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オリジナル連載 (2011年7月15日掲載)

時事新報史

<番外編>

『時事新報』と義捐金(1)
ノルマントン号事件と磐梯山噴火

 
 

























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 3月11日に発生した東日本大震災は、様々な面で甚大な被害をもたらし、原発事故はいまだに収束の見込みさえ立っていない。古来日本人は多くの自然災害に直面してきたが、明治期の『時事新報』の歴史にも、震災や津波などの大災害は、たびたび顔を出している。その時の『時事』の振る舞いを知ることは、今日のこの震災を考える一つの観点として意義あることと思う。ここで紹介したいのは、今日ではごく当たり前に行われているメディアによる義援金募集の定着に、『時事新報』が少なからぬ役割を果たしたということである。(当時は「義捐金」という表記が一般的だが本文では引用以外「義援金」と表記する)

 

新聞が初めて「義援金」を呼びかけたのは、明治18年6月から7月にかけて発生した淀川大洪水発生時の『大阪朝日新聞』(以下『大朝』、現在の朝日新聞)であるといわれている。この時の洪水は度重なる暴風雨により大阪市内の広範囲が水没する大災害で、『大朝』はそのさなか「義金募集」の見出しで義援金募集広告を掲げた。これに地元篤志家が応じて寄付が続々と集まった様子が紙面に伝えられている。地元の人たちが見舞い金を役所に寄せることはこの当時ありふれた光景であったようだが、これを発進力の大きい新聞というメディアが積極的に募集し、それをまとめて役所に届けたということがこの時の新しさであった。

 

これに続いて新聞史上に現れるのが、ノルマントン号事件における義援金募集である。この事件は、明治19年10月24日に紀州沖で発生した英国汽船の沈没事故で、船長以下西洋人乗組員は全員難を逃れたにもかかわらず、日本人乗客全員が死亡、しかも不平等条約によって日本側が船員を裁くことが出来ず、英国領事館は船長以下に責任がないとの判断を下したため、日本世論が激昂し日英間の外交問題に発展したのである。このとき東京では、5つの新聞社が連名で、被害者遺族のための義援金募集を行った。5紙とは『東京日日新聞』(以下『東日』)『毎日新聞』(現在の同名紙とは別)『朝野新聞』『郵便報知新聞』『時事』である。

この時の義援金募集がそもそもどのような経緯で始まったかを詳しく知ることは出来ないが、非常に大きな反響を巻き起こしたらしく、申し込みが殺到、当初被害者を慰める目的であった義援金は、難破船の引き揚げ、欧米各紙への意見広告などへと熱を帯びて拡大していった(*註1)。義援金応募額と住所、氏名をリストとして紙面に掲げることが領収書の代わりとされ、当時の紙面には紙面の末尾にたびたび応募者リストが掲載されている。『時事』は、この事件を早くから大きく報じた新聞の一つであったが、世論が極端に高揚していく中、英国領事館による再審理で一転船長の責任が公正に裁かれる兆しが見え始めると、論調を急速にクールダウンさせた。本連載でもたびたび解説するように、これは日英関係の深刻な悪化が日本に良い結果を生まないという判断から、排外的色彩を帯びつつあった世論を戒め、外交関係修復を図る当局を後押ししようという、『時事』特有の官民調和的態度である。

 

ノルマントン号事件の義援金募集広告(『時事』明治19年11月13日付)
こちらか画像をクリックすると拡大します。

 

そのような『時事』の論調の推移にかかわらず、義援金募集の結果は『時事』が他紙を圧倒する結果となった。集計総額1万8000円弱のうち、『時事』が集めたのが6200円ほどで1位、2位の『東日』は3800円ほどであった。つまりこの募集は、図らずも『時事』が社会に高く信用されていることを示したということが出来るだろう。つまりお金を預ける新聞として、あるいは名前を載せてもらう新聞として、多くの人は『時事』を選んだということである。

義援金募集の機会は、その2年後に再び訪れる。明治21年7月の磐梯山噴火がそれだ。山頂付近が吹き飛び、山の姿を一変させたこの時の水蒸気爆発では、500名近い犠牲者が出て、数か村が埋没、川がせき止められ五色沼一帯の湖沼群が形成された。この災害は新聞史上においては、災害特派員派遣や報道写真(*註2)が登場した災害として知られる。

 

磐梯山噴火を図入りで報じる『時事』紙面(明治21年7月24日付)。
下端には義援金応募者のリストが掲載されている。
こちらか画像をクリックすると拡大します。

 

このとき、再び新聞各紙の連名による義援金募集が企画されたのである。噴火から6日目に各紙一斉に掲載された「義捐金取次広告」には、なんと東京の15の新聞社が名前を連ねた。その広告は次のような内容であった。

義捐金取次広告

今般、福島県下耶麻郡磐梯山噴火のため、その禍を蒙れる者少なからず。ついては、世の慈善家にして、右罹災者へ金円を義捐せんと欲するも、その送達方に不便を感じ、これが取次を御依頼の向きもこれあり候につき、各社申し合わせ、右取次方取扱候よう致し候間、金円相添え、左の各社の中へお申し遣わし相成り候えば、取りまとめの上、福島県庁へ差出し、救恤(きゅうじゅつ)にあて申すべく候。但し金円御寄送の向きは、これを受け取りたる社の新聞紙上にその姓名を記載し、別に受領書を差し出さず候。

明治二十一年七月
報 知 社
毎 日 新 聞 社
朝 野 新 聞 社
日 報 社
時 事 新 報 社
日 就 社
東 京 電 報 社
公 論 新 報 社
三 益 社
絵入朝野新聞社
東京朝日新聞社
両 文 社
今 日 新 聞 社
絵入自由新聞社
や ま と新聞社

 

広告の掲載経緯は不明であるが、『時事』自身は、東京に噴火の報が伝わって以降、義援金を委託する者が多くあったので、各新聞社と協議し、義援金取り次ぎを決めたと報じており、『時事』が先導したニュアンスだ。そしてこの動きに全国各地の新聞社も続々と追随していった。

 

この義援金募集は、被災者を支援するためのメディアによる運動が全国的に展開された日本で最初の災害復旧救援の動きといってよく、しかも大阪淀川洪水の先例とは大きく異なる意味を持っている。大阪の事例は「大阪の災害」に「大阪の人々」が力を出し合ったという例であり、日本に以前から存在していた共同体的な意識の発露と位置づけることが出来る一方で、この磐梯山の事例は、少々極端な書き方をすれば、「直接自分とは無縁の地、無縁の他者」に対して、日本人がこぞって心を寄せる意思の表明であった。これは、同じ日本に住み、同じ価値観を共有している他者の窮地に情を寄せるという、近代的な国家意識を前提としていたということができる。ノルマントン号の事例も、同様に論ずることができそうであるが、政治的示威運動の色彩が濃い。ノルマントンの前例のノウハウが生かされ、今回は純粋に被災者を救う運動として展開されたわけである。

 

このときの『時事』は、義援金募集の拡大に積極的であった。応募の手続きを整備し、ノルマントンの際は断続的だった応募者リストの紙面掲載を連日に、またその掲載位置は紙面最末尾ではなく、比較的目につく場所に移された。応募額の順調な伸びに福沢諭吉も満足を覚えたらしく、アメリカに留学していた娘婿の福沢桃介に宛てた手紙で次のように記した。

 

時事新報は何故か、なかなか勢力ありて世の信用も厚し。既に先日磐梯山罹災につき、義捐の金を集めたるに、諸新聞は新報の半高に及ぶものさえなし。この一事をもっても推して知るべし。(明治21年8月27日付書簡、『書簡集』第6巻)

 

ただ、その広がりはいまだ限定的なものであった。『時事』は社説で、今回の災害は「もとよりノルマントン号の類にあらざれば、我輩は必ずその慈善義捐の国中広くして大ならんことを期するものなり」(同7月22日付社説)と主張したが、結果は締め切りの段階で15社合計6400円余り。『時事』はやはり1位であったが2500円ほどに過ぎなかった。福島県庁の資料によると全国各地から寄せられた義援金の最終合計は2万3000円に達し、『時事』の最終額も5400円まで増加したようである。しかし、いずれにしてもノルマントン号事件と大差のない結果で、全国への広がりは大きかったといっても、全体として「薄く広く」集まったに過ぎず、期待されたほどの盛り上がりには欠けたということになろう。

 

この経験をさらに発展させ、福沢が被災地救援キャンペーンともいうべき大々的な運動を、『時事』を発信源として展開するのは、明治24年10月に発生した濃尾地震においてであった。

 

 

 

註1

義援金は結局、被害者遺族に分配され、難破船引き上げや意見広告は行われなかった。

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註2

報道写真といっても、新聞に写真を掲載する技術はまだない。新聞は写真を参考にした銅版画、木版画を掲載し、幻灯写真の上映などで報道写真が人々の眼に触れた。

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著者プロフィール:都倉武之(とくら・たけゆき)
1979年生まれ。2007年慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。 現在、慶應義塾福沢研究センター専任講師。
専攻は近代日本政治史。 主要業績に、「明治十三年・愛知県明大寺村天主教徒自葬事件」『近代日本研究』18号(2002年3月)、『福沢手帖』115号(2002年12月)、「資料 機密探偵報告書」『福沢諭吉年鑑』31巻(2004年12月)、「愛知県におけるキリスト教排撃運動と福沢諭吉」(一)・(二)『東海近代史研究』25・26巻(2004年3月・2005年3月)、「日清戦争軍資醵集運動と福沢諭吉」『戦前日本の政治と市民意識』(慶應義塾大学出版会、2005年)、「福沢諭吉の朝鮮問題」(『福沢諭吉の思想と近代化構想』、慶應義塾大学出版会、2008年)など。
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