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オリジナル連載

時事新報史

第1回:『時事新報』の創刊

 

























『福沢諭吉の出版事業 福沢屋諭吉』はこちらから 

『近代日本の中の交詢社』はこちらから 

 

福沢諭吉の創刊した日刊新聞があった。その名を『時事新報』という。明治15年に生まれ、ほどなく自他共に「日本一」と認める高級紙になったが、時代を経る中でやがてその座を追われ、昭和11年末に静かにその歴史を閉じた。戦後いったん復刊されたものの、結局これも長くは続かなかった。

『時事新報』には本格的な社史が編まれなかった。また、関東大震災で資料のほとんども失ってしまっている。すっかり忘れ去られてしまったかに見える一方で、その名は学塾・慶応義塾、社交クラブ・交詢社(こうじゅんしゃ)と並ぶ福沢諭吉の三大事業の一つに数えられ、日本の近代史に確かに刻まれている。その歴史は今日の我々に多くのことを問いかけている。本連載では、半世紀にわたって重ねられた『時事新報』の栄枯盛衰を少しひもといてみることとしたい。

 

『時事新報』の第1号が発行されたのは、明治15年(1882)3月1日である。世の中は、自由民権運動のまっただ中。前年10月に「明治十四年の政変」が勃発してから、わずかに半年弱、明治23年の国会開設を政府が約束し、板垣退助によって自由党が、大隈重信によって立憲改進党が組織された頃である。

黎明期の日本のジャーナリズムには、既に多くの新聞が顔をそろえていたが、それらの中には、大(おお)新聞と小(こ)新聞の区別が生まれていた。前者は大流行の政論を主とする新聞で、読者は旧武士層が中心。対して後者は紙面が小さく、全文ふりがな付の娯楽性を重視した営利目的のもので、主に旧町民を相手としていた。文明開化を迎えたといっても、江戸時代の終焉から、まだわずかに15年、身分差の名残はこういったところにも残っていた。大新聞の代表的存在は『東京日日新聞』『郵便報知新聞』『朝野新聞』、小新聞は『読売新聞』『東京絵入新聞』などであった。

さらに、当時は「政党紙」時代の始まりに当たり、大新聞を中心とした各紙はいずれかの政党の機関紙化し、その立場から政治を論じるようになっていく。典型的なものとして『東京日日新聞』は政府系の帝政党、『郵便報知新聞』は大隈の改進党、新たに創刊された『自由新聞』は板垣の自由党といったあんばいである。

この頃、福沢諭吉も政党を結成するという噂が、絶えず巷間を賑わせていた。政府は福沢を大隈の黒幕と見て警戒し、福沢門下生や福沢が創立した交詢社に集う人々を慶応義塾の所在地・芝区三田(みた)にちなんで「三田党」と呼んで政党と同一視する向きもあった。

このような誤解を解き、かつ当時のジャーナリズムのあり方に対する一種のアンチテーゼを提示するために創刊されたのが『時事新報』であった。創刊に先立って、福沢が門下生の一人・荘田平五郎(しょうだ・へいごろう)に送った書簡には、福沢や慶応義塾関係者が何か社会に対して野心を持っていると誤解されるのは面白くないから、「このたびは一種の新聞紙を発兌(はつだ)し、眼中無一物、ただ我が精神の所在を明白に致し、友なく、また敵なく、さっさと思う所を述べて、しかる後に敵たる者は敵となれ、友たる者は友となれ、と申す趣向に致したきつもりにござ候」(書簡633)と、その心境を記している。

『時事新報』創刊号に掲げられた「本紙発兌の趣旨」には、我々は「いわゆる政党なるものにあら」ず、「他の党派新聞の如く一方のためにするものにあら」ずとして、「独立不羈(ふき)」の精神が掲げられ、「ただ大いに求むる所は国権皇張の一点にあるのみ」と宣言された。「政も語るべし、学事も論ずべし、工業商売に道徳経済に、およそ人間社会の安寧を助けて幸福を進むべき件々はこれを紙に記して洩らすなきを勉むべし」と、大新聞や小新聞といったすみ分けにこだわらず、バランス良く社会に資する覚悟が披瀝されたのである。

 「専ら近の文明を記して、この文明に進む所以の方略項を論じ、日の風潮におくれずして、これを世上に道せんとする」。これが『時事新報』という紙名の由来であった。新聞の主宰者という新たな立場に立っても、福沢はやはり「文明」を主唱する根っからの啓蒙思想家であった。『時事新報』の半世紀にわたる歩みは、こうして第一歩を踏み出すのである。


資料
・『時事新報』は、龍渓書舎の復刻版、および慶応義塾図書館所蔵のマイクロフィルムによる。
・『福沢諭吉書簡集』(全9巻、慶応義塾編、岩波書店、2001-03年)は『書簡集』と略記し、書簡番号を文中に示す。
・『福沢諭吉全集』(全21巻・別巻1、慶応義塾編、岩波書店、1958-64年・1973年)は『全集』、石河幹明『福沢諭吉伝』(全4巻、岩波書店、1932年)は『伝』とし、巻数のみ示す。
・引用文については、表記を平易に改める。

・書簡番号633、明治15年1月24日付荘田平五郎宛、『書簡集』3巻。
・「本紙発兌の趣旨」、『時事新報』(明治15年3月1日付)。『全集』8巻にも収録。

著者プロフィール:都倉武之(とくら・たけゆき)
1979年生まれ。2007年慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。 現在、慶應義塾福沢研究センター専任講師。
専攻は近代日本政治史。 主要業績に、「明治十三年・愛知県明大寺村天主教徒自葬事件」『近代日本研究』18号(2002年3月)、『福沢手帖』115号(2002年12月)、「資料 機密探偵報告書」『福沢諭吉年鑑』31巻(2004年12月)、「愛知県におけるキリスト教排撃運動と福沢諭吉」(一)・(二)『東海近代史研究』25・26巻(2004年3月・2005年3月)、「日清戦争軍資醵集運動と福沢諭吉」『戦前日本の政治と市民意識』(慶應義塾大学出版会、2005年)、「福沢諭吉の朝鮮問題」(『福沢諭吉の思想と近代化構想』、慶應義塾大学出版会、2008年)など。
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