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オリジナル連載 (2007年9月5日掲載)

時事新報史

第18回 経営の重視 〜紙面改良の工夫とその批判〜

 
 

























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当時の新聞人たちは、経営努力というものに関心が薄かった。彼らは言論を発信する手段としての新聞に多大の関心を寄せつつ、金銭を求めたり商売に聡いことは賤しいこと、とする江戸時代の考え方を併せ持っていた。しかし、現実問題として新聞を維持するには金が要る。他の新聞が政党機関紙や御用新聞となって、ある立場を代表することは、経営のための資金をその辺りから得ていることとも関係があったのである。あらゆるしがらみを断ち、誰にも遠慮のない発言をするとして、「独立不羈」を掲げる『時事』が、経営を重視しなければならないのは必然のことであった。

 

新聞社の収入源といえば、当時は第一に販売収入であった。『時事』の購読代金は、他紙より安めに設定されていたが、部数は必ずしも伸びず、3年ほど赤字が続いたことは、既に書いた。福沢は社長の中上川に対して、「こんなことではお前さんを大蔵卿にすれば政府はすぐに破産だ。大いに儲からなくとも収支だけは償うようにしたいものだ」と叱責、それに対して中上川は、「新聞の営業というものはいくら多く部数を出したとて、それだけで儲かるものではない、どうしても広告料の収入を図らねばならぬ」と決心し、『時事』において広告収入が重視されるようになったと伝えられている(『伝』)。

 

新聞広告を広く商売に利用してもらおうと執筆された「商人に告ぐるの文」(明治16年10月16日付)と題する社説で、福沢は言う。「商業の繁昌は利を得るの基なり。」しかし「正直と熟練と、かつその価の廉なるとを世間に示すの工夫」がなければ、繁昌することは出来ない。そこで「商人は人に知らるること甚だ大切なりと申すべし。」

「今の時代にありてはその及ぶところの甚だ広く、その費用の甚だ廉なるものは、新聞紙を借りて広告するに匹敵すべきものなし。新聞紙は上(かみ)天子の宮殿より、下(しも)陋巷(ろうこう)の茅屋に至るまで、東西南北都鄙遠近の別なく行き渡らずということなし。もし人ありて、新聞の手を借らず、他の引き札・張り札〔ちらし、張り紙〕などの方法をもって新聞同様の広さに広告を行き届かしめんと試むることあらんには、その費用と手数の莫大なる、尋常人の資力には及ぶべからざるものならん。あるいは物好き半分にこれを実行せんとするも、到底力の及び得ざるところあるを発明するなるべし。」

 

福沢はここで「人情」を持ち出し、新聞紙は自分でお金を払って買っているものだから、社説も雑報も広告も、「読まざるは損」と考えて、多忙でも隅々まで一読しようとするものであるが、勝手に投げ入れられる引き札は、また何か売り付けに来たと思うくらいで、ヒマがあっても見ないものだ、という。さらに、広告を1回出してもすぐ忘れられてしまうから、繰り返し出すのが良いといい、広告文の書き方まで指南して、隣人が気づかぬうちに「大いに我が腕をふるいてひとり富を占めんこと、この時を失いてまた他に好機なかるべし」と、なかなかの商売魂を見せている。

明治18年の『時事』広告 

この努力は実り、広告料が他紙より高めでありながら、『時事』の広告は大繁盛、従来最終ページを使って掲載されていた広告は、徐々に前ページを侵食、20年1月からは、第1面と最終ページを全面広告欄とする思い切った方針が採用された。広告欄の充実は、『時事』の特徴の一つへと成長していく。

 

広告奨励と共に、『時事』は他紙との違いを様々な形で強調し、部数拡大を狙った。たとえば、値上げはせずに発刊日を増やそうと、17年12月4日から、祝祭日年末年始の休刊を廃し、日曜日のみ休刊とすることを宣言、他紙は次々とこれに追随した(20年11月1日からは日曜休刊も廃して無休とする)。また、文章の平易化で読者層を拡大しようと、18年7月7日掲載の社説「日本婦人論後編」以降、従来の漢字カタカナ混じり文を漢字ひらがな文に次第に改め、振り仮名を施した。社説以外は従来から漢字ひらがな文であったが、8月下旬より紙面全体に振り仮名を採用している。

桃色紙使用の紙面

中でもひときわ目を引いたのは、用紙を桃色紙に替えたことであった。その開始日は18年11月18日で、次のような記事が掲載されている。

○時事新報 欧米の新聞紙中にはその用紙を薄紅色にして他の白紙新聞と区別し、遠方より見ても一目してその何新聞たるを知らしむるの工風(くふう)をなすものあり。時事新報もこれにならい、桃色紙を用いては如何とわざわざ忠告下されし看客もあり。本社員も充分これに同意なりしかなれ共、如何せんこの桃色紙を用うるには特に製紙所と約定して別段に漉(す)き立てさせ、臨時に費用のかさむのみならず、わずか一万枚くらいの発行紙数にては、時事新報が製紙所に対する関係も充分ならずして、その約定掛け合いも兎角オックウなるより、よいとは知りつつ一日送りに遷延しおりしが、何時までもかくてあるべきにあらずとて、今回奮発新たに桃色用紙を漉き立てさせ、今日よりはじめて試みにこの紙を使用いたし候あいだ、御一覧下されたく、幸いにして一般看客諸君の御意に叶わば、本社員の面目これに過ぎず候。

 

ちなみに、桃色紙使用がいつまで続いたかは、褪色甚だしく判別し難いのだが、おそらく24年末頃までであったように見受けられる。

 

『時事』は時を同じくして、個人の独立のため、ひいては国家の独立のために、経済的自立が重要であるとする実業奨励論を繰り返し主張した。例えば明治18年4月から5月にかけて立て続けに掲載された社説「西洋の文明開化は銭にあり」「日本はなお未だ銭の国にあらず」「日本をして銭の国たらしむるに法あり」などは、その一例である。金銭を蔑視せず、真剣にお金を儲けることを考えるように説くもので、『時事』が自ら経済的自立を実現すべく努力する姿勢は、独立の見本を示すものでもあったのである。

 

このようにお金のことを論じ、また自身儲けようとあれこれ努力する姿は、「武士は食わねど高楊枝」という気風も色濃い当時、甚だ嫌悪される対象でもあった。ほどなく、『時事』は金のためなら何でもやる「拝金宗」だというレッテルが貼られた。のちに『時事』に入社し、福沢からも信頼された土屋元作(つちや・もとさく)という記者も、この当時の『時事』に激しい拒絶反応を起こした一人であったらしく、後に回想で次のように語っている。

「…気になったのは…拝金宗の一件で、私が武人の家に育ちまして甚だ金銭ということを軽んずる教育を受けている、ところにもってきて世人の誤解する如くやはり私も時事新報などの説を読みまして、どうも福沢先生は甚だ金銭のことをいわれるから好かない、それでなくてすらも実力の帰するところ、次第に士族は頭をおさえられ、町人が社会の表面に浮かび出でてきた、その町人は金銭以外に考えのない奴である、しかるにその風潮に乗じて金銭論を盛んにするのはあたかも薪に油を注ぐ如きものである、日本を腐敗せしむるのはこの論であるなどと、…その時は全て反対の考えであったから毫も先生に接近しようと思わなかった。」(土屋元作『余が見たる福沢先生』)

 『拝金宗』第2編表紙

話はあちこちに飛ぶが、この「拝金宗」という言葉自身が、実は『時事』を発信源としている。正確に言えば、記者の高橋義雄の出版した著作のタイトルなのである。高橋によれば、「明治十七年頃より、福沢先生がしきりに実業論を唱えて、我が士族根性を実業主義に転換せしめんとする論説を、私に代筆せしめたので、私も自ら一書を著述するに至ったのである。拝金宗とは米国人のいわゆるオールマイティー・ドルラルという言葉を翻訳したので、この訳語は私の発明である」(高橋義雄『箒のあと』上巻)という。確かに同書緒言に、訳語を作った経緯が記されており、これが真実らしい。

 

この本は『時事』とは一応無関係に出版されているものの、福沢の系譜を引く者に相応しい挑発的なタイトルであった。その語が批判的な意味で『時事』自身に向けられても、それはかえって福沢の原動力となったと思われ、またそういった反応があればこそ、『時事』の経営は、福沢のプライドをかけて、是が非でも成功しなければならなかったのであった。そして、時事の経営は中上川時代後半におおよそ安定したのである。


資料
・「売薬訴訟事件」、『伝』3。
・「商人に告ぐるの文」(明治16年10月16日付)。『全集』8にも収録。
・高橋義雄『箒のあと』上巻(秋豊園、昭和8年)。
・高橋義雄『拝金宗』第1編・第2編(明治19・20年、錦栄堂)。
・土屋元作『余が見たる福沢先生』(明治36年、三和印刷店)。

画像
・明治18年の『時事』広告。福沢著『品行論』に掲載されたもの。左側に広告掲載料の一覧がある。
・桃色紙使用の紙面。明治18年11月18日付(左)。前日の紙面(右)と比べれば、ほのかなピンク色を確認できる。
・『拝金宗』第2編表紙。「河鍋暁斎(かわなべ・ぎょうさい)という達者に北斎風を描く画家に、表紙の挿絵を依頼し、釈迦と孔子と耶蘇とを、十字架の上に縛り付けたその一方で、後光の射している金貨を拝みおる漫画を描かしめたのが、すこぶる挑発的な奇想なので、この書は上下二篇共に数千部を発行し(た)」(高橋義雄『箒のあと』上巻)とあるが、正確には、紳士淑女が、十字架にかかったキリストと後ろ手に縛られた釈迦と孔子を見捨て、後光の射す洋装の大黒天に、群れをなして歩み寄っている図で、中にはあかんべえをしている者も見える。

   
 
著者プロフィール:都倉武之(とくら・たけゆき)
1979年生まれ。2007年慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。 現在、慶應義塾福沢研究センター専任講師。
専攻は近代日本政治史。 主要業績に、「明治十三年・愛知県明大寺村天主教徒自葬事件」『近代日本研究』18号(2002年3月)、『福沢手帖』115号(2002年12月)、「資料 機密探偵報告書」『福沢諭吉年鑑』31巻(2004年12月)、「愛知県におけるキリスト教排撃運動と福沢諭吉」(一)・(二)『東海近代史研究』25・26巻(2004年3月・2005年3月)、「日清戦争軍資醵集運動と福沢諭吉」『戦前日本の政治と市民意識』(慶應義塾大学出版会、2005年)、「福沢諭吉の朝鮮問題」(『福沢諭吉の思想と近代化構想』、慶應義塾大学出版会、2008年)など。
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