではなく、日常の活動領域での意志の相互伝達、集団意志形成の原理として捉え直したのが『会議弁』であった。 『福沢全集緒言』の『会議弁』の部分で福沢が記した小泉信吉の言、すなわちこの書の発端となった言葉にそのことはよく表れている。

西洋諸国にて一切の人事にスピーチュ(筆者注―スピーチ)の必要なるは今更言ふに及ばず、彼国にかくまで必要なる事が日本に不必要なる道理はある可らず。 否我国にも必要のみかこの法なきが為に、政治も学事もまた商工事業も、人が人に所思を通ずるの手段に乏しく、これが為に双方誤解の不利は決して少なからず、今この冊子はスピーチュの大概を記したるものなり(『全集』①55)

「国会」を視野に入れた「演説」という行為の重要性の認識、そして日常生活における意志の相互伝達と集団意思形成の原理としての「演説」という『会議弁』の2つの意図は、福沢において交詢社の設立意図の大きな二本柱にもなり、その絡み合いが草創期交詢社の性格の分かりにくさにもつながってゆくように思われるのである。 すなわち、本連載第5回で「知識交換世務諮詢」という交詢社社是の後半部分が、構想段階において「時事諮詢」から「世務諮詢」と変化したことを説明したが、「時事」という「その時代の出来事、近時の社会現象」に即した意味では『会議弁』での「国会」を視野に入れた意図、「世務」という「人間が社会の中でむすぶあらゆる人間関係」に即した意味では、日常生活における意志の相互伝達と集団意思形成に向けた意図が設立当時の交詢社に並存していたように思われるのである。 次回以降では「時事」の面から交詢社をみてみたい。


【参考文献】

演説文化については、
・石井研堂『明治事物起原Ⅰ』(ちくま学芸文庫、1997年)
・宮武外骨『明治演説史』(有限社、1926年)
・稲田雅洋『自由民権の文化史―』(筑摩書房、2000年)
 
慶応義塾における演説の創始については
・松崎欣一『三田演説会と慶応義塾系演説会』(慶応義塾大学出版、1998年)
・福沢研究センター『三田演説会資料』(福沢研究センター、1991年)
『会議弁』の思想史的意義については
・宮村治雄「『御誓文』と『会議弁』の間―福沢における「維新の精神」をめぐってー「(『開国経験の思想史』、東京大学出版会、1996年)
および「『会議弁』を読む」(『福沢諭吉年鑑』28号、福沢諭吉協会、2001年)
   
   
 
 
 
 
 
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