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オリジナル連載 (2007年7月17日掲載)

時事新報史

第17回 売薬営業毀損事件

 
 

























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社説における福沢特有の激しい筆法についてはたびたび言及している。それが世にもたらそうとする結果は多くの場合中庸で調和的なのだが、読者の注意を引きつけ変化を促そうとすることにしばしば急で、衝突を招くことも少なからずあった。その代表的な事例が明治15年から18年にかけての売薬訴訟事件であろう。

今の世にも本当に効くなら是非とも入手したい怪しげな薬がまことしやかに横行し、時に人体に害悪さえもたらして新聞沙汰になることがある。明治初期、なかなか医師の診察を受けられなかった庶民にとって、いざというときに頼るのは、家伝、秘方などと称して成分も効能もまことに怪しい売薬で、業者は非常に繁盛していた。それらには伝統的な和漢薬とは異なるものも多く、一部には人体に有害のものさえあり、洋薬は、ほとんど普及していなかった。政府は、文明開化の一環として売薬の規制を進めるが、急に禁止とするのではなく、有害なもののみ取り締まるため検査を義務づけ、また課税を行い、洋薬への淘汰を促していく方針を採った。

売薬若き日に蘭学医・緒方洪庵(おがた・こうあん)に学び、チフスで2度も生死をさまよいながら西洋医学に救われた福沢は、売薬の繁盛に従来から批判的であった。かつて『家庭叢談』で、売薬の非科学性を指摘し、大々的に広告を掲げる新聞を「売薬師の提灯(ちょうちん)持ち」と批判したことがある。明治15年10月、太政官第51号布告として「売薬印紙税規則」が公布され、売薬に定価の1割の税が課せられることになると、『時事』は「当を得たるもの」であると歓迎し、以下のようにその理由を説明した。これが裁判の火種となる社説である。

「第一、売薬は人の病のために効能なきものなり。病に功を奏すべきほどの薬品なればこれを誤用して害をなすがゆえに、政府においてこれを許さず。無効無害、これを服するも可なり、服せざるもまた可なり、水を飲み茶を飲むに等しく、香をかぎコショウをかむも同様のものにして、始めて発売の許可を得るものなれば、名は薬にして実は病に関係なき売り物なり。これに税を課してその品物の売買を左右変動するも、人身の病理上に一毫の害を致すことなし。」(「太政官第五十一号布告」、15年10月30日付)

身も蓋もないとはこのことだが、売薬の存在を全否定するのではなく、続けて「第二、売薬は事実に無効なるも、寒村僻邑(へきゆう)、医薬に不自由なる土地にては、なおこれを服用して情を慰むるに足るべし」と、「情」を慰める効能を認め、その上で、無効なので量の多少は関係がなく、課税によって値上げされれば、かえって同じ量のありがたさが増し、すなわち情に基づく薬効も増すと主張。そして、第三には、今回の布告は売薬が無効無害であることを前提に、なお買いたい人は従来通り買えるので人情を害することもなく、さらに国家の歳入を増やすものであるから「良法」であり、人智が進歩しても売薬の無効が知れ渡るのは数百年も先であろうと述べた。また、売薬に頼るような者は日頃から衛生に不注意で他にも迷惑を及ぼす無学無智の者が多いので、「この輩の手より出る売薬税をもって国の衛生法に費やすは、自ら醸すところの禍を治め、またこれを防ぐに本人の自費をもってせしむるに異ならず。名も正しく実もまた適当するものというべきなり」と、妙案であると評価したのである(同上)。

この社説は、『時事』が取り立てて力を入れたものではなかったようだが、思わぬ反響を呼ぶ。最初に反応したのは『朝野新聞』であった。『朝野』は、この社説の後段が、売薬を必要とする貧民社会を軽視し、貧民から奪った金を智者に付与せよと主張するものだとして、「ひとり政府の利あるを知り、はたまた営業者の害なきを信じ、しかも遂にこれを購求する世人の利益快楽財貨を奪うを察せず、一方の利を証して一方の害をすてる誠に奇怪の所見」であると批判したのである(「売薬印紙税を論ず」、15年11月2日付)。『時事』は当初、反論することに消極的であったが、後にはかなり挑発的言辞も用いて対抗、半ば中傷合戦の観を呈して世間の耳目を集めた。

面白いことに、批判されているのは『時事』の断定的物言いであって、『朝野』さえ売薬の大方が「無効」であることは否定せず、下剤や膏薬(こうやく)には効くものがある、という程度で業者を擁護しているわけではない。業者の中でも「無効」は常識であったらしく、他の薬との違いを出そうとする売薬広告には「世の売薬は俗眼を眩惑(げんわく)するもの十の八九にして、その実は効もなくまた害もなきに過ぎざるのみ」と書くものがあったほどである。『時事』が世に問いたいのは、むしろその点であったから、論争は非生産的なものであった。

ようやく『朝野』との論争の収まった11月下旬、今度は、「売薬は無効無害」という『時事』の主張の核心を、営業毀損とする訴えが東京の売薬業者40数名によって裁判所に持ち込まれ、12月18日には正式に東京始審裁判所へ出訴されるに至った。3年にわたる裁判の幕開けである。公判にあわせて売薬について再論した『時事』は、次のように論じた。全て発売されている薬は「無害」との認定を受けて「官許」を得ている。しかし本当に効く薬は医師が厳密に診断を下して、適正に投与されなければ逆に害があるものであるはずだ。全く性質の違う様々な病に効く「無害」な薬とは一体何なのか。

"何にでも効く売薬の例

「薬を用いて実に病を癒さんとするには、これを誤用すれば害をなすほどのものにあらざれば、効を奏すべからざるや明らかなり。しかるに売薬に限りてその薬品を選びその分量を定めてかつて誤用の憂いなきはなにゆえぞ。何ようにこれを服用するも毫も害をなさずというは、何ように服用するも毫も効をなさずと、自ら明言するものに異ならず。」(「売薬論」、明治16年1月27日付)

さらに、売薬業者が「学術」を持ち出して薬効について主張していたため、そちらが「営業毀損」なら、こちらは「学理毀損」だと息巻き、「物理の原則は我輩学者のよってもって守るところの本城なるぞ。愚俗の人情論といえども気の毒ながらこれを許すべからず。いわんや古流頑陋(こりゅうがんろう)の妄想医論においてをや」(同上)と、鋭い言葉で批判した。

ところが16年3月3日の判決は、『時事』の面目丸つぶれの全面敗訴であった。官許を得たものであるから、効能の濃淡はあるにしても無効と断言すべからずという理由で営業毀損を認めた裁判所は、7日間の取り消し広告掲載を『時事』に命じたのである。続く16年9月27日の東京控訴裁判所判決でも、わずかに取り消し広告の日数が7日から5日に変更されただけで敗訴。この時の「時事新報の敗訴天下のために賀す」と題する『時事』社説は、逆説的に判決を批判しつつ、悔しさに満ちている。『時事』は当然大審院へ上告し、その後判決まで2年以上の月日が経過する。

大審院判決は、18年12月25日に下った。判決文は次のようにいう。この裁判は社説「太政官第五十一号布告」が売薬営業を毀損したとして、社説を取り消させる理由があるか否かを判決するためのものである。しかるに、この社説は売薬課税の布告にあわせて売薬の性質を汎論(はんろん)したものに過ぎず、具体的な薬や業者について論じたものではない。確かに表現が極端で平穏ならざるところもあるが、悪意はなく、営業毀損に当たらない。

こうして控訴裁判所判決は破毀され、『時事』の逆転勝訴でこの裁判は幕を閉じることとなった。この判決はなんら『時事』のいう学理の正当性を認めるものではなかったが、その面目は土壇場で何とか保たれることとなったのである。判決翌日の社説は、敢えて勝利にこだわったことを弁明して、こう締めくくられている。

「仁に当たっては師に譲らず、我輩が最も貴重し最も尊崇し畢生(ひっせい)の力をもって保護せんと欲する学理の本体には一点の瑕瑾(かきん)を許すべからず。この一段に至りては心身惜しむところなし。何ぞ世間の譏誉(きよ)を顧みんや。斯道に当たりては天下に譲るものなし。これすなわち我輩が執念深くも今日に至りし由縁なり。大方の君子、時事新報が売薬屋に向かいて戦うたりとせずして、文明の道のために咆哮(ほうこう)したりと認め給わらば幸甚のみ」(「売薬営業毀損の訴え落着」、18年12月26日付)

ところで、『時事』を訴えた売薬業者を束ねていたのは、元『東日』主筆の岸田吟香(きしだ・ぎんこう)であった。岸田は主筆当時の明治8、9年頃から、自らの製造する目薬「精リ水」(せいきすい)の広告を新聞で大々的に行い、売薬が新聞広告に花盛りとなるきっかけを作った。新聞各紙は広告収入の安定顧客として売薬に頼っていた側面もあり、経営を重視するからこそ、独立不羈を誇示できた『時事』にとってもそれは例外ではなかった。

売薬広告裁判開始以来、売薬商組合では一切『時事』に広告を出さないと議決がなされたという(『伝』3)。いま『時事』の広告欄を確かめてみると、15年10月末の社説掲載直後は週に4、5という売薬広告のペースに変わりがないが、12月半ばの出訴を境に売薬広告は激減、1か月に1、2を見るばかりとなる。掲載されているのは訴訟に加わらなかった業者であろう。そのペースは翌16年8月末まで続くが、業者もほとぼりが冷めたものか勝利を確信したのか、9月からは旧に復し、岸田吟香の広告さえ見られるようになる。『時事』は、売薬の「情に対する効能」は否定していなかったから、広告掲載は矛盾しないともいえるだろうが、疑問を抱いた読者も少なくなかっただろう。

『時事』は、まだ赤字の出ていた時期であり、広告の主任であった伊東茂右衛門はこの騒動で広告が減ったことに大いに不満を訴えたという。これに対して福沢は、「始めたことは今さら仕方がないではないか、これも学問のためだから我慢しなさい」となだめたと伝えられている(同上)。今日なお大きなテーマであるマスコミと広告主のジレンマは、この辺りにすでに芽生えているようだ。


資料
・「売薬訴訟事件」、『伝』3。
・判決書及び裁判経過の詳細は、寺崎修「福沢諭吉と裁判―明治十五年・売薬営業毀損事件」(『福沢諭吉の法思想』、慶應義塾大学出版会、平成14年)に詳しい。
・新聞紙条例では、署名記事以外は全て編輯人の起草とみなされたため、この裁判の被告は例の名義上の編輯長ということになり、前に登場した大崎鈔人である(第7回参照)。裁判中、社説執筆者とは別の起案者の存在に議論が及んだとき、『時事』側代言人・沢田俊三は、波多野承五郎の名を挙げている。

画像
画像1 「売薬印紙税規則」印紙貼用雛形(『法令全集』明治15年)。
画像2 「何にでも効く」売薬の例。「強壮日新丸」の効能には次のように書かれている。「○癇症(かんしょう)○鬱憂病○胃弱○胃痙○嘔吐○留飲○下痢○食傷(しょくあたり)○瘧疾(おこり)○貧血病○その他性質の弱き人、または病後の肥立ちかねたるに用いて速やかに全治すること、雪に熱湯を注ぐが如し。実に奇妙ふしぎの霊薬なり」(『時事』、16年5月4日付)。
画像3 裁判中も『時事』に掲載された岸田吟香の売薬広告(16年9月11日付)。

   
 
著者プロフィール:都倉武之(とくら・たけゆき)
1979年生まれ。2007年慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。 現在、慶應義塾福沢研究センター専任講師。
専攻は近代日本政治史。 主要業績に、「明治十三年・愛知県明大寺村天主教徒自葬事件」『近代日本研究』18号(2002年3月)、『福沢手帖』115号(2002年12月)、「資料 機密探偵報告書」『福沢諭吉年鑑』31巻(2004年12月)、「愛知県におけるキリスト教排撃運動と福沢諭吉」(一)・(二)『東海近代史研究』25・26巻(2004年3月・2005年3月)、「日清戦争軍資醵集運動と福沢諭吉」『戦前日本の政治と市民意識』(慶應義塾大学出版会、2005年)、「福沢諭吉の朝鮮問題」(『福沢諭吉の思想と近代化構想』、慶應義塾大学出版会、2008年)など。
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