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オリジナル連載 (2007年10月9日掲載)

時事新報史

第19回 社屋の移転 日本橋を経て銀座へ

 
 

























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三田・慶応義塾構内に置かれた慶応義塾出版社は、発行部数の増加と共にすぐに手狭となった上、東京の中心からやや外れている地理的限界から情報収集にも何かと不便であることから、翌年10月27日をもって、早くも日本橋区通三丁目十一番地(現在の中央区日本橋2丁目)に移転した。この土地には勧工場第三親睦商社跡の二階建て空き家があり、それを修繕して入居したと伝えられる。移転地決定の経緯については伝わらないが、すぐ隣が福沢門下生の早矢仕有的(はやし・ゆうてき)創業にかかる丸善商社(現在の丸善日本橋店)で、福沢との交流も密であったから、その辺りから移転の話がまとまったのではないかと思われる。中上川彦次郎がこの移転を詠んだ漢詩がある。

時事新報本局移転前宵
土木六旬明日成 関心天気吝余晴
西窓一夜多梧竹 聴尽秋声作雨声

土木六旬明日成る。心に関するは天気の余晴を吝(おし)むを。
西窓一夜梧竹多し。聴き尽くす秋声の雨声と作(な)るを。

日本橋時代の社屋
 

しかし日本橋も安住の地とはならず、3年あまりで再移転を迎える。したがって、日本橋の社屋については、ほとんど資料が残されていない。わずかながら伝えられているのは日々の逸話だけで、そこからは、牧歌的な社内風景が、情報技術の発展や世事の多端からにわかに喧噪を帯びてくる様子をうかがうことができる。

 

日本橋時代の初期に退社した矢田績は、次のようなエピソードを伝えている。

福沢先生はほとんど毎日三田の邸宅より和服姿で人力車に乗り、日本橋へ通勤せられ、小さな部屋で論説や当時一般読者から大好評を受けた漫言を起草して、ただちに印刷部へ廻されたのである。時事新報の編輯にご熱心であったのは、我々が敬服したところである。昼は先生はじめ編輯局員と編輯室の一隅で昼飯を認めたが、先生は大抵ソバ一杯位である。我々は時に天ぷらやさしみで食事するのを先生が目撃せられて、余り昼食にご馳走を食べる必要はないとこごとを言われたので、先生はお宅の夕食にたくさんご馳走を召し上がるので昼食は簡単でも宜しいが、私どもは下宿屋で夕食も極めてお粗末な料理であるから、たまには昼に少々ご馳走を食べますと抗議したので、先生も笑われたことがあった。(『懐旧瑣談』)

 

岡本貞烋は、福沢が社員の日常について、時に厳しい言葉で怒鳴り散らした姿を伝えている。

時事新報社がまだ通り三丁目にあった時分、ある日誰であったか新聞社用の罫紙を落とし紙〔トイレットペーパーのこと〕に使用した者があった。それを福沢先生が便所に行かれて偶然発見すると、実にけしからぬ事であると非常に怒られた。「罫紙は原稿を書くために出来ているものである、そのために罫が出来ておりその罫を版に彫る職人もあれば、摺(す)る者もある。それらの人々の労力によって作成された罫紙には罫紙だけの用途が備わっておる。それを落とし紙に用いるとは何たることであるか。物の労力と使用の道を誤るも甚だしいと申さねばならぬ。全体これは時事新報社員の平素の心得が間違っている証拠である。…一事は万事で、当人もこれが段々進むと大きな過ちを犯すようにもなろう。また後来社を出て他へ行くにしても、小さい所から立派な精神を持っていないと何をしても成功はせぬものである。今後はたとえ小事なりともよく気をつけて慎まねばならぬ」と故高木喜一郎氏を譴責され、私は傍にいて共々叱られて迷惑をしたことがあったが、今にして考えれば先生の言われた言葉は皆ことごとく当たっているのを思って今さら推服の念に堪えない。(『恩師先輩訓話随録』)

 

時事新報社内に限らず、福沢にはとにかく怒鳴り散らすエピソードが多い。ちなみに、そういったときの口癖は「途方もねえ馬鹿野郎だ」であったらしい。

 

編輯局の様子は、三田時代と大して変わっていなかった。18年5月入社の石河幹明は入社した頃の様子について、「編輯局は二階の広間に社長〔中上川のこと〕をはじめ一同机を並べて執務し、別に社長室などいうものはなく、ただ四畳敷ぐらいの別間があって〔福沢〕先生はここで筆を執られ」(『伝』)ていたと、記している。経営も安定して社の業務は基本的に中上川に任せていた福沢は、慶応義塾に、交詢社に、来客対応に、と多忙を極め、日本橋移転以降時事新報へは幾分足が遠のいた。福沢が日常の移動手段を、人力車から二頭立ての馬車に改めたのもちょうどこの頃であった。

 

ところで、矢田はこの頃の社員の服装について、「当時はもちろん洋服など着ておりません、みな粗末な和服で袴も何もはいていない」(『明治財界の英傑中上川彦次郎氏を語る』)と回想しているが、福沢は早くから和服は仕事着には適さないとして洋服に改める必要を主張していた。岡本によれば、日本橋時代に福沢が「探訪でも何でも一切人手を借りず、皆銘々自分でやって、大いに働かねばならぬ。それにはどうしても在来の日本服では仕事は出来ぬから皆洋服を着ることにしようではないか。新聞社は率先して事をなさねばならぬ。衣服改良の上からもまず第一にわれわれが社会の木鐸となって実行することにしようではないか」と呼びかけ、社員は皆それに応じたという。岡本も「おまえは洋服の辛抱が出来るか、鳶大工の股引袢纏という軽装をする勇気があるか」と直接福沢から声をかけられ、以後洋服一点張りにすると誓約、以来現在まで会社出勤は洋服で通していると大正3年の著書で述べている。

 

たしかに、この頃の社員達の写真は皆一様に洋服姿となっている。本連載第12回掲載の水戸出身者の画像も、おそらくこれ以降のものであろう。慶応義塾のこの時期の卒業写真でも、多くの塾生が和服のなか、福沢は洋服姿で写っている。

 明治16年12月慶応義塾本科卒業写真
 

日本橋時代は、それまでの新聞一般の雰囲気として存在した片手間の事業というのんびりした時間の流れから、より経済的に、独立した事業として成功する新聞社を目指す姿勢へと、変化していく時代であったといえるかも知れない。なお、慶応義塾出版社が時事新報社と名を改めたのは、明治17年4月のことで、新聞創刊以前から書籍出版を業とした慶応義塾出版社と紛らわしいというのが変更の理由であった。

 

19年12月24日、時事新報社は京橋区南鍋町二丁目十二番地(現在の中央区銀座6丁目)へ移転する。今度は交詢社のすぐ隣の地である。政治家・実業家はじめ諸方面で活躍する人士が集う交詢社は、福沢や社員にとって恰好の情報収集拠点となっていた。政府の内情、経済の実情、巷間の噂。あらゆる情報が集まる交詢社の隣地への移転は、時事新報社にとって、多くの利益をもたらすことであった。

南鍋町社屋

南鍋町への移転に当たっては面白い話がある。この場所にはもともと書家の前田黙鳳が開いた鳳文館という漢籍の出版販売店があり、初期の『時事』にはたびたびこの店の広告が掲載されている。交詢社を訪れた福沢は、この店を眺めながら、「政府の儒教奨励の結果、漢籍が流行し出してこんな店が出来るようになったのだが、気の毒ながら数年の中には世間の漢学熱も冷却してこの店の如きも潰れてしまうにきまっている、その時にはこの建物をこちらのものにしてやろう」(『伝』)などと冗談で言っていたという。確かにこの店は衰退し、間もなく福沢の手に渡ったのである(鳳文館も翌年倒産)。

 

新社屋は新築され、中上川が「普請奉行」を務めた。建物は煉瓦造の二階建てで、設計者は不明だが、一説にはジョサイヤ・コンドルに教えを受けた福沢のいとこの子に当たる藤本寿吉(ふじもと・ひさきち)であるといわれる。この社屋については、不思議と記録が乏しく、果たして藤本の設計であるか否か、現状では判断しがたい。今日残されているわずかな絵や写真を見る限り、社屋はかなり簡素な建築で、若干疑問の残るところである。

 

中上川は、元『時事』記者で大阪毎日新聞に移っていた本山彦一に新社屋のことを次のように知らせている。

今度の時事新報社は小使部屋の外は一切畳を廃し普くガス灯を設置して、便所の外は石油灯を要せず、蒸気器械を据え付けて印刷器を運転するに人手をからず、暖炉を設けて火鉢を廃し、表入口の戸を唐戸二枚にて開閉自在、用なき折りは常に閉鎖しおるものとなし、また受付の場所を二間半ばかりの広きものとなし、広告用の来客には広告掛員直接に談判し、新聞註文の来客には集金掛員直接に談判し、一度受付掛にて承り小僧に伝え、小僧より常務員に通ずる往返問答の手数を省きたる等、新時事新報社の旧時事新報社に異なるヶ条に御座候。もちろん十分の便利を得たるものにてはこれなく候らえども、何分にも移転費に限りありて十分のことをなすを許さず、金の少なく掛かりたる割合にはまず相応の出来と存じ居り候事に御座候。普請費は別館新築費を除き、四千五六百円にて足るべしと存じ居り候。(明治20年1月1日付書簡)

 

ここにいう「別館」とは、交詢社との間に建てられたホール(1階が食堂、2階が談話室)で、交詢社からも時事新報社からも相互に出入りできるようになっていた。内装はなかなかぜいたくに映るこの社屋に、福沢は例のかんしゃくを爆発させたらしい。ガス灯を見た福沢は「誰がこのような途方もない馬鹿な真似をした」と怒鳴りながら中上川を呼び付けて叱責し、ガス灯は一度も点火されずに終わったという話も伝わる(佐瀬得三『続々当世活人画』)。

 

社屋新築直後、社長の中上川が退社することとなったため、福沢の出社は再び盛んになった。編輯局においては、最初福沢用の室がなく、局の広間にテーブルを置いて執筆していたが、その後社屋の一隅に二畳敷きぐらいの日本間を設け、さらに交詢社2階の一室を執筆部屋と定めた。この頃には、福沢に何らかの心境の変化があったものか、和服姿を通すようになっている。

 

ところで、この交詢社の部屋は「鶴仙」という寄席と背中合わせになっており、しかも演芸舞台が交詢社に最も近い位置にあったため、落語音曲などが手に取るように筒抜けだった。ある時浄瑠璃の二代目竹本越路太夫(のちの摂津大椽)が東京に来て「傾城阿波の鳴門」を演じて大変な人気を博した時のこの部屋の様子を高橋義雄が書き残している。

越路が鶴仙の昼席に出勤して阿波の鳴門を語った時、あたかも福沢先生が編輯所にいて、越路の美声を張り上げて語り行き、十郎兵衛がおつるを殺して金を奪わんとする所に至るや、先生は感激の余り「悪い奴だ……悪い奴だ」と繰り返して独語された。これは越路の至芸が深く先生を感動せしめたためでもあろうが、悪事に対する先生の憤怒が知らず識らずその極みに達したもので、私は隣室にいてひそかにこれをうかがい知り、余りのおかしさにクスクス噴き出してしまったが、つらつら考うればこの一事によって自ら先生の純真な感情を察知するに足るべしと、却って大いに感服したのである。(高橋義雄『箒のあと』)

 

南鍋町社屋は、増改築があったものと思われるが、関東大震災で焼失するまで使用された。震災復興に当たって、全焼した交詢社と併せた土地に仮社屋を建築して急をしのぎ、その後丸の内に移転、土地は交詢社に譲渡した。その土地は現在の交詢社ビルディング南側、交詢社通りに面した側の土地に当たる。


資料
・『伝』3。
・矢田績『懐旧瑣談』(名古屋公衆図書館、昭和12年)。
・矢田績『明治財界の英傑中上川彦次郎氏を語る』(昭和9年)。
・「先生罫紙一枚の濫用に譴責さる」「先生と洋服着用の由来」(岡本貞烋『恩師先輩訓話随録』、大正3年)。
・『中上川彦次郎伝記資料』(東洋経済新報社、昭和44年)。
・佐瀬得三『続々当世活人画』(春陽堂、明治33年)。
・高橋義雄『箒のあと』上巻(秋豊園、昭和8年)。
・『交詢社百年史』(昭和58年)。
・日本橋社屋は、その後小津紙店(現在の小津和紙)の洋紙専門店・東京洋紙会社となり、現在では日本橋丸善の敷地の一部となっている。
「小津330年のあゆみ」

画像
・日本橋時代の社屋(『時事』明治17年5月3日付広告)。
・明治16年12月慶応義塾本科卒業写真(慶應義塾福沢研究センター蔵)。2列目中央の福沢のほか2名の学生が洋服である以外は皆和服姿。
・南鍋町社屋(明治26年のポスター、慶應義塾福沢研究センター蔵)。

   
 
著者プロフィール:都倉武之(とくら・たけゆき)
1979年生まれ。2007年慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。 現在、慶應義塾福沢研究センター専任講師。
専攻は近代日本政治史。 主要業績に、「明治十三年・愛知県明大寺村天主教徒自葬事件」『近代日本研究』18号(2002年3月)、『福沢手帖』115号(2002年12月)、「資料 機密探偵報告書」『福沢諭吉年鑑』31巻(2004年12月)、「愛知県におけるキリスト教排撃運動と福沢諭吉」(一)・(二)『東海近代史研究』25・26巻(2004年3月・2005年3月)、「日清戦争軍資醵集運動と福沢諭吉」『戦前日本の政治と市民意識』(慶應義塾大学出版会、2005年)、「福沢諭吉の朝鮮問題」(『福沢諭吉の思想と近代化構想』、慶應義塾大学出版会、2008年)など。
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