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オリジナル連載 (2009年4月1日掲載)

時事新報史

(番外編)
時事新報資料の現状
〜「未来をひらく福沢諭吉展」開催を通して〜

 
 

























『福沢諭吉の出版事業 福沢屋諭吉』はこちらから 

『近代日本の中の交詢社』はこちらから 

 

 「時事新報史」を再開したいと思う。この間、決して研究活動をサボっていたわけではないが、展覧会の開催や『慶応義塾史事典』の刊行など、多くの業務の中で、時事新報だけを探求する時間が得られずに今日に至ってしまった。

 目下の最大の業務は、「未来をひらく福沢諭吉展」の開催準備である。上野の東京国立博物館表慶館を会場に1月10日から3月8日まで開催され、今後福岡(会場:福岡市美術館、5月2日〜6月14日)、大阪(会場:大阪市立美術館、8月4日〜9月6日)と巡回する予定である。横浜でも、神奈川県立歴史博物館を会場に、8月22日から9月23日まで「福沢諭吉と神奈川展」が開催される。また来年中には『福沢諭吉事典』の刊行も予定されている。しばらくは隔月での連載とし、展覧会が一段落ついたところで、月一回の連載に復帰できればと思う。

 さて、再開第一回は番外として、福沢諭吉展開催準備を通して改めて認識した、時事新報関係資料の現状に関する話を書いてみたい。端的にいえば時事新報はあまりに実物資料が乏しい、ということである。「時事新報」に関する展示をしようというとき、出すものがないのである。

「未来をひらく福沢諭吉展」会場の時事新報コーナー(左奥)
「未来をひらく福沢諭吉展」会場の時事新報コーナー(左奥)

 時事新報は新聞であるから、まず印刷された新聞紙が存在する。時事新報の紙面は創刊号から最終号まで慶応義塾図書館に残っている。だが、当時の新聞の呼び物のひとつであった附録はほとんど残っていない。また、福沢家旧蔵の全号セットがもう一つ慶応義塾に保管されていたと聞くが、戦災で焼失してしまったという。

 それでは原稿はどうかといえば、福沢自筆の社説原稿は、比較的残されている。しかし、発表された社説全体の数に比べれば微々たるものといわざるを得ない。福沢自身は、基本的に原稿に頓着せず、欲しい者が持ち帰るに任せていたため、系統立って残存しているわけではない。宮武外骨『明治奇聞』によれば、明治18年冬頃、日報社(東京日日新聞)の路傍で店を開く古本商が、時事新報から福沢の原稿を仕入れてきて古本と並べて売っていたという。「福沢諭吉先生の時事新報論説原稿 一通二十銭」と書いてあり、宮武自身がそれを何通か買ったという(残念ながら宮武はそれを人に譲ってしまったので今日に伝わらない)。筆者は以前、本連載中で、福沢の時事新報社説は他の著作と異なり、その日限りの「読み捨て」を前提として書かれたという言い方をしたが、社説原稿に対する福沢の無頓着にも、そのことが現れているように思えてならない。

 たまたま運良く残ったものが現存しているに過ぎないことをいくつかの例から示しておこう。たとえば社説記者であった高橋義雄は、多くの福沢原稿を手元に置いており、大切に保管しようと実家に預けたが、火災ですべて焼失してしまったという。時事新報社で印刷を監督していた飯田平作もまた、後世に福沢の原稿を残そうと、多くの原稿を集めて保存していたというが、人々の求めに応じて少しずつ分けてしまったため、最後には「全国徴兵論」の原稿だけになってしまった、と『福沢諭吉伝』で語っている(飯田の説明書きがある原稿がいくつか残されているが、全国徴兵論の原稿は今日慶応義塾には伝わっていない)。福沢諭吉展で展示している「日本婦人論後編」の原稿も、散逸寸前で助かったことが、社説記者・石河幹明の由来書きによって伝えられている。それによれば、この原稿は石河の同僚記者・渡辺治が福沢に乞うてもらい受け、自分の親族に贈ったものであった。しかしのちに所有者が売却しようとしたため、それを聞いた義塾出身の近藤利兵衛という人物が、資料の散逸を恐れ値段を問わずに自ら買い取り、昭和9年慶応義塾に寄贈したという。

 このようにこんにちに伝わる福沢自筆原稿は、様々な巡り合わせによって残存したものの総体でしかないのである。たとえば「脱亜論」の原稿は現存しない。展覧会において「脱亜論」をなぜ展示しない、という声が挙がることは当然予想していたが、「脱亜論」というある1日の社説の原稿が今日まで伝わることがいかに困難なことかは、上記の事情でお分かり頂けるであろう。実物を展示できない代わりとして、パネルの中で「脱亜」という言葉に触れ、さらに、現存する社説原稿の中で脱亜論よりよほど過激なタイトルの社説「朝鮮の滅亡はその国の大勢において免るべからず」の原稿を展示した。一方で、すでに本連載で詳細に記したように、福沢は世論が右に傾けば左のことをいうようなバランサー的態度に立って発言しており、発言の硬軟の差が激しい。そのことを示すため、「土地は併呑すべからず国事は改革すべし」というきわめて穏健な社説原稿を並べて展示した。朝鮮を併合してはいけない、というこの社説は脱亜論から9年後、日清戦争直前の社説である。

「アジアへのまなざし」と題して朝鮮問題を取り上げたコーナー
「アジアへのまなざし」と題して朝鮮問題を取り上げたコーナー

 さて、福沢の原稿がこのような状態なので、福沢以外の記者の書いた原稿が、皆無ではないがほとんど残っていないのは当然のことである。筆者自身、他者の書いた時事新報原稿の現物はほとんど見たことがない。石河幹明の書いた記事に福沢が加筆している原稿の断片を会場に展示したが、この小さな紙切れが、どれほど貴重なものであるかは、会場では十分伝わらなかったかもしれない。福沢没後の原稿にいたっては、さらに絶望的な現存状況である。新聞を研究するときの資料的な限界を強く感じざるを得なかった。

 展示には、何よりも立体物が存在感を示す。しかし、その観点でも時事新報に関係のある資料は乏しい。立体物といえば、福沢の筆記具くらいであろうか。時事新報に直接結びつく縁の品、看板でも、活字でも、机でも良いが、そういったものは何一つないのである。時事新報社は社屋が2度焼失しており、戦前に一旦解散している。福沢時代から今なお連綿と続く交詢社でさえ、関東大震災での社屋焼失により、資料が全くない状態であることを考えれば、むしろ慶応義塾や福沢家の資料残存が奇跡的なのであって、時事新報を語る上では、このあるがままの状態を受け入れなければならないであろう。

 以上のような次第で、福沢諭吉展の中で「時事新報」と銘打ったコーナーはややさびしいものに映ったかもしれないが、福沢の活動を示すために要所要所で展示した自筆原稿の多くは時事新報の原稿である。女性論にしろ、実業論、アジア論にしろ、あるいは『福翁自伝』も、まず時事新報に掲載されたもので、時事新報用の原稿用紙に記されている。この連載では、このようにわずかに残された原稿や断片的な回想を丹念に掘り起こしながら、五里霧中の時事新報のすがたを、少しずつ見通しのきくものへと変えていく、露払いをしてみたいと思っている。引き続きご指導ご鞭撻をお願い申し上げたい。

 


画像
・「未来をひらく福沢諭吉展」会場の時事新報コーナー(左奥)
・「アジアへのまなざし」と題して朝鮮問題を取り上げたコーナー

ご紹介
 ・未来をひらく福沢諭吉展 (5/2〜6/14まで福岡市美術館にて開催します。)
  (時事新報関係を含め、東京で展示された福沢資料はすべて福岡・大阪会場でも展示されます。)
 ・「福沢展のツボ」(福沢展の見どころや準備状況をお届けする筆者担当のブログ)
 ・「福沢諭吉と神奈川展」 (会場の神奈川県立歴史博物館ホームページ)
 

  未来をひらく福沢諭吉展


   
著者プロフィール:都倉武之(とくら・たけゆき)
1979年生まれ。2007年慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。 現在、慶應義塾福沢研究センター専任講師。
専攻は近代日本政治史。 主要業績に、「明治十三年・愛知県明大寺村天主教徒自葬事件」『近代日本研究』18号(2002年3月)、『福沢手帖』115号(2002年12月)、「資料 機密探偵報告書」『福沢諭吉年鑑』31巻(2004年12月)、「愛知県におけるキリスト教排撃運動と福沢諭吉」(一)・(二)『東海近代史研究』25・26巻(2004年3月・2005年3月)、「日清戦争軍資醵集運動と福沢諭吉」『戦前日本の政治と市民意識』(慶應義塾大学出版会、2005年)、「福沢諭吉の朝鮮問題」(『福沢諭吉の思想と近代化構想』、慶應義塾大学出版会、2008年)など。
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