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オリジナル連載 (2007年11月19日掲載)

時事新報史

第20回 中上川時代余滴

 
 

























『福沢諭吉の出版事業 福沢屋諭吉』はこちらから 

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これまで、中上川彦次郎が社長であった時代を取り上げてきたが、最後に若干の落ち穂拾いを試みて、次に進むこととしたい。

●福沢著作

時事新報創刊以後、福沢の著作は、まず社説として掲載され、のち単行本化されることを例としたことは述べた。以下に掲げるのは、中上川時代に刊行された著作の全てである。

帝室論表紙

『時事大勢論』(明治15年4月刊)
『帝室論』(明治15年5月刊)
『兵論』(明治15年11月刊)
『徳育如何』(明治15年11月刊)
『学問之独立』(明治16年2月刊)
『全国徴兵論』(明治17年1月刊)
『通俗外交論』(明治17年6月刊)
『日本婦人論後編』(明治18年8月刊)
『士人処世論』(明治18年12月刊)
『品行論』(明治18年12月刊)
『男女交際論』(明治19年6月刊)

もともと社説の体裁であるため、内容は時事論が多い。とりわけ、維新以来基本的に開明政策を進めてきた明治政府が、この時期になると、かなり保守的な傾向を露呈し始めたことへの批判が中心となっている。政府の傾向を憂慮した最初の総論的批判が『時事大勢論』であった。以後、教育における儒教主義復活を批判した『徳育如何』、『学問之独立』、私立学校に対する徴兵猶予特権剥奪をきっかけとして徴兵のあり方を論じた『全国徴兵論』がある。また、来たるべき国会開設へ向けた主権論争や帝政党批判の中から、皇室を政治に巻き込むことの危険性を指摘したのが『帝室論』であり、世間一般に醸成されてきた官尊民卑の風潮を批判したのが『士人処世論』であった。

時事論の中でも、対外関係を論じたものは単行本化されていない。かつて筆者は『時事』社説は「読み捨てる」くらいの気持ちで書かれていると述べたが、対外問題についてはその傾向が特に強いといえるのかもしれない。わずかに明治15年の壬午事変を受け、軍備増強と官民調和の必要を強調した『兵論』、及び不平等条約改正に向けて外国人との接し方について指針を平易に解いた『通俗外交論』が関連して挙げられるものである。

また自由民権運動や自由党の「激化事件」に対する発言も消極的で、福沢が世の民権家を「駄民権」と称して距離を置いたことが言論の面でも現れているといえよう。この問題との関連で、竹越(当時は清野)与三郎が伝えているエピソードを紹介しておこう。入社してもなかなか原稿が記事にしてもらえない竹越に対して、福沢がアメリカの科学雑誌を示し、爆弾製造法を訳出して掲載するよう命じたという話である(「竹越与三郎氏談話速記」)。

「それじゃまあこれを一つ飜訳してご覧」というわけで、「ポピュラーサイエンスモンスビル」というのに「アメリカ」の爆裂弾製造法というのがあるので、その飜訳を言い付けられた。それを飜訳するのに一頁二十字位辞書を引かなければ読めない程度で、飜訳するのだから、すこぶる怪しいものだった。どうかこうかでっち上げ、また没収〔原稿がボツに〕せられちゃならぬから、これは福沢先生の命令だといった。そうするとまあ非常に直されて、初めて出されたのですが。…福沢先生はこれをやるのは面白い、これをやるときっと自由党が真似して作るから、非常に面白いからというので非常に茶目気のある人でしてね、そんなことをしておった…。

さて、時事論を離れた特筆すべき言論としては、女性の地位向上や新しい男女観を説いた一連の著作がある。最初の書は、社説本文を漢字カタカナ文からルビ付きの漢字ひらがな文へと改めるきっかけともなった明治18年の『日本婦人論後編』(なぜかこれに先立つ「日本婦人論」は出版されず)、次いで男子の品行について説く『品行論』、さらに男女間の交際のあり方を説く『男女交際論』と続く。このテーマは以後も引き続き『時事』の特徴的主張として認知され、福沢の生涯の課題の一つとして継続していくのである。

いずれの著書も「福沢諭吉立案/中上川彦次郎筆記」という名義で出版された。万一の場合に福沢に責任が及ばないための方便であったのは既述の通りである。上記著作は全て『福沢諭吉全集』に収められているが、最近慶應義塾図書館と同福澤研究センターの共同プロジェクトとしてデジタル化が実現し、インターネット上で実物の画像を閲覧することが出来る。

●論争

・宗教論
 福沢は国会開設運動かまびすしい頃、キリスト教排撃の主張を展開したことがあった。特に『時事小言』(明治14年)では、どの宗教が正しいかという議論は徹底的に避けた上で、日本で長年受け継がれてきた仏教を放棄し、西洋の宗教であるという理由だけで今キリスト教を受け入れることは、精神の側面から日本の独立を危うくすると主張した。精神の独立がひいては国家の独立につながるという福沢の立場からは、全く受け入れる余地がないというのである。宗教に関する議論は自由民権運動と連動する形で大いに盛り上がり、宗教界も敏感に反応して、キリスト教徒は激しく反論した。

『時事』創刊号の「発兌の趣旨」でも宗教に触れており、基本的にこの立場を維持していた福沢であったが、17年6月に突如社説「宗教もまた西洋風に従わざるを得ず」を掲載、キリスト教容認に転じた。福沢は、宗教の正邪は議論しないという立場を維持しつつ、アジアに対する西洋の進出や条約改正に向けた「内地雑居」の準備という観点から、動物の保護色の如く、日本が独立を維持する方便としてキリスト教を取ることもやむを得ない、として立場を改めたのである。他紙はこれを変節と見なして激しく批判したが、『時事』としては、宗教論も時事論の範疇(はんちゅう)であったといえよう。

・人種改良論
 明治17年9月、社説記者の高橋義雄が『日本人種改良論』なる本を著した。この中で、日本は西洋に肩を並べるために、欧米人との雑婚を進め、人種を改良しなければならないと主張、これに対して19年1月、加藤弘之は学士会院で演説し、雑婚が進めば日本人の血が絶えるとしてその不可を主張、その筆記が「人種改良の弁」の題で『東日』に掲載された。『時事』は社説でこれに反論、さらに漫言「加藤弘之君への質問」ではロシア皇帝の結婚の伝統を持ち出して追い討ちをかけた。福沢は遺伝学説に深い関心を持っていたことを紹介したが、これもその関連で位置付けられよう。高橋はこの論争について次のように回想している(『箒のあと』)。

人種改良論を著述した動機は、井上外務卿が条約改正に先だってしきりに欧化主義を鼓吹した時勢の感化を受けたもので、日本人を一躍欧米人と肩を並べしむるには、まず矮小(わいしょう)なる日本人の体格を改良し、なお進んでは、彼らと結婚して、根本的に人種を改良すべしという突飛な論説であった。…日本人種改良論に対しては、当時の帝国大学総長であった加藤弘之博士が、ある雑誌で堂々と論難せられたので、私は時事新報紙上でこれに対抗したが、その時福沢先生が相手が面白いから確乎やるが宜しい、何でも議論の最後まで対陣して、最後の筆はこちらで持つようにしなくてはならぬと奨励せられたが、福沢先生の論争は、常にこの筆法によられたようで、必ず相手を降参せしめなくてはやまぬという風であった。

●発行停止と筆禍

中上川時代に当局の忌諱に触れ、発行停止やその他処罰の対象となった例は以 下の通りである。

・15年6月8日
 社説「藩閥寡人政府論」で発行停止。同月13日発行再開(第7回参照)

発行停止解除(解停)を知らせる新聞広告

・15年6月13日
 同日付紙面に東京府会議長から内務卿に宛てた「郡長区長公選を希望するの建議案」を掲載したことが、新聞紙条例の禁ずる無許可での上書建議の掲載に当たるとして、7月31日『時事』仮編集長牧野鈔人が罰金30円に処せられた。同様に『東日』『東洋新報』もこの時有罪となった。

・16年4月
 自由党の福島事件に関する高等法院の予審調べを紙上に記載したことにつき、4月20日『時事』仮編集長大崎(牧野)鈔人が罰金100円に処せられた。この時は、他5社がともに有罪となった。

・16年10月31日
 社説「西洋人の日本を疎外するは内外両因あり」により発行停止。同社説は、政府の儒教主義復活を条約改正問題に絡めて批判したもの。11月7日発行再開。『時事』が三田から日本橋に社屋を移転してわずか4日目であった。この発行停止を米国留学中の息子たちに知らせる福沢の手紙には「朝野ともに不学者多く、困り入り候」「あきれ果てたること」と記している。

・18年1月17日、19日
 休刊日の日曜日を挟み、両日社説不掲載。明治17年末の甲申事変直後のこの時期、新聞各紙は外務省の事前検閲を受けており、両日の社説は掲載不許可となったため削除された。同月20日の紙上、このことを説明する「社告」が掲載された。

福沢の社説原稿2本

・18年8月14日
 8月13日付社説「朝鮮人民のためにその国の滅亡を賀す」で発行停止。8月22日発行再開。朝鮮がロシア・イギリスの駆け引きの舞台となる中で、朝鮮政府の統治能力を難じたもの。翌日用に執筆済みであった「朝鮮の滅亡はその国の大勢において免るべからず」は、お蔵入りとなって原稿が今日に伝えられている。福沢は息子たちへの手紙で「日本にいれば致し方もこれなし、腹を立てても無益」と記している。

・19年9月
 新聞紙条例違反事件の控訴を取り下げ、記者の伊藤欽亮が軽禁固1年の服役、20年5月に出獄した。この事件については継続調査中であるが現時点では詳細不明。伊藤はなかなか疲労が回復せず、9月の福沢書簡に「心身共に非常に害せられた」と心配する記述が見える。


資料
・「竹越与三郎氏談話速記(昭和14年)」(『政治談話速記録』第6巻、平成11年、ゆまに書房)
・高橋義雄『箒のあと』上巻(秋豊園、昭和8年)
・明治16年11月4日付福沢一太郎・捨次郎宛福沢諭吉書簡、『書簡集』4巻。
・明治20年9月26日付中上川彦次郎宛福沢諭吉書簡、『書簡集』5巻。

画像
・『帝室論』表紙。書き出しは「帝室は政治社外のものなり」。
・発行停止解除(解停)を知らせる新聞広告。『郵便報知新聞』(明治16年11月 8日付)。
・掲載されなかった福沢の社説原稿2本(慶應義塾福沢研究センター蔵)。「2」 「3」と数字が振られている。 「1」は現存せず「朝鮮人民のためにその国の滅亡を賀す」がそれであろう。

   
著者プロフィール:都倉武之(とくら・たけゆき)
1979年生まれ。2007年慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。 現在、慶應義塾福沢研究センター専任講師。
専攻は近代日本政治史。 主要業績に、「明治十三年・愛知県明大寺村天主教徒自葬事件」『近代日本研究』18号(2002年3月)、『福沢手帖』115号(2002年12月)、「資料 機密探偵報告書」『福沢諭吉年鑑』31巻(2004年12月)、「愛知県におけるキリスト教排撃運動と福沢諭吉」(一)・(二)『東海近代史研究』25・26巻(2004年3月・2005年3月)、「日清戦争軍資醵集運動と福沢諭吉」『戦前日本の政治と市民意識』(慶應義塾大学出版会、2005年)、「福沢諭吉の朝鮮問題」(『福沢諭吉の思想と近代化構想』、慶應義塾大学出版会、2008年)など。
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