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オリジナル連載 (2010年6月18日掲載)

時事新報史

第23回

試練のとき(1) 〜高橋義雄の退社

 
 

























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明治20年(1887)4月、編集と経営を統括し、社説も書いていた社長の中上川彦次郎が『時事』を去った。福沢は、いっそ新聞社を手放してしまおうかとも考えたようだが、「今後の日本国中にことをなさんとするには新聞紙は甚だ必要」と思い直し、「辛苦これまでに出来たる新聞紙を、馬鹿者の手に渡すも残念なり」と、相変わらず悪い口で、新聞を何とか自力で維持していくことを決意する。福沢の考えでは「人物さえあれば維持は易し」(以上本山彦一宛書簡)と思われた。

 

ところが、「人物」が覚束ない。特に執筆(社説記者)の人材不足に、福沢は焦りを募らせていく。当時在籍していた社説記者は高橋義雄、渡辺治の2名。これに横浜正金銀行の日原昌造など、従来からの社外協力者の助力を請えば、後は自分の執筆で頑張れるであろう、そうしているうちに新たな人材もスカウトできるだろうというのが福沢の当初の見通しであった。ところが、その一角が早々に崩れ始めた。高橋義雄が退社を申し出たのである。高橋自身は後に次のように振り返っている。

 

〔福沢〕先生の口授筆記も、また自筆の論説も、あまり多く先生の手数を煩わさずして、時事新報の社説欄に掲載せらるることとなり、俸給もかなり多額であったから、何不自由ないというべきところだが、私は生来よくいえば趣味、悪くいえば道楽とでもいうのであろう、衣食住について贅沢な注文が多く、新聞記者として売文生活を続けたのでは、到底この性癖を満足することができぬということに気がつき、これと同時に新聞記者として短時間に早急作文するということは、愉快を感ずるよりもむしろ苦痛を覚ゆることが多く、時としては明日掲載すべき論説の考案に、深更まで頭脳を労することなどありて、健康上にも影響する場合あり、作文趣味も衣食にこと欠かずして、五日一石を書き、十日一水を書くというように、気楽にこれを取り扱ってこそ、大いに趣味を感ずるものなれ、役目に束縛せられて、嫌々ながら筆を執るのは、むしろ苦痛であると感じてきたので、私は一時実業界に寄り道して、生活の安定を得たる上にて、再び文芸生活に立ち戻り、気楽に作文趣味を楽しむにしかずと、ここに新聞記者廃業の決心を固むるに至ったのである。(『箒のあと』)

 

後に茶人高橋箒庵として名をなす人に相応しい「廃業の決心」といえようが、高橋と、3歳年下のもう一人の社説記者渡辺の二人は、福沢が『時事』の将来を託そうと大切に育てていた人材である。福沢のショックは計り知れない。

 

衆目の一致した評価で、才覚が群を抜いていたのは渡辺の方であった。中上川社長とは、ほぼすれ違いで入社した山名次郎は、水戸からやってきた4人の記者のうち「渡辺治氏は才気煥発、最も優れた人物で、遠大な志と抱負を持っていた」(『偉人秘話』)と記している。

 

渡辺の方が上であると、高橋自身も認識していた。「渡辺はそういう男〔茨城中学時代からのライバル〕で、私とはその後慶応義塾でも時事新報でも始終一緒になって競争していましたが、これで私のような鈍物も少なからずおかげをこうむったように思われます」(「福沢先生について」)と語っている。

 

だからこそ、高橋は『時事』入社後、自分が渡辺より高く福沢に評価されたときのことを、誇らしげに書き残している。長くなるが、また回想を引こう。

 

私ら〔高橋と渡辺〕は結局論説記者となるべきはずであるが、当分は見習い格で何か好問題をとらえて執筆し、福沢先生の閲覧を経て時事新報に掲載の光栄を担うべく、例によって渡辺と競争の位置に立った。ところがその頃は新聞が論説のみをもって売れる時代であり、ことに時事新報は福沢先生の論説で名高いのだから、学校駆け出しの書生の論説が堂々とその紙面に掲げらるることは容易でなかった。しかるにその〔明治15年:註1〕十月、私の執筆した『米国の義声天下に振う』という一文は、福沢先生より非常なる賞讃を得て、渡辺より一足先に時事の社説欄に我が文旗を翻すことを得たので、鬼の首でも取ったようにうれしかった。この論説は当時シナが朝鮮を付属国のごとく取り扱っているのを、日本を始め諸外国が指をくわえてみているその面前に、米国のフード将軍を駐剳(ちゅうさつ)使節として朝鮮に送ってその独立を認めたという痛快なる処置を讃嘆したもので、先生はこの文を見るや非常に賞讃してその夜晩餐を賜り、日本膳の上に西洋料理を並べ、かたわらに侍座してお酌をしておられた奥さんに『今日は高橋さんが名文を書いたので、明日は新聞の社説に載るのだが、実によくできたよ』といかにもうれしそうに語られたので、私は大いに面目を施し、生涯にこれほどうれしく感じたことはなかった。(『箒のあと』)

 

高橋はこれ以降、ようやく一人前の社説記者として福沢の代筆を頼まれるようになったと書いている。このエピソードからは、血気盛んな若者にありがちの狭量な書生論とは少し毛色の異なる、広い視野に立ったバランス感覚が垣間見える。高橋には、福沢流のそういった思考に対する嗅覚が備わりつつあったのであろう。そして、野心家で切れ者、政治にも関心を深め、門下生間では評価の高い渡辺より、飄々(ひょうひょう)としつつ落ち着いた見識を有する高橋の方を福沢は、より好んだようである。その後もしばしば福沢の晩餐のご褒美に預かったという。

 

ところがその高橋が、中上川退社のわずか3ヶ月後の20年7月に、退社してしまったのである。高橋は、すでに見たように中上川退任とは無関係に、実業界進出を模索していたらしく、その準備として洋行したいと思っていたようだ。そこへちょうど親友の父で生糸商の下村善右衛門が、米国へ生糸輸出の研究に出かけてくれる人を探しているとの話が聞こえてきた。高橋は即時に自ら引き受けることを申し出、福沢に了解を得ようとする。

 

もちろん福沢は慰留し、下村の資力が信用できるものなのかなどの懸念を指摘したが、高橋が留まるはずもない。こうして高橋は『時事』を去り、まず渡米準備として国内の生糸生産の視察に旅立ち、次いで9月末には渡米の途に就いた。

 

しかし、福沢はまだあきらめなかった。心配したとおり、下村は生糸相場に失敗し、翌21年2月には不如意となって、7月を期限とした援助打ち切りと帰国要請を高橋に通知、そのことを福沢にも報告した。すると福沢は、21年7月から22年6月まで1年間1000円の援助をすること、その代わり時々社説をしたためて『時事』に送り、帰国後は復社するよう高橋に書き送った。未練たらたらとはこういうことをいうのであろう。

 

しかし「再び売文生活に還るのが、何よりも苦痛」(『箒のあと』)であった高橋は、これを泣く泣く断り、水戸徳川家に援助を依頼して承諾を得、さらに欧州視察に転じた。

 

福沢との関係はなお続く。高橋がロンドンの様子を福沢に書き送ると『時事』に掲載され、福沢は通信料を送り、通信員という資格を与えたのである。『時事』には、このような立場で時々日本各地、世界各国の様子を知らせる福沢門下生が多数いた。しかし高橋については、復社への淡い期待がまだ残っていたのであろう。高橋はしばしば原稿を寄せたようで、署名入りの社説が散見される。

 

明治22年8月に帰国した高橋は、しばらく日原同様の客員の形で『時事』の社説なども書いたが、やはり戻っては来なかった。23年に入って「腰掛け仕事」(『箒のあと』)で『横浜貿易新聞』に転じ、さらに24年1月より三井に入社して実業家の道を歩み始めるのである。

 

このように、結局去っていった高橋の退社と入れ替わりで、明治20年7月より『時事』の社説執筆に加わるのが、高橋と同じく水戸出身で、福沢没後の主筆となる石河幹明である。第9、10回で紹介した執筆者認定論の渦中の人物である(註2)。

 

さて、日本は国会開設を目前に控え、政治の季節を迎えていた。中上川、ついで高橋が去った『時事』にも、この政界の波頭が押し寄せる。それとともに社員間の不協和音も噴出、渡辺までもが、福沢の元を去っていく、さらなる試練が待ち受けていた。

 


 

資料

・明治20年2月13日付本山彦一宛福沢諭吉書簡、『書簡集』5巻。
・山名次郎『偉人秘話』(実業之日本社、昭和12年)
・高橋義雄「福沢先生について」『三田評論』(昭和6年4月号)
・高橋義雄「福沢諭吉伝第一巻を読む」『三田評論』(昭和7年5月号)

 

資料解釈上の些末なことで、気付いたことを参考までにメモしておきたい。

註1

『箒のあと』では、引用の通り明治15年10月の社説「米国の義声天下に振う」で、初めて福沢に原稿を採用してもらったとし、この記述に続けて、翌年には自分が執筆した社説によって『時事』が発行停止になってしまったと書いている。しかし「米国の義声天下に振う」は実際には16年9月12日に掲載され、高橋のいう発行停止は同年10月31日のことである。翌月の出来事を翌年と間違えるのは少々不自然である。その一方、高橋の最初の署名論説と思われるものは15年9月16日の「論説」欄掲載の「漢城屯駐兵」である。とすると、高橋執筆原稿で初めて福沢が採用したというのは「米国の…」ではなく、「漢城屯駐兵」の記憶違いではなかろうか。こちらも朝鮮問題に関する論説で、壬午事変に伴う軍隊の駐留について、朝鮮国を独立国として尊重することに注意を求め、軍人が粗暴に流れることを強く戒める内容である。もし「米国…」が最初であったなら、高橋・渡辺の二人は、入社後1年以上も全く社説に関与していなかったことになってしまう。

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註2

高橋と石河の間に角逐があったという説が、執筆者認定論の立場から主張されている。石河が福沢の全集を編んだり、伝記を執筆する際、両者が没交渉で、両者の回想が互いについてほとんど触れていないのもそのためであるという指摘であり、それは石河の高橋に対するある種の嫉妬が原因で、高橋の存在が全集や伝記で意図的に排除されていることが、石河の描く福沢像のゆがんだ一因だというのである。

しかし筆者は両者に対立関係はなかったと考える。水戸出身の4人の記者(第12回参照)は、同郷としてひとくくりにされ、茨城中学の同窓生であったとする文献もあるが、これがそもそもの誤りではなかろうか。4人は水戸の漢学塾・自彊舎(じきょうしゃ)で共に学んだ時期があるようだが、茨城中学では同窓ではなかったと思われ、元々あまり交友が深くなかったと思われるのである。

高橋は石河との関係について自彊舎の先輩という書き方をしている(高橋義雄『我楽多籠』)。これはその後も中学で一緒であればいかにも不自然だ。高橋・渡辺が明治11年に入学した茨城中学(当初の名称は茨城師範学校予備学科。のちの水戸中学)は新設校で、彼らは1期生であった。

親友同士の高橋・渡辺と、石河・井坂は、2人ずつ別々に慶応義塾に入学しており、高橋と渡辺は、義塾の本科2等(上から2つ目のクラス)に入学、翌年には卒業するが、石河と井坂は洋学の基礎を学んでいない者が入る予備科(本科に入る前のコース)からスタートし、卒業も遅い。また前述の通り、同時期に『時事』に在籍しているといっても、高橋が社説を書いていた時代、石河は社説担当ではなかった。確かに高橋は、『時事』記者としての石河のことを書いていないが、大実業家となる井坂のことも書いていないし、渡辺以外の他の記者のこともほとんど書いていないのである。

したがって、両者はもともと多少距離のある関係であり、回想で互いのことを記していないのは、不自然ではないのである。

逆に、両者の交友を示す事実がある。石河が大正12年に『福沢諭吉伝』を執筆することになると、高橋は自らが将来福沢の伝記を書こうと、明治末年に集めてあった諸名士の福沢に関する懐旧談を、惜しげもなく石河に提供した。この懐旧談は伝記完成後、別に一冊の本として刊行され(『諸名士の直話 福沢先生を語る』)、石河はそれに序文を寄せている。また、石河が福沢伝を完成させると、慶応義塾の機関誌である『三田評論』において、最初に高橋が書評を書いている。その一節には以下のように記されている。

私は石河君と同事情の下に福沢先生の庇護を受け、まず慶応義塾に入り、次いで時事新報記者となり、日夕〔福沢〕先生に親炙(しんしゃ)してその教示を辱(かたじけの)うした者で、先生は実に私らの大恩師である。この大恩師の伝記を〔福沢と〕同心一体たる石河君が編著せられたことは、私に取りて無限の快心事たるのみならず、著者があくまで先師の筆法に慣熟しているがため、全巻の行文がほとんど同一手にいずるがごとく、かかる伝記にて往々逢着する、かの竹に木を接ぎたるがごとき不調和不自然の痕跡なく、あるいは自伝の延長かとみらるる趣あるは、石河君が本伝の著者として無類の適任者たるゆえんであろう。(「福沢諭吉伝第一巻を読む」)

高橋はこれとは別に『国民新聞』にも書評を寄せている。これらを勘案すると、高橋と石河は、むしろ元々それほど交友がなかったものの、同郷者として尊重しあっていたといえるのではなかろうか。従来の誤解はひとえに、水戸出身者が同じ経歴を経て慶応義塾に入学したという誤伝に由来すると推測する。

 

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著者プロフィール:都倉武之(とくら・たけゆき)
1979年生まれ。2007年慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。 現在、慶應義塾福沢研究センター専任講師。
専攻は近代日本政治史。 主要業績に、「明治十三年・愛知県明大寺村天主教徒自葬事件」『近代日本研究』18号(2002年3月)、『福沢手帖』115号(2002年12月)、「資料 機密探偵報告書」『福沢諭吉年鑑』31巻(2004年12月)、「愛知県におけるキリスト教排撃運動と福沢諭吉」(一)・(二)『東海近代史研究』25・26巻(2004年3月・2005年3月)、「日清戦争軍資醵集運動と福沢諭吉」『戦前日本の政治と市民意識』(慶應義塾大学出版会、2005年)、「福沢諭吉の朝鮮問題」(『福沢諭吉の思想と近代化構想』、慶應義塾大学出版会、2008年)など。
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