濃尾地震は明治24年10月28日午前6時半過ぎ、岐阜・愛知を中心に発生した大地震である。マグニチュード8.4、死者不明者7200名以上、家屋全壊14万戸以上という明治年間では当時最大規模の災害であった。
東京の新聞は翌29日付紙面に地震の第一報を掲載しているが、情報網が十分発達していない当時にあって、これが未曾有の大災害であることはまだ認知されていない。30日付紙面には、これがいよいよ大変な事態であると伝わり始め、普段広告欄でしか見かけない大活字で「大地震」と各紙が見出しを打って、詳報を競い始めた。
その中で目を引くのが『時事』である。同紙はこの日、さっそく「大地震に付き義捐金募集広告」と大見出しを掲げて義援金の募集を始めたのである。すでにノルマントン号事件、磐梯山噴火、そして明治23年にはいわゆる「エルトゥールル号事件」(註1)の救援のための義援金募集と経験を重ねてノウハウを確立した『時事』は、他社と調整の上で連名の広告を掲げるのではなく、いちはやく独自に募集を開始したわけである。この対応はいかにも素早かった。そのいきさつを『時事』自身は次のように説明している。
○義捐金の第一着 昨日〔29日―都倉 註〕午前十一時過ぎより、陸奥農商務大臣の招きに応じ、三府商業会議所正副会頭及び米国コロンブス世界大博覧会評議員等が新築の特許局を縦覧せし際、同行の西村農商務次官、今回地震の激烈なりし模様を説き、兼ねてその惨状を話せしかば、いずれも同感の情に堪えず、座中の一人より幸い時事新報社にて義捐金募集の計画あるよしに聞けば、奮って義挙を賛成せんとの建議に、居合わせたる人々、いずれもこれに同意し、早速金円をまとめて本社に寄贈することに決したり。(明治24年10月30日付紙面)
『時事』が義援金を募集するらしい、と農商務大臣陸奥宗光主催の会議で話題となり、その場に居合わせた人たちがポケットマネーを続々と出し合ったという。その顔ぶれは陸奥を筆頭に、当時官吏だった原敬、実業界の重鎮大倉喜八郎、渋沢栄一、益田孝、森村市太郎ら、31名が並んでいる。「災害といえば、『時事』の義援金募集」と人々が想起し、素直にお金を出そうと思う信用を、『時事』が築くことに成功していたことを示しているだろう。これにさっそく続く新聞もあったが、連名の時は参加していたにもかかわらず、今回は全く募集しない新聞も少なくなかった。
福沢諭吉自筆の濃尾地震義援金募集広告原稿
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結果を先に言ってしまえば、『時事』の募集は11月末に締め切られ、1か月で総額2万6719円58銭7厘となった。集計額を報じた新聞記事によれば全国の集計額は11万5500円ほどで、『時事』は群を抜いた一位、その次は『大阪朝日新聞』の1万9000円弱、『朝野新聞』が1万2000円あまりであった。磐梯山の時に比較すると格段の盛り上がりを見せた金額といえるだろう。災害が起これば、まずメディアを通じて義援金を寄せる、これが日本人の常識として定着しつつあったことがよくわかる。
義援金応募者のリストで埋まったページ
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全国的にこれほどの義援金が集まり、そしてその中でも『時事』が牽引役を果たしたことの背景として、同紙が紙面を挙げて被災地救援キャンペーンを張ったことが大きく関係している。『時事』社説は、徹底して被災者救援の論陣を張り、息長くそれを主張し続けた。他紙には全く地震の記事が見られなくなる1か月後、2か月後にもしばしば被災地の問題を取り上げて救援の輪を拡げる努力を惜しまなかった。
当初の『時事』の社説は、政府の初動が重要であることを強調し、またそのことによって国というものが何のために存在しているかを日本人が理解し、今後広く社会の問題に関心を持つ端緒となることを期待する内容となっている。
そもそも人の集まりて社会を組織するその目的を尋ぬれば、自他相結び相助けて生を営み、協同の力を用いてもって営生の行路に横たわる百般の困難に打ち勝たんとするにあり。而して政府はその協同を堅固にしてもって助成の組織を維持せんがために設けたるものなれば、常に社会の害毒を除きてその秩序を保ち、人民よりは報酬としてこれに租税を納むることにして、その趣はあたかも政府が人民より租税と名付くる保険料を取り立てて、その生命財産を保険するものに異ならず。ゆえに人民にしてもしもその罪にあらずして禍災に遭う者あるときは、政府は出来るだけの力を尽くしてこれを保護するの義務あるものと知るべし。(社説「震災の救助は政府の義務にして、これを受くるは罹災者の権利なり」)
つまり、同じ国に住む人々がお金を出し合って必要なところに分配することで、一人では出来なかったことが助け合うことで実現するということ、つまり実際生活をより良くするために国が機能することを人々が実感し、「国」なるもののあり方を他人事にせず、主体的に理解して我がこととすることを期待した、ということが出来るだろう。
この時『時事』は、1年前に開設されたばかりの国会が機能不全に陥っていることに強い危機感を持っていた。かつての自由民権運動家たちを中心に、政府に批判的な政治家たちが多数を占める衆議院と、議会を軽視して積極的に耳を貸そうとしない内閣が対峙し、建設的な議論が行えない状況にあった。被災地の救援には莫大な予算の必要が予想されたが、明治憲法の規程に従えば、臨時予算を計上するためにも議会の承認が必要であった。しかし当時は緊急事態に対応するため緊急勅令により法律を施行することが可能で、その場合も必ず議会の事後承認を得る必要があった。そこで『時事』は、政府に思い切った決断で緊急事態として予算を手当てするように説く。国会も政府のすることには何でも反対の従来の姿勢を改めるべきで、議員に見識があれば当然そうするであろうという口ぶりで皮肉っぽく書き、『時事』は震災対応については、どこまでも政府を助っ人いたすと力強く主張した。例えば次のような調子である。
〔今回の震災対応は〕限りある人々個々の働きにてとても及ぶべきにもあらざれば、中央政府は特に救助法を断行して若干の国庫金を臨時に支出したりといえば、日本国中広しといえども誰一人としてこれを無用なりという者はあるべからず。すなわち政府は民心の真面目を代表して事を処したるものなれば、議会において反対を見ざるは、我輩のかたく保証するところなり。然るに、なおもその辺に懸念するは国会議員に対して猜疑(さいぎ)の甚だしきものにしてかえって無礼なりといわざるを得ず。もしあるいは人心不測にして議員らが政熱に熱し、自家の利害のために人情徳心を破り、無理に説を作りて政府の専断を責むるがごときあらんには、我輩は筆力のあらん限りを尽くしてこれを反撃し、人情厚き我が国民とともに帝国議会に向かいて成敗(せいばい)を試みんとするものなれども、議会決して薄徳にあらず、必ず我輩と同情同感なるべければ、当局者においても万々安心して事に着手し、要はただその実施の方法に宜しきを得るの一事のみ。(社説「震災の救助法」)
『時事』はこういう場合にも、別に政府べったりではない。政府が注意すべきことをずばずばと書き重ねる。例えば、こういう緊急時にも頭の固い役人がみすみす助かる命を見殺しにするような事態を生むことがあると注意を促している。
負傷者の半死半生なる者を見ながら、主務者の小印なければ医薬を施すべからずとて、遠路往復の間にすでに斃(たお)るるがごとき、一枚の切手に二人前の食物は与うべからずとて餓死せしむるがごとき、およそ類似の珍事は随分官辺にありがちのことなれば、くれぐれも注意して多少疎漏(そろう)のそしりは免れざるも、ただ急要に応ずるの心得、専一なるべし。(社説「震災の救助法」)
政府は11月中旬に緊急勅令によって予算外支出を決定する。ところが開会した定例議会では、『時事』が恐れたとおりに、憲法違反だ、議会審議を経るべきであったなどと政府の支出に反対の声が挙がる。『時事』はその態度に同意できないことを繰り返し主張する。
もしも異論者の言のごとくこの際安閑として国会の開くを待ち、その上にて支出を議するなど無用の手間を費やすときは、たといその手続きは立派にてもこれがために、幾千百人の罹災者を見殺しにせざるを得ず。人民は見殺しにしても法文の手続きは曲ぐべからずとならば、国会は無情残酷の極道にして、我輩は断然その廃止を主張せざるを得ず。…何事についても政府の処置に反対するは、今の議員の流儀にして、本案についての異論もこれにほかならずという者あれども、反対も事にこそよれ…議会の全体は決して無情残酷のものにあらず、前説のごときは畢竟(ひっきょう)一部分の内議に過ぎざることならんなれば、我輩はこの問題のめでたく議場を通過することを疑わざるものなり。(社説「緊急命令及び予算外支出問題」)
しかし政府はこれ以外の案件も含めて、衆議院との協調の方向性が全く見出せないことに業を煮やし、ついに衆議院の解散に踏み切る。日本の憲政史上初の衆議院解散であった。『時事』はこの事態を次のように論じる。まず解散という政府の処置は妥当というほかない。国会は政府に何でも反対で、中でも震災関連予算は議論の先延ばし、理由のない削減要求など、到底理解できない状態となっている。この予算には、海抜が低い被災地域の堤防修復工事費も含まれ、多くの人が「わだちのフナ」のような状態で過ごしていることを、議員は理解しているのだろうか。一方政府も、国会のあり方がおかしいと思うならば、「超然主義」などというものはやめて、堂々と選挙で衆議院の過半数を占めるよう努力すべきである。
このように論じて『時事』が持ち出すのは、そもそも国会のこのような膠着状態が生み出された根源は何かということである。それはずばり政府の人権軽視、これであると『時事』は断言する。明治維新以降、政府は四民平等、苗字帯刀など、人間一人一人の栄誉、生命、財産といった人権を重んじる精神を政策に及ぼし、明治14年には国会開設を約束するまでに至った。ところが、その後国会開設に至るまでの9年間はどうであろうかと、政府の近況を振り返り、酷評する。この一節は、なかなか痛快である。
〔この9年間の政府は〕人権を貴重するの念とては寸分もなく、むしろこれを軽蔑したるの事実あるがごとし。官民の区別を厳にし、次第に官尊民卑の風を養成してすでに社会の気を損したるそこに必要もなき爵位を新設して、強いて人間の階級を造りたるがごとき、畢竟はその地位権勢の高大なるに飽き足らずしてさらに社会の虚勢をむさぼり、もって自ら喜ぶの痴情に出でたるものと断定せざるを得ず。如何となれば、かの官尊民卑の旧風を温め、人為の族爵階級を新設したればとて、毫も日本国を軽重するに足らず、毫も国家の経綸に益するに足らざればなり。然りしこうして、これがために官民相対するの情感如何を問えば、在政府の人々が自ら高くするは、すなわち他を低くするものにして、人民より見れば自家の栄誉を傷つけられたるものといわざるを得ず。いわんや、地方その他の小官吏などが大政府の繁文細法〔むやみに煩雑な役所書類や細かい規則のこと〕を笠に着て人民を叱咤(しった)するがごときは、そのこと小なるがごとしといえども、人を辱(はずかし)むるの最も大なるものにして、…感情において堪えがたきところなり。民間の感情はすでにかくのごとし。しかして政府は毫もこれを和らぐるの術を講ぜずして突然国会の議場に相対したることなれば、その間に撞突(どうとつ)を見るはもとより当然のことにして今日の成り行きあるは決して怪しむに足るべからず。(社説「国会解散して政府の方向は如何」)
『時事』は、この根本問題を政府が直視しない限り、何度衆議院を解散しても国会の空転は解決されないと政府に警告し、『時事』の年来の主張である「官民調和」の重要性を主張するのである。『時事』のいう「官民調和」は、民を官に妥協させようとしたもののように誤解され、当時も現在もしばしば批判されるが、変化を求めるターゲットは紛れもなく官にも向いているのである。
福沢率いる『時事』は、このように被災地の復旧支援を第一に、粘り強く現状と向き合い続ける姿勢を貫き、息長く報道を続け、社説で被災地支援を主張し続けた。その取り組みと相まって、上記の通り、募金額が伸びたのである。
これ以外にも『時事』は地震に関連してユニークな主張をいくつか残している。地震から数日後の社説では、今日でいう耐震建築の研究を主張している。当時は煉瓦建築の大流行の時代であったが、煉瓦建築の方が木造家屋よりも被害が大きかったことを見て取り、日本の地質気候に、果たして煉瓦建築が適しているか見極めていくことが重要であり、煉瓦建築は人の起居する建物には用いずに、しばらくは試験期間と心得て使用する必要があるというものである(社説「地震は建築法の大試験」 註2)。
ほかにも、金銭の義援のみならず、古着古道具の救援品を送ることもできるといった具体的な支援策の提案(社説「古着古道具の義捐」)、被災者が心の平穏を取り戻すために、僧侶が早く現地に入るべきで、寺院は救援活動の拠点になるべきという主張(社説「震災善後の法」)、義援金は実用よりも日本人同士が心を寄せ合って感情を慰めるという情の面に大きな意味があるから、公平性に固執していたずらに遅延しては意味がないとして、迅速な分配を求める主張(社説「義捐金及び物品の分配」)など、当時の他紙に比すれば極めて具体的、建設的である点が注目される。
このように『時事』が被災地救援に心を砕いた理由には、福沢諭吉の感性という源があるようである。被災地の惨状を訴えるために上京して福沢を訪ねた大垣出身の治水事業家金森吉次郎は次のような回想を残している。
三田のお宅へ始めて参りまして震災の話をしている中に、驚いたことには〔福沢〕先生が泣いていられる。私の話を聞きながら両眼にいっぱい涙を浮かべ、それがあふれてポロポロと頬を伝い落ちるのをこぶしで横なでにぬぐいながら、熱心に耳を傾けていられました。そして「今度のような震災は千古未曾有の出来事であるから、政府も全力を挙げてこれが救済のことを計らねばならない」といわれ、種々のお話があり、「時事新報のごときは紙面をことごとく解放して十分に罹災者のために力を添えよう」という…。(『福沢諭吉伝』4巻)
幼少期に下級武士としての屈辱を味わい、また貧民などに施しを怠らない両親の影響を受け、恵まれない境遇に置かれる人々に、ことのほか敏感であったらしい福沢の感性は、メディアによる募金活動の発展に多少なりとも影響を与えたといって、過言ではないと思うのである。
『時事』と義援金の因縁は、日清戦争、さらに三陸大津波へと繋がっていくが、番外編としてはここで一区切りにし、次回からは再び本編に復帰することとしよう。
資料
・「震災の救助は政府の義務にして、これを受くるは罹災者の権利なり」『時事』
(明治24年11月8日付)。
・「震災の救助法」『時事』(同年10月31日付)
・「緊急命令及び予算外支出問題」『時事』(同年11月29日付)
・「国会解散して政府の方向は如何」『時事』(同年12月29日付)
・「地震は建築法の大試験」『時事』(同年11月1日付)
・「古着古道具の義捐」『時事』(同年11月4日付)
・「震災善後の法」『時事』(同年11月7日付)
・「義捐金及び物品の分配」『時事』(同年11月18日付)
註1
明治23年9月16日、トルコ(正確にはオスマン帝国)の軍艦エルトゥールル号が紀伊半島沖で座礁し、600名近くが死亡した事故。地元の住民が献身的に救援活動を行ったことがよく知られるが、この時も新聞による義援金活動が行われ、『時事』には4000円以上が集まった。
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註2
ここで筆者は、慶応義塾の歴代校舎を思い返す。慶応義塾には明治20年に完成した煉瓦建築が一つあったが、その後本格的な煉瓦建築は明治45年まで作られなかった。これは建築費の問題が大きいとは思うが、福沢のこの主張も影響しているかもしれない。福沢は自宅にあった煉瓦建築を地震後1週間も経たないうちに出入りの大工に補強してもらったときの手紙が残っている。
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