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オリジナル連載 (2007年6月21日掲載)

時事新報史

第16回:朝鮮問題A 「脱亜論」の周辺

 
 

























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日本の若者にはしかが大流行しているとのニュースに「脱亜論」を想起した。西洋文明が東洋に押し寄せるさまを「はしかの流行」にたとえた一節があるからだ。いまやすっかり有名になった「脱亜論」と題する文章は、明治18年3月16日付の『時事』に掲載された社説である。

この社説は次のように主張する。西洋文明が迫るなか、日本は明治維新によって、古きアジア的なあり方を脱ぎ捨て、西洋近時の文明を導入し、アジアに一機軸を打ち出した。その主義はいうなれば「脱亜」の二字で表すことが出来る。ところが日本の隣国の清国、朝鮮国は不幸なことに未だ儒教主義に恋々(れんれん)として独立ということを知らない。幸いにしてこれらの国に志士が出現し、日本の明治維新のような大改革を断行するならば格別、そうでないなら、数年以内に亡国となり、その国土が世界に分割される日が来ることは免れないだろう。両国ははしかのような文明開化の流行に遭遇しながら、これを無理に避けようとして一室に閉じこもり窒息しようとするものだからである。清・朝鮮と日本を輔車脣歯(ほしゃしんし:互いが助け合う不可分の関係という意)と呼ぶ者があるが、西洋諸国が古きアジア的あり方に恋々とする清・朝鮮と日本を同一視することがあれば、これまで文明開化に邁進した日本の努力が無となり、外交上一大不幸といわなければならない。

「今日の謀(はかりごと)をなすに、我が国は隣国の開明を待ちてともにアジアを興すの猶予あるべからず、むしろその伍を脱して西洋の文明国と進退をともにし、そのシナ朝鮮に接するの法も隣国なるがゆえにとて特別の会釈に及ばず、まさに西洋人がこれに接するの風に従いて処分すべきのみ。悪友を親しむ者はともに悪名を免るべからず。我は心においてアジア東方の悪友を謝絶するものなり。」

近年では福沢の代表著作のようにいわれているが、時事論として書かれたものである以上、これだけを単独で読んでは、当時の状況を理解する上ではバランスを欠く。その主張は、創刊から独立不羈を精神とする『時事』にとって、とりわけ特徴のあるものでも、何らかの転換点を示すものでもないのだが、何となく衝撃的なタイトルと、福沢特有の鋭く激しい表現に引きずられて戦後ズルズルと有名になってしまった事実があるのみなのである。

これと近接した内容の社説はいくつも数えることができる。試みにいくつか挙げてみたい。

「我が国の本色はまさに文明諸国と対峙して国権拡張の一方に汲々たるその最中に、西洋各国が誤りて我が日本国を尋常東洋の一列国なりと認むることもあらんかと、憂慮するところはただこの一事のみ。……西洋諸国の間にシナ与しやすきのみの通言を生じ、そのシナは東洋全体を代表して、その東洋の中には地理において我が日本国の名籍を存するがため、西人の胸裡、暗に日本与しやすしとの妄像を画(えが)くなきを期すべからず。遺憾なりというべし。されば今後この時勢に処するにいかがすべきや。ただ我が国は独立して東洋に一機軸を出し、西洋人をして大いに自ら警戒するところあらしめ、東洋諸国中、友として親しむべく敵としてはばかるべきものはひとり日本国あるのみとの事実を発明せしむるの一法あるのみ。」(「輔車脣歯の古諺たのむに足らず」、明治17年9月4日)

「到底今のシナ人に向かってはその開化を望むべからず。人民開化せざればこれを敵とするも恐るるに足らず、これを友とするも精神上に利するところなし。すでにその利するなきを知らば、勉めてこれを遠ざけて同流混淆(こんこう)の災を防ぎ、双方の交際はただ商売のみに止まりて、智識の交わりは一切これを断絶し、その国の教義を採らず、その風俗にならわず、衣服什器玩弄の品に至るまでも、その実用のいかんに拘わらず、他に代わるべきものあらば、まずシナ品をしりぞくること緊要ならん。」(「シナ風擯斥すべし」、17年9月27日)

国際関係を友という言葉で表現するだけでなく、日本が単に地理上の位置からアジアの一国と認識されることを避ける必要性を説くのはまさに脱亜論と同趣旨である。しかしお気づきの通り、この時の絶交相手として明示されているのは清国に限られ、朝鮮について明言していない。福沢は17年夏頃から、西洋諸国の態度が再びアジアに対して侵略的傾向を強めていることを危惧していた。しかしその際、標的となるであろう国としてもっぱら言及されるのは清国であった。なぜ翌年3月の脱亜論には、朝鮮が明示的に加えられているのであろうか。

原因は明治17年12月の甲申事変である。明治15年に発生した朝鮮の壬午事変によって、同国における従来の近代化路線は破棄され、守旧的な親清勢力(事大党)が主導権を握ったことは前回述べた。その後、福沢とも交流のあった革新的・独立志向の勢力(開化派)が、勢力の拡大や近代化政策実現を画策するもうまくいかず、ついに武力によるクーデターの挙に出たのが、この事変である。政府中枢の事大党幹部を殺害し、国王を擁する新政権を樹立した開化派は近代化改革に着手する。この時日本の竹添進一郎(たけぞえ・しんいちろう)朝鮮公使は、国王警護を名目に護衛兵を派遣して事実上開化派を支援した。ところが、清国軍の介入によって国王は清国側に遷座、開化派は文字通りの三日天下で政権を追われ、同派幹部と日本公使一行は清国軍と朝鮮暴民の攻撃にさらされ敗走する。数十名の日本人が殺害され、日本公使館は炎上した。

この事変がもたらした結果は何であったか。開化派が朝鮮政府から完全に駆逐されてしまったことである。福沢は、日本において文明が「国人の上流より入」ったことが明治維新成功の秘訣であったと述べているが(「シナ風擯斥すべし」)、朝鮮を「20年遅れの日本」と考えた福沢のたとえに従えば、開化派は朝鮮にとっての維新の志士であったといえよう。それが、甲申事変で無惨にも壊滅したのである。開化派の関係者は縁者まで徹底的に処刑されてしまい、残されたのは、清国による朝鮮への絶大な影響力だけであった。

福沢は開化派を中心として朝鮮が自主的に独立へ向かうことに可能性を抱いてい たからこそ、事変以前の社説で朝鮮について明言することを避けていたのであろう。事変直後、日本が取るべき手だてとしては、多少無茶であっても清国と戦火を交えることだと、福沢は考えた。日本が戦争に勝つことで清国から朝鮮を解き放ち、真の独立を達成させることに賭けるしか、西洋の手から日本を守る術はないと考えていたらしい。

それに加えてこの事変をめぐる日本公使館や外務省の対応には大きな失策があった。竹添公使が開化派と事前に情を通じており、政府にもそれを知っていた者がいるとの情報を福沢は得ていた(事実関係については未だに議論がある)。その疑惑は外務省の新聞検閲で伏せられていたが、それを追及せず、敢えて強気な態度を通すことが、日本の外交上得策であり、政府の意を強くするものであるとの官民調和的観点に立っていた。そこで、事変直後の『時事』の論調は、強硬な対清開戦論となる。その事情を福沢は、政府高官である友人への私信で次のように説明している。

「今回の一条は結局平和をもって我が体面を蔽(おお)うこと難し、無茶にも兵に訴えて非を遂ぐるのほかなしと存じ候、時事新報などにも専ら主戦論を唱え候事なり。新報紙面と、内実とは全く別にして我が非を蔽わんとするの切なるより、わざと非をいわず、立派に一番に戦争に局を結びて、永くシナ人に対して被告の地位に立たんとしたるもののみ。」(田中不二麿宛福沢書簡、18年4月28日付)

ここには壬午事変時とは対照的な、福沢の大胆で冷徹な国際情勢認識がある。しかし政府はまず1月に朝鮮との間に講和を成立させた上で、4月には清国との妥協的な講和を成立させた。その平和妥結の政府方針が固まっていた時期の社説が、「脱亜論」である。期待を寄せた開化派が壊滅し、日清開戦もなければ、朝鮮の独立はいよいよ困難な状況となった。それゆえに、朝鮮近代化に期待を寄せた福沢の「敗北宣言」が「脱亜論」であるとする見解が学界ではほぼ通説となっている。さらにいえば、「脱亜論」はこの時期の一連の「敗北宣言」のひとつに過ぎないのである。「心において」の挫折を激しい言葉で吐露した福沢は、海軍力を中心とした軍備増強の主張を強めていき、10年の時を経た日清戦争に至って再び朝鮮の独立論を展開することは改めて後述することになろう。

「脱亜論」は、『時事』掲載以降福沢によって一度として言及されたこともなければ、世間で話題になったこともなかった。研究者によって「発見」されて一躍福沢の代表作に躍り出たのは、福沢死後も半世紀余り経った、戦後のことである。現在、ただ有名になってしまったという事実があるだけとは、その意味である。

一方で、『時事』の歴史を考える上において、甲申事変は確かに大きな事件であった。この頃福沢や『時事』の関係者は、朝鮮政府に出仕していた福沢門下生・井上角五郎(いのうえ・かくごろう)や朝鮮在留の貿易・金融関係者、さらには朝鮮政客自身や日本外務省官吏にまで幅広く人脈を有していたため、常に最新の朝鮮国内事情や外務省筋の情報を得ていた。とりわけ、甲申事変直後、竹添公使とともに敗走してきた井上らは、遭難日記を『時事』に連載して大きな話題となり、各紙が転載した。幅広く得た詳細な情報と、それに基づく社説は高い信用を得て、『時事』の名声を飛躍的に高める上で大いに役立ったことを付け加えておきたい。


資料
・鈴木栄樹「福澤諭吉と田中不二麿 再論(4)」『福沢手帖』第129号、平成18年6月。

   
 
著者プロフィール:都倉武之(とくら・たけゆき)
1979年生まれ。2007年慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。 現在、慶應義塾福沢研究センター専任講師。
専攻は近代日本政治史。 主要業績に、「明治十三年・愛知県明大寺村天主教徒自葬事件」『近代日本研究』18号(2002年3月)、『福沢手帖』115号(2002年12月)、「資料 機密探偵報告書」『福沢諭吉年鑑』31巻(2004年12月)、「愛知県におけるキリスト教排撃運動と福沢諭吉」(一)・(二)『東海近代史研究』25・26巻(2004年3月・2005年3月)、「日清戦争軍資醵集運動と福沢諭吉」『戦前日本の政治と市民意識』(慶應義塾大学出版会、2005年)、「福沢諭吉の朝鮮問題」(『福沢諭吉の思想と近代化構想』、慶應義塾大学出版会、2008年)など。
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