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オリジナル連載 (2007年4月3日掲載)

時事新報史

第14回:中上川時代の論説  
 

























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 中上川社長時代の『時事』論説(社説・漫言)は、3つに分類することが出来る。

1.福沢が全文を執筆したもの
2.記者が自主的に書いた論文を福沢が校閲して掲載したもの
3.福沢の口授を記者が文章化し、福沢が校閲して掲載したもの

 この時代、会社経営や紙面作りへの福沢の関与は部分的であったが、論説だけは完全に福沢の管理下にあった。文章の校定や仮名振りは中上川が行い、福沢と中上川の二人の手を経て掲載に至るというのが、最も一般的な段取りであった。

 3つの執筆方法について、より詳しく見てみよう。最も多かったのは1(全文福沢)である。福沢にとって新聞論説は「著述と違い骨折りは誠に少なく」「頭を痛めるに足ら」ない(書簡639)ものであったから、連日の執筆はさして苦にならなかったようだ。それでも1本書くのに3時間ほどは、かけていたという。

 連日といっても、文字通り連日ではなく、創刊当初から2(持ち込み)も、少なくなかった。この方法で掲載された論説は、中上川の起筆が最も多く、矢田績も頻繁であった。途中入社の高橋義雄、渡辺治もこのスタイルでの執筆に加わり、波多野承五郎、本山彦一の原稿も時に採用された。文筆の経験豊富な森下岩楠、伊藤欽亮(いとう・きんすけ)、津田興二( つだ・こうじ)や、井坂直幹なども時に執筆することがあったものかと推測する。これらの執筆に加え、初期においては小幡篤次郎が、後半からは日原昌造(ひのはら・しょうぞう)が、客員のような形で書くことがあった。福沢の論説採用審査を「受験」した者は、かなり多かったと見られる。

 
筆跡
 

 中上川の筆であると確認されている論説はかなり少ないが、執筆数は相当な数に上った。高橋義雄は、福沢の甥である中上川の書いた論文ばかりが社説に採用されたことにすこぶる不満であったことを、後年次のように告白している。

 当時社説の執筆はほとんど福沢先生の一手に帰して、小生〔高橋〕等の論文は容易に社説として採用せられざる中に、〔中上川〕氏は一文成るごとに自ら「名文、名文」と披露して、しかも社説に採用せらるること多く候ゆえ、その都度小生等は不平にたえず、相変わらず甥の勢力ならんなど談じおり候ところ、一日朝鮮事変に関し「米国公使来たる」の論文を提出致し候に、今度は氏が見事に落選して小生の分が採用せられたるその時は、天狗の鼻柱を折りたる心地して窃かに積憤を散じ申し候。思えば小児の戯れに候(そうら)えども、当時氏は未だ世故(せこ)に慣れず、才峰鋭利自ら競進するに忙わしく、人上に立ちて才を憐れみ、己を抑えて他を揚ぐるの雅量に乏しかりし様見受けられ申し候。(「中上川彦次郎について」)

 さて3分類のうち、創刊後しばらくして登場するのが3(福沢口授)である。これは福沢の言葉を逐語的に書かせる、口述筆記ではない。福沢が社説の趣旨と大まかな流れを口頭で説明して記者が自分なりに文章化、それを福沢が修正するという方法である。福沢が記者に若干の裁量を与えて、どのように書いてくるかを楽しんでいたようなところがあり、記者としての文章力が大いに鍛錬されることとなった。余り我流で装飾すると福沢は嫌い、単に福沢が言ったままの言葉だけでは満足しなかった。

 中上川時代にこの特訓を受けたのは、高橋義雄、渡辺治である。すなわち、水戸より招いた人材のうち、先に義塾を卒業した2人である。当初福沢が文筆力向上に手をかけたのはこの2人だけといっても良く、継続的に『時事』の筆を担ってくれることへの期待があらわれているといえよう。高橋は次のように回想する。

 〔福沢〕先生は私を社説記者に見立て、しばしば呼びつけて論説の代筆を命ぜられたので、私は一心不乱に先生のいう所を聞き、これを筆記して差し出すと、ある時ははじめより墨黒々と訂正せられて、先生が自身で書かるるよりもよほど手間がかかってすこぶるお気の毒に感じたこともあり、またある時は僅かばかりの加筆で通過することもあった。その時先生の悦びは一方ならず、ことにその文中に何か面白い所があると、読み返してはこれを褒めらるるので、私らに取ってはこれが非常な奨励であった。(『箒のあと』)

 『時事』創刊以前から福沢は、門下の箕浦勝人、藤田茂吉、犬養毅などの記者に、口授して文章化させることがあり、『郵便報知新聞』や『家庭叢談』(明治9年頃慶応義塾が発行していた雑誌)に掲載させていたという。この頃は福沢の加筆修正はなかったようで、箕浦と犬養が対照的な回想を残している。

 その時分は常に〔福沢〕先生のところへ出掛けて、先生の説を聞きましたが、いつも新しい材料を話して下さるのみならず、そのまま書いても立派な文章になるように、話して下さいました。そして先生の文章は、よく人にわかりますから、私はどうか先生の文章に似るようにと思って、一字一句先生の言った通り、その意味を写すように、筆記することを勉めましたので、非常に先生の評判がよくありました。ところが藤田茂吉の方は、元々文章が上手で、自分で文章家をもって任じておりましたから、先生の話を聴いても、その通りに書かず、とかく自分の筆法で、これを書き立てるので、先生には始終気に入らず、小言を聞いておりました。(箕浦勝人直話『福沢先生を語る』)

 私は三田より発行した家庭叢談という雑誌に投書したことがありましたが、これらの投書は、たいてい〔福沢〕先生の説を聞いて書いたものだが、箕浦は先生の説をそのままに書くので、評判がよかったのに反し、私などは自分で文章をこしらえる方であったから甚だお気に入らなかった。そこである時先生の口調を、そのまま文章に写して持って行ったところが、こんなに人の真似をしてはいけないと、また叱られたことがありました。(犬養毅直話『福沢先生を語る』)

 箕浦の文章はよほど福沢好みであったとみえ、機会あるごとに『時事』入社を求めていたようだ。渡辺、高橋もその意味では、なかなか巧妙に文章を書き、福沢から「両人とも文筆達者なり」(書簡804)との評価を得ている。しかし、何ごとも日進月歩の明治中期。能力のある2人の若者が、福沢の下での記者生活に安住する時代ではなかった。種々の野心も沸き起こる中で、のちに2人とも『時事』を離れてしまうことは、当然でもあったのだが、福沢にとっては最初に後継者として手をかけて育てた、ただ2人の人材を失う痛恨事となるのである。

 さて、日々の紙面には、社説・漫言のほかに署名論文が載っていることがしばしばある。これは2(持ち込み)のうち、社説としては採用されなかったものかと思われる。時には社説欄に署名が入っていることもあり、社論と記者個人の意見とがある程度区別されていたようだが、必ずしも記者が書いたそのままではないようで、矢田績の回想では、福沢の添削を受けた文章に矢田の「袖浦外史」の別号を付したとあり、署名記事でも福沢の手が入ることがあったのだろう。

 3分類がどのような内訳であったかは、わからない。福沢全集に収録されている論説について議論が多いことはすでに詳しく述べたが(第9,10回参照)、全集は2(持ち込み)を排除する、という基本方針で選別作業が行われたものである。収録論説と、紙面を照らし合わせていくと、創刊数日目から未収録の社説があり、頻度としては週に2,3本くらい、漫言についても週1本程度は福沢の筆ではないとして全集に収録されていない。例えば、矢田績は中上川の社説執筆頻度を「一週間に二三度」(『明治財界の英傑中上川彦次郎氏を語る』)、自分の執筆を「一週一回位」(『懐旧慢話』)と述べている。高橋、渡辺への口授については、頻度を検討する材料が管見の限りでは見当たらない。どれが1で、どれが2で、という議論はともかく、1(全文福沢)と3(福沢口授)という、福沢の関与が極めて大きい論説掲載の頻度については、全集の伝えている雰囲気が、ほぼ正しいと思われる。しかし掲載の決定権は福沢にあり、1〜3いずれも福沢の手を経て掲載されたものであるので、内訳がどうあれ、福沢が中上川時代の『時事』論説を完全に管理し、言論に責任を持っていたことは間違いないのである。


資料
・書簡番号639、明治15年2月21日付本山彦一宛、『書簡集』3巻。
・高橋義雄「中上川彦次郎について」(菊池武徳『中上川彦次郎君』、人民新聞社、明治36年)。
・高橋義雄『箒のあと』上巻(秋豊園、昭和8年)。
・高橋義雄編『福沢先生を語る―諸名士の直話―』(岩波書店、昭和9年)。
・書簡番号804、明治16年11月24日付福沢一太郎・捨次郎宛、『書簡集』4巻。
・矢田績『明治財界の英傑中上川彦次郎氏を語る』(昭和9年)。
・矢田績『懐旧慢話』(大正11年)。
・佐瀬得三『続々当世活人画』(春陽堂、明治33年)。
・波多野承五郎『梟の目 第二古渓随筆』(実業之日本社、昭和2年)。

画像
中上川の雑報記事原稿〔部分〕(佐瀬得三『続々当世活人画』、口絵)。中上川の山陽流の筆跡について、波多野承五郎は「この人の書いた原稿は見事な字できれいに出来ていたから、活版職工の方でもばかに評判がよかったものであった」(『梟の目』)と述べている。

   
 
著者プロフィール:都倉武之(とくら・たけゆき)
1979年生まれ。2007年慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。 現在、慶應義塾福沢研究センター専任講師。
専攻は近代日本政治史。 主要業績に、「明治十三年・愛知県明大寺村天主教徒自葬事件」『近代日本研究』18号(2002年3月)、『福沢手帖』115号(2002年12月)、「資料 機密探偵報告書」『福沢諭吉年鑑』31巻(2004年12月)、「愛知県におけるキリスト教排撃運動と福沢諭吉」(一)・(二)『東海近代史研究』25・26巻(2004年3月・2005年3月)、「日清戦争軍資醵集運動と福沢諭吉」『戦前日本の政治と市民意識』(慶應義塾大学出版会、2005年)、「福沢諭吉の朝鮮問題」(『福沢諭吉の思想と近代化構想』、慶應義塾大学出版会、2008年)など。
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