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オリジナル連載 (2012年04月13日掲載)

時事新報史

<第27回>

時事新報と演劇改良(1)
歌舞伎座に時事新報のビラが舞う

 
 

























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昨年筆者の所属する福沢研究センターが一枚の錦絵を入手した。洋服姿の外国人に扮した歌舞伎役者、左手で落下傘にぶら下がるその持ち手だけが見え、右手からは色とりどりの紙片を撒いている。左上には気球に腰かけた「遠見」(とおみ)の子役。江戸時代からの歌舞伎の手法で、同じ登場人物の遠方での姿を表現するために、同じ姿で子供に演じさせるものだ。この錦絵が伝えているのは河竹黙阿弥作の歌舞伎演目「風船乗評判高楼」(ふうせんのりうわさのたかどの)の一場面である。

 

国周筆「梅幸百種の内 英人スペンサー風に乗る」

国周筆「梅幸百種の内 英人スペンサー風に乗る」

 

今回入手した作品は明治27年のもので、「スペンサー」と名のある、件の外国人は六代目尾上梅幸として描かれているのだが、この演目の初演は3年前、スペンサーは梅幸の養父五代目尾上菊五郎が演じた。その時の見事な錦絵も知られているが、残念ながら当センターではまだ入手できていない。

 

ところで、この歌舞伎演目と福沢、時事新報に何か関係があるのかといえば、これが大ありなのである。さきほどの錦絵で、梅幸の右手からこぼれていた紙片、この多くがナント時事新報の広告なのだ。なぜそういうことになったのか。時計の針を明治23年10月まで戻してみよう。

 

この月、日本中の話題となっていた一人のイギリス人曲芸師がいる。その名はパーシバル・スペンサー(SPENCER, Percival Green 1864-1913)。この人が大観衆を前にガス気球に乗って遥か上空までひとっ飛び、落下傘に乗り換えて帰還する芸を披露して日本人の喝采を浴びた。人が高いところに行って帰ってくるだけの話だが、当時の人に、空は全く未知の世界で、相当な驚きをもって迎えられたのである。

 

この明治23年は、近代日本の議会政治の幕開けの年であった。7月に第1回衆議院議員総選挙が行われ、11月23日には明治天皇臨席により開院式を挙行、本格的な憲政がスタートしたのである。それだけではなく、11月7日には議事堂にほど近い地に壮麗な帝国ホテルがオープン、さらに当時空前の50メートル以上の高さを誇った12階建てエレベーター付きの「高楼」、浅草凌雲閣が開業したのは同月11日のことだった。

 

スペンサーと浅草十二階。奇しくも空を見上げる話題が二つ重なり、これを題材にした、「際物」(きわもの)を代表する歌舞伎が、冒頭の「風船乗」となったわけである。

 

それではスペンサーの「風船乗」の様子を見てみよう。第1回の飛行は明治23年10月12日、場所は横浜公園。午後2時飛行との予告に、浅田徳則知事以下来賓お歴々が居並んでいた。音楽隊の演奏が流れる中、直径10メートル近い気球に水素ガスを充填する作業が行われ、固唾をのんで観客を待たせる時間もエンターテイメントの一環だったのだろう。4時48分、ついにスペンサーが気球に乗ってあっという間に上空3500フィート(約1000メートル)に到達、パラシュートでゆっくりと降下してみせた。離陸地点に戻ってきたスペンサーは壇上に立ち、意外にも想定高度より遥かに高く上昇でき、山河清秀なる日本の景色を一望できたことを満足とする演説をなし、拍手喝采の中に5時半頃解散となったという。

 

この日の興行に時事新報は関係していなかったが、世間の注目するこの場で、隙あらば時事新報を宣伝しようと、チラシを忍ばせて来場した記者がいた。福沢の甥で、アメリカに留学して風刺漫画を学んできた今泉秀太郎(一瓢 1865-1904)である。彼は後にこう回想している。

 

その時に時事新報の引き札を少しばかり持って往きまして、スペンサーに風船の上から撒いてくれるように頼みました。ところが先生、ナカナカ強情で、そんな物を持っちゃア邪魔になるから持って上がることは出来ないといって、厳しく謝絶しました。よんどころなく、私も暫時控えておりましたが、さてスペンサーが風船に乗る準備をするに当たって、日本の人夫を大勢使っておりましたが、お互いに言葉が通じないので、大いに閉口の様子であった。それで私が横合いから指図をしてやった。その返礼として首尾よく広告札を撒いてくれました。(『一瓢雑話』)

 

これがきっかけになったのだろう、2回目以降の興行は、さながら時事新報のイベントの様相を呈してくる。第2回興行は10月19日、同じ横浜公園。人々が固唾をのんで準備風景を眺めていると、突如上空に色鮮やかな小気球が現れた。ぶら下がった1メートルほどの赤い札に白い字で筆太に記された四字は「時・事・新・報」!それが彼方に飛び去ったと思うと、さらにもう一つだめ押しの小気球が人々に「時事新報」の四字を鮮やかに刻みこむ。その様子を自画自賛した記事はこう描写する。

 

その状この図に示すが如し。珍しくも美しかりければ観客賞賛の声しばしは鳴りも止まず、この日風無く、空うららかに晴れ渡りしかば、気球は威勢よく西の方へ向けて虚空遥かに上騰し、およそ十五分がほど経て遂に肉眼の認め得ざるまでに至りたり。(10月21日付雑報)
 

しかもこの2つの気球を拾った人には、時事新報1か月無料進呈の特典付きと気が利いている。一方この日の肝心の風船乗りは、ガスの充填に不具合があって、100メートルと上がらずに落下。申し訳ないとスペンサーは再演を準備するも、薄暗くなってきたためこの日は300メートルほどで降下したと記録されている。

 

この興行を終えたスペンサーは神戸に行き、さらに11月12日に宮城(皇居)正門前で日の丸の交差した風船乗りを天覧に供した。そうして今度は上野での興行を企画する。

 

『時事新報』掲載、上野での興行の広告

『時事新報』掲載、上野での興行の広告

 

11月24日、東京最後の興行を見逃すまいと上野には驚くほどの見物人が繰り出した。浅草の酉の市も重なったため、万世橋まで人力車や馬車で大渋滞。上野公園内は入口から博物館まで人でぎっしりとなり、上等1円・中等50銭・下等20銭の有料入場者だけで1万人以上、便乗ただ見は数知れず、今や遅しとその瞬間を待つ観客。待ち時間の余興と風向きの試験を兼ねて、魚や獣、奇妙な格好の人形などの紙風船が浮かべられ、体をくねらせながら飛び去った。程なく一座の外国人らが印刷物を撒き始めたので、人々は延期だろうかとざわめきながら、こぞって手にしてみれば、そこには気球の画に、「時・事・新・報」の四字。2時45分、準備が整った気球のおもりが外されると、スペンサーが一礼して空を指さしながら上空へと飛び去った。

 

と、上昇を続ける気球から二度にわたって、無音の花火のように飛び散るものがあった。地上にひらひらと到達した物を手にすれば、これまた「時・事・新・報」の広告。人々はわれ先にと、争ってこのチラシを拾い、会場に興を添えた。スペンサーが地上に帰還するまでの時間、およそ6分。降り立った根岸金杉村から人力車で会場に戻ったスペンサーは、来場を謝する演説をなして東京での興行を締めくくったのであった。

 

スペンサーの話も尽きない12月8日、今度はアメリカ人ボードウィン兄弟(BALDWIN, Thomas Sackett 1854-1923; BALDWIN, Samuel Yates 1860-1920)が、同じ上野公園を舞台に熱気球による、更に手の込んだ曲芸を披露すると報道された。再び1万人余りが続々詰めかける博物館前。そこには、高さ75尺(約20メートル)の櫓(やぐら)が組まれ、その頂上各隅には日米両国旗とともに2本ずつの時事新報社旗、櫓中央には時事新報と朱書きされた紅白幕が張り回されていた。

 

午後3時、兄弟の弟が櫓に昇り、頂上よりまずビラをばらまく。おなじみの時事新報広告と、いつの間にか仲間に加わった郵便報知新聞のビラで、間もなく地上の兄からの合図で弟は、地上から2メートルほどの高さに張られた網を目がけて真っ逆さまに飛び降りて観衆を驚かせ、万雷の拍手を浴びた。続いて気球がふくらみはじめ、みるみる大きくなっていく。スペンサーの用いた水素ガスとは違い、今回は薪を焚いて暖めた空気による熱気球だったので、10分少々でパンパンになったその球面を見てみると…そこにはナント「日本一の新聞、時事新報」「Jijishimpo. Best Paper」の文字が。

 

ボードウィンの風船には長い綱が付いていて、上昇した弟は、その綱をするすると上下して、両足でぶら下がるなどの離れ業で観客の肝をひとしきり冷やしたあと、とどめ討ちのビラ撒きで時事新報と郵便報知の売り上げに貢献して、落下傘に乗り換えた。気球が煙を上げながら落下してくる光景もスペンサーの時とは異なり、日暮里の田んぼに落ちて30分ほどで戻ってきた弟は、奏楽堂内で兄と共に挨拶の口上を述べて、この興行を締めくくっている。

 

明治人の度肝を抜くと共に、回を追うごとにこれでもかというほどに時事新報色が濃くなっていった一連の興行に、もう一つ話題を添えていたのが尾上菊五郎である。『東京朝日新聞』はスペンサー2度目の興行の際、こう報じている。

 

○音羽屋の風船見物 芝居道具の工夫に凝る尾上菊五郎は去る十九日のスペンサー二度目の風船揚げを見物し、こいつア妙だ、一番舞台でやって見てえと反り身になって話したとやら。

 

 ボードウィンの興行にも菊五郎が来場した報道があり、新しもの好きで凝り性の音羽屋が、今度は風船乗りを演ずるらしいとの噂が広まっていった。五代目菊五郎といえば、弁天小僧を演じた河竹黙阿弥(新七)作の「白浪五人男」が出世作となったように、黙阿弥とのタッグで名作を多数残し、維新後の風俗を取り込んだ「散切物」(ざんぎりもの)も多く世に送っていた。今の歌舞伎のイメージとは随分違うが、当時の歌舞伎には社会の流行の息吹と対話しながら世相を写すメディアの役割を果たす演目が少なからずあり、菊五郎はとりわけそれが好きだった。

 

明治4年にフランスのサーカスが来日するとそれを題材に黙阿弥に書いてもらった「音響曲駒鞭」(おとにきくきょくばのかわむち)で外国人親子の曲芸を演じ、19年にイタリアからサーカス一座が来日すると、これまた黙阿弥作の「鳴響茶利音曲馬」(なりひびくちゃりねのきょくば)で、座長のチャリネや、象遣いアバデらを熱演して、興行をそっくり再現して見せた。

 

風船乗りは新作にもってこいの話題で、菊五郎は現場で自らスケッチまでして、黙阿弥に企画を持ち込む。その一方で、日頃より福沢諭吉と交流のあった菊五郎は、風船乗りの興行と時事新報の関係もあってか、この作品の趣向について福沢にあれこれ相談を持ちかけたらしい。そのことを福沢は米国留学中の息子への手紙で次のように報じている。

 

尾上菊五郎が歌舞伎座にて風船の一幕を催すとて色々問い合わせに参り、風船のことは秀さんが最初より掛け合いにて、極々くろうとゆえ、それこれと教えてやり、その節、拙者の考えにて菊五郎にほんとうの英語にて演説すること、スペンサーの如くしては如何との言に、菊五郎も是非やって見たしとて、それより英語を作り、ミストル・マッコーレーに直してもらい、またこれを日本語の口上に訳し、別紙の通りの広告にも記し、六、七日前より舞台に試み候ところ、英語も相応に出来候よし。すなわちそのお師匠様は秀さんにて、こちらには時事新報広告のインテレストあるゆえ、秀さんは毎日のように楽屋に入り込み、英語教授その外の指図に忙しく致し居り候。他新聞などには思いも寄らぬ工風(くふう)、坂田氏も尽力致し候。ただし風船に広告はスペンサー並びにボードウィンの時に新報があたかも専売致したるにつき、今度その真似をする菊五郎も、ほんものに擬して時事新報の広告を空中より撒き散らすという趣向なり。(福沢捨次郎宛書簡、明治24年1月14日付)

 

 福沢は菊五郎に英語演説をさせようと思いつき、早速素案を作成、親しいユニテリアン派の牧師マッコーレーのネイティブ・チェックを受けて提供した。発音指導はアメリカ帰りの前述の今泉秀太郎が担当したわけである。時事新報としては、この新作が本物そっくりになればなるほど、時事新報抜きには出来なくなるわけで、ビラも撒いてもらうことにして御の字というわけだ。ちなみに書簡に名のある「坂田氏」は福沢門下で広告代理店三成社を創立した坂田実である。

 

こうして明治24年1月、歌舞伎座にて1幕2場の「風船乗評判高楼」の幕が開いた。舞台は上野の博物館前。詰めかけた大群衆の中で、田舎風の股引、尻端折りの百姓畑右衛門(四代目尾上松助)が、キセルをふかしながらこうつぶやく。

 

まず長生きをしたお陰には、大地震から大暴風雨(おおあらし)、画(え)ばかりでなく本物の、戦(いくさ)を現に見ましたが、異国からさもいろいろな珍しいものが来ましたが、象や虎は目古くなり、今度風船乗りを見ますのは、今の世界の有り難さ、田舎へ土産になりまする――

 

上野の、まさに人々がごった返していた場所でわずか20数年前には彰義隊の戦争があり、好奇心旺盛な菊五郎は流れ弾を恐れながら野次馬で戦場を駆け回った経験がある。そうして世は移ろって、時には歌舞伎でサーカスを演じて象や虎まで登場させ、今度は風船乗りというわけで、黙阿弥一流の七五調で語られるこのセリフには、江戸から明治を見てきた当時の人々の隔世の生々しさがにじんでいる。間もなく東京市中音楽隊による洋楽が流れたと思うと、さらに常磐津連中の浄瑠璃となり――。

 

外国(とつくに)にその名も高き軽気球、昇る雲井の叡覧に、君の御感を蒙りて、栄誉を得たる英国のスペンサー氏の離れ業…

紙人形の菊五郎(中央)とそれを操る通弁横垣栄司(二代目尾上幸蔵)。

紙人形の菊五郎(中央)とそれを操る通弁横垣栄司(二代目尾上幸蔵)
『一瓢雑話』より

 

あの上野の興行と同じように、魚や獣をかたどった紙風船が舞台に浮かべられて客席にふわふわ漂っていき、最後に菊五郎扮する紙人形が運び込まれて軽妙な踊りを舞う。この紙人形が破れ、フニャフニャと菊五郎が崩れ落ちて運び去られ、早変わりでいよいよ菊五郎のスペンサーの登場かと息をのむ桟敷。その上を、またあの時事新報の小気球が、1つ2つと漂い、天井に達するや客席に落ちて観客がこれを奪い合う。過日の光景そのままに、時事新報の思うつぼだ。

 

スペンサーに扮した菊五郎。

スペンサーに扮した菊五郎
『一瓢雑話』より

 

ここで菊五郎のスペンサーの登場となる。頭髪から、あごに蓄えた髭まで茶髪、黒に細い茶の縞の背広に、弁慶格子のズボン。白のチョッキはスペンサーその人からもらった本物。実際の興行を見た人からすると、うり二つの風貌に、生き写しの仕草、これが大受けで、遂に気球の上昇シーンとなる。その様子は浄瑠璃にて――。

 

早や日も西へおちこちに、むら立つ雲も晴れ渡り、小春日和の麗らかに、そよ吹く風も中空へ、やがてぞ昇る軽気球。万国に名も聞こえたるスペンサー氏は満場の、諸見物に一礼なし、気球のもとへ立ち寄りて、呼吸をはかり一声の、合図の声に押さえたる、綱を放てばたちまちに、虚空はるかに…。

 

気球が上昇する場面。左側に畳まれているのが帰還用パラシュート。

気球が上昇する場面。左側に畳まれているのが帰還用パラシュート
『一瓢雑話』より

 

すると、またしても場内を紙片が舞う。そう、言わずと知れた時事新報の広告ビラだ。撒きながら菊五郎が舞台の天井に姿を消していくと、背景が転じて遠景となり、遠見の小さな気球に腰掛けるは菊五郎の実子、幸三(後の六代目菊五郎)だ。彼が空中でボードウィンさながらに曲芸を披露していると、さっと風にさらわれて舞台からはけていき、入れ替わりで天井から菊五郎のスペンサーが落下傘でゆっくりと降下して、奈落へと落ちて行く。程なく花道を人力車に乗ったスペンサーが戻ってきて、さあ、いよいよスピーチとなる。この部分は黙阿弥の台本にはト書きで仕草の説明しか無いのだが、この時彼が口にした英語というのが、今泉秀太郎によって伝えられている。

菊五郎演じるスペンサーの演説姿(『五世尾上菊五郎』より)

菊五郎演じるスペンサーの演説姿(『五世尾上菊五郎』より)

 

Ladies and Gentlemen, I have been up at least three thousand feet. Looking down from that fearful height, my heart was filled with joy to see so many of my friends in this Kabukiza, who had come to witness my new act. Thank you Ladies and Gentlemen; with all my heart, I thank you.(今泉秀太郎『一瓢雑話』)

 

これを通訳の横垣栄司がすかさず訳したと思えば、とうとうご丁寧にセリフでスペンサーにこう言ってくれる。

 

栄司 時事新報の広告や、平尾の歯磨きの広告がまだ残っておりますから、これを撒いて下さいまし。(註1)

 

こうしてほとんど時事新報の宣伝に終始するような演目の「上野博物館前の場」は終わる。第二場「浅草公園奥山の場」では、スペンサー見物後に酉の市に来た金満家と落語家の三遊亭円朝・金朝親子が、浅草十二階を背後に相互に踊りを舞うという趣向で、ここでの見ものは、菊五郎扮する円朝のこれまたそっくりの演技だったという。

 

伝統芸能たる歌舞伎に、これほど露骨にスポンサーとして食い込めば、今では大ひんしゅくであろうが、当時はそれこそテレビドラマを見る気分で気軽に楽しむ娯楽であり、時事新報がうまくやりやがる、と観客も感心しきりだった、と想像しておこう。

 

さて、時事新報はどうしてこれほど歌舞伎に入れ込んだのだろうか。福沢諭吉はそれほど歌舞伎好きだったかと、『福翁自伝』を繙くと、こう出ている。

 

私の母は女ながらもついぞ一口でも芝居の事を子供にいわず、兄もまた行こうといわず、家内中ちょいとでも話がない。夏、暑い時の事であるから凉みには行く。しかしその近くで芝居をしているからといって見ようともしない、どんな芝居をやっているとも涼みにもしない、平気でいるというような家風でした。

 

幼少時、近所の誰もが芝居に出掛ける中で、福沢家だけは折り目正しい亡き父の家風を守って芝居を見に行かなかったという話である。福沢にとって芝居とは俗悪な忌むべきものとしてここでは描かれているのだ。どんな芝居も見たことがなかった福沢も重い腰を上げて、芝居見物に出掛けるきっかけとなったのは、「演劇改良」という議論が高まったからである。生まれて初めて芝居小屋に足を踏み入れるのは明治20年3月、諭吉52歳の時である。

 

歌舞伎の世界にも欧化の波が押し寄せていた。「改良」と称して、歌舞伎も抜本的に変わらなければならないという声が世のお歴々から高まっていた。その改良論に積極的な名優九代目市川団十郎。対して新しもの好きながら、改良とやらには懐疑的、生粋の江戸っ子風に斜に構えたご存知五代目尾上菊五郎。これに初代市川左団次を加えて「団菊左」と並び称された名優たちと福沢、時事新報を巡る交錯を次回は紹介してみよう。本当はそれが主題の予定であったが、つい風船に夢中となって1回潰れてしまったので、今回はこれにて打ち出し。

 


(註1)歌舞伎における英語ゼリフは、実はこの時が最初では無く2度目だという。1度目は明治20年の「三府五港写幻灯」(さんぷごこううつすげんとう)における市川徳三郎のセリフだという(『新日本古典文学大系 河竹黙阿弥集』註参照)。なお、通弁の横垣栄司はお察しの通り、「横書き」の「英字」のもじり。「平尾の歯磨き」は歌舞伎中での広告の常連だったという。歌舞伎の中で広告をすること自体は、江戸時代から続く手法だという。

・「風船乗」の台本全文は、『明治文学全集9 河竹黙阿弥集』(筑摩書房、1966年)、『新日本古典文学大系明治編8 河竹黙阿弥集』(岩波書店、2001年)などで読むことが出来る。

 

・この演目については以下の文献も詳しい。
 ・矢内賢二
  『明治キワモノ歌舞伎 空飛ぶ五代目菊五郎』(白水社、2009年)
 ・日朝秀宜
  「音羽屋の『風船乗評判高閣』」(『福沢手帖』111号、2001年12月)
 ・鈴木隆敏
  「福沢諭吉と歌舞伎」(『福沢手帖』146号、2010年9月)

 


   
著者プロフィール:都倉武之(とくら・たけゆき)
1979年生まれ。2007年慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。 現在、慶應義塾福澤研究センター准教授。
専攻は近代日本政治史。 主要業績に、「明治十三年・愛知県明大寺村天主教徒自葬事件」『近代日本研究』18号(2002年3月)、『福沢手帖』115号(2002年12月)、「資料 機密探偵報告書」『福沢諭吉年鑑』31巻(2004年12月)、「愛知県におけるキリスト教排撃運動と福沢諭吉」(一)・(二)『東海近代史研究』25・26巻(2004年3月・2005年3月)、「日清戦争軍資醵集運動と福沢諭吉」『戦前日本の政治と市民意識』(慶應義塾大学出版会、2005年)、「福沢諭吉の朝鮮問題」(『福沢諭吉の思想と近代化構想』、慶應義塾大学出版会、2008年)など。
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