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この頃の『時事』社説で、特徴ある主張をしばらく取り上げてみたい。まずは、朝鮮問題である。福沢は明治13年頃から朝鮮の近代化に強い関心を寄せはじめ、『時事』においても盛んに論じている。その基本的な問題意識は、創刊直後の社説「朝鮮の交際を論ず」(明治15年3月11日)に次のように集約されている。
今のシナ国をシナ人が支配し、朝鮮国を朝鮮人が支配すればこそ、我輩も深くこれを憂いとせざれども、万に一つもこの国土を挙げてこれを西洋人の手に授くるがごとき大変に際したらば如何。あたかも隣家を焼きて自家の類焼を招くに異ならず。西人東に迫るの勢いは火の蔓延するがごとし。隣家の焼亡あに恐れざるべけんや。ゆえに我が日本国がシナの形勢を憂い、また朝鮮の国事に干渉するは、あえてことを好むにあらず、日本自国の類焼を予防するものと知るべし。
清国・朝鮮に続いて日本も独立を失うという「類焼」を防ぐために、あえて朝鮮の内政に干渉してでも近代化を促すべきだという強硬な主張であった。福沢の朝鮮に関する議論で常に意識されたのは20年前の幕末日本である。西洋に対する危機意識が開国・近代化へと日本を突き動かしたことを参考に、いうなれば幕末日本にとっての米国同様の役割を、いま朝鮮に対して日本が担えれば、「類焼」も防げるのではないかとの考えがあった。
創刊からおよそ5か月の同年7月23日、朝鮮で壬午事変(じんごじへん)が発生する。従来ストイックな儒教主義により鎖国政策をとり、清国の属邦であることを是認していた朝鮮は、日本による開国要求を受け入れた明治9年の江華島条約(こうかとうじょうやく)以後、国王親政の下、自立した近代国家となるべく歩み始めていた。その方針に対して守旧勢力を背景とした国王の父・大院君(たいいんくん)の起こした反乱がこの事件であった。開明政策を支援していた日本公使館にも矛先が向けられ、多数の日本人が死傷、花房義質(はなぶさ・よしもと)公使らは危ういところを海上に逃亡し、小舟で漂流しているところを英国船に救助されるという緊迫振りであった。
第一報が日本で報じられたのは7月31日、以後新たな情報は伝わってこず、国王の行方や朝鮮政府の情勢、朝鮮に取り残された在留邦人の安否などは一切不明であった。新聞各紙は事件の原因や現状を推測して対応策を論ずるほか無かったが、事変に憤慨する感情とともに、「文明国らしい」対応を模索する義務感の入り交じった論戦が展開される。
この時、『時事』が最初に主張したのは即時出兵論であった。
我が政府は令を海陸軍に伝え、軍艦陸兵外征出陣の準備をなさしむべし。同時に遣韓特派全権弁理大臣を命じ、和戦文武の全権を委任し、花房公使の着京を待ちて共に軍艦陸兵を率い速やかに京城〔ソウル〕に進行せしむべし。(「朝鮮の変事」、7月31日)
『時事』の議論は、しかるべき外交交渉が行われるために武力を背景とする必要性を強調することに主眼があるが、反乱民を日本軍が鎮圧する可能性へも言及している。その背景には、朝鮮にせっかく醸成された近代化気運が無に帰し、清国の属邦へと逆戻りすることへの切迫した危機感があった。朝鮮を「独立国」として唯一の交渉相手としたい日本政府は、朝鮮をなお「属邦」と主張する清国が介入することを最も恐れていた。『時事』は、状況によっては日清の開戦もやむを得ないとして、「理非曲直は北京城下の盟に決すべしと覚悟すべき」とさえ極言している(「朝鮮の変事」、8月1日)。この一連の主張は福沢特有のレトリックを含み、武力行使の可能性をことさら強調した出兵論であったといえるだろう(第10回参照)。
新聞の中には朝鮮との即時開戦を主張するものもあり、『時事』の主張が最も強硬な議論だったわけではないが、『東日』や『東京横浜毎日新聞』(以後『京浜毎日』)などは、『時事』を標的に激しい批判を展開する。それらは、主に朝鮮内政への干渉不可を説くもので、即時開戦論と同視するような批判も向けられた。それらは「文明国たる日本」を実直に意識するという意味では『時事』よりはるかに純粋であったといえるが、平和的解決や一層の情報収集を主張するばかりで、政策論として具体性に乏しく、乱民の中に丸腰の公使を送り返すような議論ともいえるものであった。『時事』の強硬論もどこかぎこちないものであったが、反論も概して青臭いものだったように見受けられる。
当時福沢は慶応義塾に朝鮮留学生を受け入れ、金玉均(キム・オクキュン)をはじめとする朝鮮政客たち(開化派)との交流も深めている時期であり、朝鮮政府の内情について精通していた。事実、事件の第一報以後、全く情報がもれてこないため他紙が沈黙しても、『時事』は連日朝鮮政局の内情を詳細に解説し続けることが出来た。福沢の収集していた情報量は、他紙のそれとは格段に異なっていたことは、見逃すことが出来ない。
その後、開明主義の政府要人や王妃の殺害、大院君による政権掌握が確かな情報として国内に伝わると(のちに王妃は無事と判明)、『時事』は依然動向不明の国王の下に開明主義的政府が維持される可能性を諦めて内政不干渉を強調し始め、一方で外交交渉のための出兵を重ねて強調した。迫り来る「類焼」の危機感と、文明国としての日本の振る舞いとの間で揺れ動く、福沢のジレンマを伝えるものであろう。
結局花房公使は、8月下旬に兵を率いて朝鮮での談判に臨み、首尾良く済物浦条約(さいもっぽじょうやく)によって事態を平和的に解決した。『時事』は、このような事態収拾は自らの主張していたところとほぼ同意見であり、満足すべきものであるとして歓迎した。
我輩この報を得て、まず日韓両国の間に横たわりたる殺気妖氛(ようふん)をかかる平穏の手段をもって速やかに一掃し、交情旧に倍して親密ならしめたるを喜び、またこの条約の我が日本国民の希望を満足せしむるに足るべきを喜び、また我が外交官の敏達は世界文明国の外交官に劣るところなきを喜び、最後にまた今回の処分はかねて我輩の持張したる意見と大なる逕庭(けいてい)なかりしを見て、私心ひそかに喜悦にたえず、一身の内外この処分を聞きてまず讃賞するのほかなきなり。(「朝鮮事件談判の結果」、9月4日)
そして、これまで出兵を盛んに強調した理由として、「そもそも兵の用はただ戦うのみにあらず、よく兵を用いてよく戦わず、これを不戦の範囲内に置くの緊要なるは、斬人の刀を帯びて人を斬らざるものの如し」(「朝鮮新約の実行」、9月6日)と、武力を行使しないための武力保持が重要であることを説いている。こののち、「兵論」と題する社説連載を開始して、租税増徴、官民調和を基盤とした軍備増強を主張、以後海軍力を中心とした軍備拡張論は明治期『時事』の重要な主張の一つとなっていく。 |
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ところで、事変解決の際、実際は清国が反乱民を鎮圧、さらに事件の首謀者・大院君を天津に拉致幽閉するという荒技をやってのけ、朝鮮は清国へ急接近する。国王の復権した朝鮮政府は清国一辺倒に転じて開明政策に消極的となり、福沢の元に
出入りする開化派の政客たちは孤立を深めていくこととなる。いわば自ら油をまき始めたような朝鮮の政情に、日本の「類焼」に対する福沢の危機感はいよいよ増していき、『時事』における朝鮮論は、先述のジレンマを抱えつつ熱を帯びていくのである。
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・『兵論』表紙。9月9日〜10月19日まで18回連載され、11月に単行本化された。『全集』5巻収録。
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