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オリジナル連載 (2012年02月11日掲載)

時事新報史

<第26回>

伊藤欽亮の時代 〜明治29年12月

 
 

























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中上川彦次郎初代社長に続く、2代目社長として数えられているのは伊藤欽亮(きんすけ)という人物だ。この人の名は、今日ではほとんど知られていない。しかし、調べれば調べるほど、ユニークな人物であったことがわかる。

 

伊藤欽亮肖像写真

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伊藤欽亮肖像写真

 

安政4(1857)年長州、萩の出身。海軍士官になることを夢見て上京した彼は、近藤真琴が創立した攻玉社に学ぶが、海軍の夢をあきらめて明治10(1877)年6月慶応義塾に転じた。同級生にのちの政治家犬養毅や加藤政之助らがいる。在学時代は、数学の成績が飛び抜けて良く、稀に失敗するということもなく、毎度満点を取っていたという。また、犬養毅、大河内輝剛(旧高崎藩主の次男)、村井保固(のち森村組の幹部として、日米貿易の発展に寄与した実業家)らと「猶興社」(ゆうこうしゃ)と称する団体を結び、条約改正論などを盛んに議論したり演説会を催したりしていた。

 

在学中、彼は養子に入っていた「林」の姓を名乗っていた。このことについて面白い話がある。養父は林三介という警視庁出仕の官吏で、政治探偵(スパイ)を使って思想の取り締まりなどをしていたらしい。ある時猶興社の集まりに塾生ではないが参加したいという若者が一人現れた。相談の結果、彼を仲間に加えることにしたのだが、欽亮はどうもこの若者に見覚えがある。よく思い出すと、父のところに始終出入りしているヤツだと気がついた。つまり政府のスパイだったわけだ。

 

そこで塾生たちの取る行動は、なかなか気が利いている。それからというもの、彼が現れると、わざと過激な議論をおっぱじめる。「○○(政府高官の名前)は生かしては置けぬ」「××は殺してしまえ」というようなことをやると、その過激論をやった者が、例の男に「どこか飯を食いに行きましょう」と誘われる。酒を飲んで本心を聞き出し、それを報告して手柄にしようということだが、大いに飲み食いしても、決してボロは出さない。そうやって皆がよってたかって暗殺論をやっては、この男のおかげでただ酒を大いに飲んだ。欽亮も随分飲んだ。しかし、しまいには彼も気がついて来なくなったという。

 

当時の慶応義塾や福沢は、これほど警戒されていた。スパイが残した機密探偵報告書も警視総監や政府高官の資料の中にたくさん残っている。本連載でも第21回にスパイの報告書を引用した。このような父だから、明治14年の政変の際には「大隈重信の味方を一掃せよ」という趣旨の建白書を三条実美に呈したものが現存している。大隈の一味と誰もが見ていた福沢の下で学ぶ欽亮とうまく行くはずがない。時期は明らかでないが、遂には養子縁組を解消して伊藤家に戻ることとなった。

 

義塾卒業は明治12年4月。その後の経歴は諸書で混乱しているのだが、筆者なりに整理してみると、卒業後まず静岡の新聞に勤務、その後東京に戻って創刊当初の時事新報に少々在籍。明治15年9月創刊の長崎の『西海日報』の主筆となった時期もあるが、ほどなく時事新報に戻り、以後29年12月まで時事新報に在籍したと考えられる。

 

その性格について、知人たちが口をそろえるのは、真面目一徹、職務に熱心であったということ。自分の信念には潔癖で自信があり、逆にいえば頑固で他人に依頼しない人であった。癖のある人だったともいえるが、人柄は穏やかで親切、人情味があったという点でも共通している。

 

時事新報では、他の記者よりも幾分年上であり、血の気の多い若者をまとめていけると福沢に見込まれたらしく、中上川の去った明治20年春以降、「総編輯」(編集長)となる。しかし、若い記者たちがほどなく欽亮に反感を覚え、21年10月にはついに排斥騒動に発展したことは、以前記した(第24回参照)。その後も、欽亮は社内で不満の矛先を向けられていたようである。当時の社員の回想を2つ紹介しよう。

 

 伊藤君は物事に非常に緻密で、几帳面で、物を等閑にしなかった。一例を申すと、振り仮名のごときでさえ社説はもちろん、雑報に至るまで、間違って居ると必ず、仮名文字法に従ってキチンと直す、私共若い時分の事だから、伊藤君に直されるのがどうも癪(しゃく)にさわる。今度こそはと思って、伊藤君の虎の巻にして居る時事新報社備え付けの仮名遣い法によって相当に研究をしてみたが、仮名遣いなんかは急ごしらえの付け焼き刃であったから、なお粗漏なところがあったものと見えて、往々間違いをしでかして、やはり直される、こういう風でまことに一小瑣事ではあるけれどもこれを等閑にはされなかった。(柳荘太郎の回想、『伊藤欽亮論集』下巻所収)

 

 当時社内下級の方ではすべてのことに不平が多かった、なかんずく給与の少ないことが不平の最も甚だしい点であった。これはほとんど社の全権を握っていた伊藤君のやり方が悪い、伊藤君が福沢先生の聡明を蔽(おお)うているのだ、という噂が高く、私ども伊藤君は奸物(かんぶつ)のように同僚先輩から聞かされていた。(池田成彬の回想、同上)

こういった声に泰然としていられる人格も、福沢に買われていた由縁であろう。毎朝紙面の隅々まで目を通す福沢は、編集上の誤りや気にくわない記事を見つけると、欽亮に小言を言った。その記事を書いた者が誰かは無関係で、猛然と欽亮を叱る。これを口答えもせずに聞き、また連日三田に通って福沢の相談に与っていたのが欽亮であった。

 

 

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「伊藤」の印が捺された福沢自筆の時事新報社説(部分)

 

記者の一人山名次郎は、福沢が「伊藤は豪傑だ」としばしば口にしたことを記憶している。山名は欽亮に、いわゆる豪傑風の豪放磊落さをみじんも感じなかったので不思議に思っていたが、後に「志操堅実、その所信を断行し、毫も権貴をはばからずという意味だったろう」と合点がいったという。

 

編集長役の「総編輯」に加え、元来得意な会計の責任者も欽亮が兼務することになったのは明治26年6月のこと。前任の坂田実が退社して幼稚舎主任(舎長)になったことによる。しかしそれ以前、明治23、4年頃には福沢から全幅の信頼を受け、ほとんど伊藤内閣といってよい全盛時代になったといわれている。

 

不思議なのは、当時の社員は欽亮が「社長」になったとはいわず、あくまで実質的な社長であったとしかいわないことだ。どうも中上川が山陽鉄道社長就任によって時事新報社長を退任したとされている明治20年4月は、本当の退任ではなかったのではないか。現場からは離れるものの、社長であることは継続していたことを意味していると推測する。本連載第21回で、山陽鉄道社長就任後の中上川に新報社の利益の5分の1を与えるという内約が福沢との間で交わされていたことを記したが、それもこれを裏付けている。石河幹明も欽亮の追悼会の席で次のような発言をしている。

 

 

 (欽亮は)時事では編輯長のようなことをやって居ったが、その内に会計の人が変わったものだから、会計の事務も見ることになり、編集と会計とを兼ねていた。その頃の社長は中上川彦次郎氏であったが、氏は山陽鉄道の社長もやっていたので、伊藤君は社長とは言わなかったが、編輯会計を担任して社長同様の重要な地位にあったのである。(『伊藤欽亮論集』下巻)

 

さて、では欽亮は実質的社長として何をしていたのだろうか。社説を書いていたかといえば、どうもそうではなかったらしい。もっぱら記事を統轄して紙面の構成を決めており、社説への関与といえば、ルビを振るのが欽亮の仕事であった。時々短い記事や論説を書くことがあり、穏やかな筆ながら、時々「肺腑を突く」ような、あるいは「急所をえぐって殺す」ような鋭い指摘を加えるのを得意とした。海軍士官を目指して上京したこともあって、海軍に精通し、これが福沢の時事新報における海軍拡張論を助けた。

 

それに加えて取材力についての貢献が大である。彼は長州出身であることから、伊藤博文、山県有朋、桂太郎らと日頃からパイプを持っていて、取材についてもかなり無理が利いた。重要な取材は自ら出向いて、次官でも入れないような会議にもズカズカ入っていける関係だったという。日清戦争時に外務次官だった林董は、ある時重要会議に遅れて参加したら、その会議にすでに伊藤欽亮が列していたと語っている。しかし一方で藩閥反対の立場は揺るがなかった。この辺りが福沢のいう「豪傑」ということなのだろう。

 

何事も徹底的に調べて、幅広く色々なことを知っている人で、大変な議論屋でもあった。新聞の紙面が完成してからというから随分夜遅い時間になって、社員たちと新橋の「花月」という当時全盛の料亭に繰り出す。そうして、チビリチビリとやりながら、2時3時まで話し続けるので、女将や女中たちは逃げ出したという話もあり、伊藤コーシャク(公/侯爵=伊藤博文と「講釈」をかける)とあだ名されていた。家でも一合の酒で三時間話をしたと、奥さんが欽亮の知人に愚痴ったという。

 

当時の社員間で伝説のように語られているのは、明治29年に英国アール・ホー社製輪転印刷機を導入した時のこと。普通であれば外国から技師を呼び寄せて据え付けるところ、欽亮が説明書を頼りに試行錯誤を重ねて組み立て、運転までこぎ着けた。しかし運転をしてみるとどうも調子が悪い。当時欽亮は時事新報社のすぐ隣、かつては女郎屋だったという建物に住んでおり、夜中でも何か考えつくと寝間着のままロウソクを手に機械室に行き、コツコツと調整していたという。そういった姿を社員は時々見ては、真面目一徹の欽亮を認めてもいたようだ。

 

時事新報には薩摩出身で西郷従道らと懇意の前述の山名次郎もいて、「長州の伊藤、薩州の山名」と、変人二人として世間からも知られていた。官吏になって栄達を求めないことはそれほど奇異に映った時代であった。欽亮はその後、岩崎弥之助が日銀総裁に就任した直後の明治29年12月、日銀の副支配役に転じた。これは懇意の弥之助を助けるために福沢が差配したとも、欽亮が自分の進路を独力で切り開くことを期して辞めたのだともいう。ただ、その後の時事新報の社長となる福沢捨次郎らと欽亮が、例の通り花月で芸者や女中を明け方まで悩ませていた話が残っているので、いざこざがあって辞めたわけではなさそうだ。

 

 

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明治24年9月、時事新報記者集合写真。欽亮は前列中央、
マントを着けている。同左端は福沢一太郎、中列右端石河幹明、
4番目の明るいスーツが坂田実(会計主任)、同左端菊池武徳。

 

さて、その後の欽亮は実に不遇であった。日銀では文書局長まで進むも、大蔵省からのしがらみの多さや、高橋是清副総裁との折り合いの悪さ、元来新聞事業に関心があったことなどから、辞めるタイミングを計っていた。ちょうど新聞『日本』と『東京日日新聞』が買い手を探していることを知って、資産をなげうって買収できた『日本』の社長となったのが明治39年6月のことである。陸羯南(くが・かつなん)を社長に、三宅雪嶺らが日本主義を掲げて政治論を中心に経営してきた新聞を、欽亮は経済を中心とする新聞に軌道修正する。これに三宅らが猛反発、同年12月には「日本新聞廃滅理由」と題する文章を発表して連袂退社した。その文に曰く…

 

不幸にして「日本」前社長陸氏の病むや、日本銀行員某氏が後継たらんとし、旧来の面目を汚さざるべきを誓いたるも、彼、言を食むことを忘れたるがごとく「日本」の特色を破壊し、勢家の意をそこなうをおそれ、紳商の意をそこなうをおそるる虎よりも甚だしく、加うるに貨殖のほか、すべての点においてほとんど全く無力、全く無能、全く無識なり。吾人は今さらかかる人物とともにともにせし不明をはじ、ここに「日本」新聞を廃滅に帰せしめ、もって一世の人士に謝す。法律の保護の下にしばらく同名新聞の存するも、これ残骸に過ぎず、一日ならず腐乱して虫これに生ぜん。

 

こうして大波乱の中、経営に四苦八苦しながらも独自の新聞として育てていこうと努力を重ね、欽亮特有の鋭い筆法で一目置かれるようにもなった。特に桂太郎内閣への攻撃は、同郷ながら容赦なく、最も声望を高めたといわれる。しかし不運にも大正3(1914)年12月25日、不良少年団の放火によって社屋が全焼、職工1名が焼死し、『日本』は廃刊に追い込まれた。

 

その後は福沢門下の門野幾之進が創立した千代田生命取締役などに迎えられ、また経済雑誌ダイヤモンドの監修に就任、経済論の筆を振るった。昭和3年4月28日死去、71歳。その才能と不遇な生涯を惜しんだ知友は『伊藤欽亮論集』上下巻を編んで、彼の経済論説を今日に伝えている。


(追記)第20回に「19年9月 新聞紙条例違反事件の控訴を取り下げ、記者の伊藤欽亮が軽禁固1年の服役、20年5月に出獄した」と記した。この事件については、時事新報とは無関係であることが判明した。欽亮が赤川英三という人物と共に「商法社」という会社を立ち上げ、印刷物を配付したところ、それが新聞紙条例に抵触したという事件である。

 

 


   
著者プロフィール:都倉武之(とくら・たけゆき)
1979年生まれ。2007年慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。 現在、慶應義塾福澤研究センター准教授。
専攻は近代日本政治史。 主要業績に、「明治十三年・愛知県明大寺村天主教徒自葬事件」『近代日本研究』18号(2002年3月)、『福沢手帖』115号(2002年12月)、「資料 機密探偵報告書」『福沢諭吉年鑑』31巻(2004年12月)、「愛知県におけるキリスト教排撃運動と福沢諭吉」(一)・(二)『東海近代史研究』25・26巻(2004年3月・2005年3月)、「日清戦争軍資醵集運動と福沢諭吉」『戦前日本の政治と市民意識』(慶應義塾大学出版会、2005年)、「福沢諭吉の朝鮮問題」(『福沢諭吉の思想と近代化構想』、慶應義塾大学出版会、2008年)など。
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