明治20年4月、社長中上川彦次郎が『時事』を去り、同年7月、福沢が『時事』の将来を託そうと大事に育ててきた二人の社説記者のうちの一人、高橋義雄が、実業界に転じるために退社してしまった。そして、残されたもう一人の社説記者、渡辺治が『時事』を去るのは明治22年1月である。
福沢は甥っ子の中上川が、社長として血気の若者たちを抑え、経営のバランスを取っていたことをよく知っており、中上川が去った後、残った記者たちの若さゆえの血気が噴出する可能性を認識していた。中上川が担っていた仕事のうち、編集の統括は他の記者より幾分年長の伊藤欽亮に任せたが、社説は当面自ら統括することとしたのもそのためであろう(これ以前も最終的には福沢が社説を統括していたといえようが、日々の執筆は中上川を中心にある程度回る体制が出来ており、福沢の手間はよほど少なかったという意味である)。
高橋も書いていたように、渡辺はやはり才能あふれ、何かと目立つ男であった。記者としての彼の名が世間に知られたのは、明治18年3月、朝鮮における甲申事変後、清国と日本の談判を取材するため、北京に特派員として派遣され、迅速且つ詳細な情報を日本にもたらした時だった。福沢の見込み通り筆が立ち、残した著作もユニークだ。明治18年12月、ハーバート・スペンサーの著作を『政法哲学』の名で手堅く翻訳(浜野定四郎との共訳)したのを手始めに、翌年10月からは英国首相を務めたベンジャミン・ディズレーリによる政治小説『エンディミオン』を、『三英双美政海の情波』と題し、当時一部で用いられ始めていた口述筆記で4巻にわたって翻訳した。その序文には口述筆記を用いる利点が次のように記されている。
予が口に発する所はまたすべて原文の字句言語をそのままに日本語に改めたるに止まるものなれば、その趣は自身に筆を執りたるにことならず、しかしてその実際についてこれを見れば、筆をやるは口を舞わすの軽快なるに若かず。日常通俗の語、軽々舌頭に動きてその原文を訳述しきたるがゆえに、意味も分かり易く、また原文の字句にもかけ離れず。
同書には、速記がいかなるものか、図入りで紹介されている念の入れようで(画像1)、なるほど、渡辺治とは、なかなか一癖ありそうな人物に思えてくる。さらにその翌明治20年には、欧州40年来の政治情勢をビスマルクを中心に叙述する『鉄血政略』(4巻まで刊行するも完結せず)を出した。
画像1
『政海の情波』自叙に続いて掲載されている口述筆記の説明
中上川が東京を去れば、「社中壮年一時に功名心を起こし、われもわれもとあたかも勃起して諸方に仕事を求め、新聞社などは隠居の仕事などとてこれを蔑視して、人々皆うきあし相成るべきは必然の勢い」(同年2月13日付、本山彦一宛)と福沢が書いたとき、その「壮年」(若手の意味)として念頭にあったのは、まずもって渡辺であったようだ。福沢が具体的な異変を感知するのは、実は高橋よりも先に渡辺であった。次に示すのは既に一部引用した書簡だが、アメリカに留学中の息子に宛てて、このことを伝えてずいぶん生々しい。
新聞社は実に忙しく、彦次郎が山陽鉄道へ参り候後は、拙者一人にて、高橋と渡辺を加勢にして、今日まで参り候えども、この高橋も渡辺も実は当てになり申さず。すでに渡辺などは、今度水戸の旧殿様が公使を命ぜられ、ヨーロッパへ参り候につき、渡辺もその付属を内願し、あるいは出来申すべき様子。さよう相成るときは、なおさら拙者は困り入り候。貴様たち両人〔一太郎と捨次郎〕外国の修業、相成るべくだけ長くいて、大成を願うところなれども、また一方より拙者の都合を考えれば、早く帰国を促したくもこれ有り候。実にただ今のごとく繁忙にては、ゆるゆる食事いたす暇もこれなく、老人の健康上にいかがかと、少しく心配いたしおり候。(明治20年7月9日付、福沢一太郎宛書簡)
渡辺は故郷の水戸徳川家の当主徳川篤敬がイタリア公使として赴任するにあたり、随員となることを希望したのだという。『時事』の切迫した人材不足による業務多忙に、福沢は息子たちの早期帰国を願うほど、困り果てていた。福沢が渡辺を強く慰留しているうちに、今度は高橋がさっさと退社してしまうこととなったわけだ。
福沢は引き続き渡辺の引き留めを図るとともに、高橋・渡辺より遅れて入社し、細々とした雑報などを担当していた石河幹明を、7月頃より社説担当の候補生という意図で指導し始め、さらに、菊池武徳(きくち・たけのり)にも、同様の指導を与え始めたとみられる。菊池は明治20年に慶応義塾を卒業した青森出身の若手記者である。さらにこれまで客員として多くの社説を草してきた日原昌造の招聘を模索したが、彼は勤務先の横浜正金銀行でサンフランシスコ赴任が決まり、9月には渡米へと旅立ってしまった。さらにかねてよりラブコールを送っていた門下生の箕浦勝人(みのうら・かつんど)にも入社を打診したが、すでに『郵便報知新聞』で健筆をふるっており、社を離れられないと断られた。
8月初めには、渡辺は福沢の慰留を受け入れたらしく、「一筋に勉強」(明治20年8月26日付、中上川宛)するようになったと福沢書簡は語っているが、この間も自己実現に飽き足らない渡辺の、はやる心は悶々としていたようなのだ。自分の筆に自信を強めていた渡辺にとって、そもそも『時事』にいては、永久に福沢の名の下の無名記者で終わり、名を挙げることができないという気持ちがあり、これは『時事』にいる限り解決できない問題と思われた。
一方、新しく福沢が社説執筆を仕込もうとした石河と菊池は、猛特訓を重ねる。菊池は、福沢の眼鏡にいち早くかなったらしく「有望の少年」と評され、「必ず高橋義雄の身代わりに相成るべく存じ候」(明治21年5月31日付、中上川宛)とまで福沢に記されているが、石河に対する評価は「まだ文章が下手」(20年8月4日付、中上川宛)、「あまりつまらず、まず翻訳ぐらいのもの」(21年8月27日付、中上川宛)などとかなり辛い。
明治21年5月、渡辺はシェークスピアのThe Comedy of Errors(間違いの喜劇)を『鏡花水月』と題して翻訳出版した(画像2)。自らの翻訳力と文章力を持てあましてのことだろう。この本は、シェークスピアを原典より訳したわが国で3番目の本として、そしてまた、口語体の名訳として、今日高く評価されている。しかし8月の時点で福沢は、中上川にこう報告する。「渡辺はまず執筆に宜しけれども、文章に妙な癖ありて、正刪(せいさん)を要すること多し。」そして、この書簡にはこう続く。「老生の所見にて、高橋が一番役に立ち候ように覚え候えども、これは商売がすきと申せば、致し方なし。新聞社にいて文の拙なるは、両国の角力(すもう)に力なきがごとし。何はさておき、困り申し候」(同年8月27日)。渡辺の文章は、どうも福沢の好みではなく、逆に渡辺の立場からすれば、社説を福沢に修正されるたびに、プライドを傷つけられていたに違いない(註1)。
画像2
渡辺治訳『鏡花水月』見返し(左)と口絵
両者の信頼関係が、決定的に壊れたのは明治21年の秋のことだ。この頃の『時事』社内の様子を、記者だった山名次郎が後年回想している。
三十近くなって野心抑え難く、何かやって見たくてたまらず、ある時、吾々は常に文章を書いて新聞に発表しているが、署名しないので少しも世間に名は現れない、一つ吾々の手で雑誌を出し、堂々署名して大いに論じ、天下に名を挙げようではないかとの議が起こり、血気盛んの若い者のこととて私を初め編集部の多くは賛成し、いよいよ「独立政談」という雑誌を出すことになった。(『偉人秘話』)
ところが、その雑誌の原稿用紙の版木が出来たところを福沢に見つかってしまい、順番に交詢社の福沢の部屋に呼ばれて大目玉を食らったのだという。もちろん雑誌計画は取りやめとなった。山名はこの計画の首謀者が渡辺であったと明記しているが、記者たちには総じて不満がたまっていたらしい様子が感じ取れる。
これに引き続いて、不満の矛先は編集をつかさどる伊藤欽亮に向かい、彼が記者たちに詰め寄られる騒動に発展する。福沢を除けば社内で最高の権力者である伊藤に、功名はやる若者の『時事』に対する鬱憤がぶつけられた。他紙であれば一廉の記者として認められるかも知れないのに『時事』では自分の名前が売れず、その上にあれこれ指示を出す伊藤は鼻につくというわけだろう。福沢は沈静化に務めながら、『時事』の将来を悲観する。10月22日付の中上川彦次郎宛書簡で、福沢は延々とその社内混迷を報告し、嘆いている。長文にわたるが、該当部分の全文を紹介しよう。福沢も頭に血が上り、勢いに任せて書いては、思い出したことを書き足し、書き足ししている体裁もまた生々しい(画像3)。
時事新報にて伊藤がひとり編集をつかさどりおり候ところ、渡辺、石河らが少々不平にて、新聞の権力は編集に集まり、自分らは労して功なきがごとし。ついてはその権を分かつべし云々のことを申し出候につき、何とか致さずては、相成らざる義と存じ候。その際、穏やかならざる言葉を吐きたるよし、薄々承り候につき、さようなことを申せば新聞局中一人も入用なし。諭吉がただ一人にて請け合うべし。役にも立たぬ少年は一切不用といわぬばかりに話をしかけて、まずことは治まり候ありさまなり。全体を申せば、伊藤は年も長し智恵もあり、さっさとことをなすところに、渡辺、石河らは年若くして少々筆に頼むところのものあるより、グズグズ申し出したるならん。何分度量の狭き少年どもにて、共に語るに足らず、かかる様子にては渡辺も石河も後年大いになすあるの人物ならずと、まず鑑定は出来申し候。なおい才〔委細―福沢の筆癖〕の事情は追々お知らせ申すべく候えども、あらましのところのみ右の通りに候。
ツイ忘れたり。前条のことを申し出る前に、石河が菊池などと申し合わせ、雑誌を発兌いたしたき旨申すにつき、勝手次第、全く新報と関係を絶ちて後に着手すべしと答えたれば、これにて見合わせに相成り、また近日は絵入時事新報は如何など申しおり候様子なれども、本社に不用のものなれば、これを助けざるは無論、表裏ともに無関係にあらざれば許さざるつもりなり。
右雑誌の内相談は、渡辺、石河らにて津田〔興二〕も仲間のよし。津田は大阪より帰りたる〔大阪出張所から帰任させられたこと〕を不平に思いおるよし。
渡辺も石河も文章の拙なる者にてこの者らが不平などといわずして文の修業致し、ほんとうに社説ができるようになれば、老生は快くこれに譲り渡すつもりなれども、自分を顧みずしてグズグズとは、自省の明なきものなり。
前文の次第につき、老生ただ今の考えには、渡石輩〔渡辺、石河ら〕をして騎虎の勢いに至らしめず、ほどよくまのわるくないように致すつもりなれども、もしも彼らがうぬぼれよりむつかしきことを申しつのり、是非とも伊藤をしりぞけよなど申して、力むときはいかが致すべきや。伊藤をしりぞけるは社の不利なるゆえ、渡辺、石河らをそのりきむままにして、退社せしむべきや。さりとは血気無辜(むこ)の少年、はなはだ気の毒なり。これには老生も当惑致し候。ただいま渡辺、石河が去りたりとて、老生が全力を尽くせば、社説に困りは致さず。また雑報は他の少年にて出来申すべきなれども、生も老してますます多事なるは好むところにあらず、お考え下さるべく候。
画像3
社内騒動を中上川に報告する明治21年10月22日付福沢書簡
(部分、慶応義塾福沢研究センター蔵)。
画像中央左で「ツイ忘れたり」と文章を書き足している。
福沢は、渡辺、そしてここに来て彼と同調気味の石河に出来るだけの配慮をして、今一度『時事』で腰を据えた仕事をする方向へと導こうとし、中上川には2日後に「事は治まり申し候あいだ、さまでご心配下さるまじ。畢竟(ひっきょう)人事不慣れの少年輩が一時の発症たるに過ぎず。失敬と申せば失敬なれども、また大いに恕(じょ)すべし」と報告している。
その直後、石河に宛てた次のような書簡が残っている。
改めて申すにはござ無く候えども、小生も年ようやく老し、いささか気楽にして残年を消したきについては、新聞の社説、常々ご苦労お気の毒に候えども、なお一層お勉め下されたく、ついては菊池氏も筆端なお未だ至らざるところ多けれども、行く行くは必ずものになり申すべく存ざれ候あいだ、同氏へも勉強するよう仰せ含められ、なにとぞ老生をして閑をぬすましむるよう呉々も願い奉り候。余は口頭に付し候。頓首
十月二十九日
諭 吉
石河様
官民調和ならぬ社内調和、いかにも福沢らしい気の配り方で、渡辺にも同様の、おそらくはこれ以上に丁重に奮起を促したと推測される。しかし、表面上はともかく、渡辺の心は、もはや完全に『時事』から離れてしまったのであった。
註1
この頃の渡辺が福沢に対して反抗的態度を取っていたとして、しばしば次の福沢書簡が引用される。
…先日渡辺が地方自治など申す題にて一二編したため、文もよし、理屈も立ち候えども、福沢が嫌いゆえ、これは田舎新聞に投じてやれ、必ず悦ぶならんとて、時事新報には採用せずに反古になりたり。(明治20年10月1日付、中上川宛)
この文面は「福沢が嫌いゆえ」の部分の意味が取りにくいが、「渡辺が福沢を嫌っているので」と読めば、書き上げた社説を渡辺がわざわざ田舎の新聞に投じた、という意味になって福沢への反感を示していると考えられる。しかし引用部分の前に何が書かれているかを見ると、話は逆になる。『神戸又新日報』の主筆を務めていたかつての時事新報記者矢田績が退職し、空席となったのでその後任を選んで欲しいという中上川の依頼に対して、福沢は執筆の代役となる適任者は送れないが、事務を仕切る人物は送れるので、その人物に社内を切り盛りさせ、社説は東京から時々送って助力することが出来る、といっている。その例として、上記のように『時事』で「反古」、すなわちボツにしている社説を送ることが出来る、といっているわけである。もし渡辺が福沢に反抗しているなら、そもそも社説の校閲を願わないであろうし、そういった社説を神戸に送れるなどという約束を、福沢が取り付けるはずがない。したがって上記引用は、「渡辺が書いた文章を福沢が気に入らなかったので田舎の新聞に送った」と解するべきである。そうであれば、この書簡自体は、渡辺の福沢に対する反感とは無縁のものである。
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