Web Only
ウェブでしか読めない
目次一覧
 
第1回 連載の視座/発会式
 
自発的結社の原点―その(1)
 
自発的結社の原点―その(2)
 
同窓会から交詢社構想へ
 
「知識交換世務諮詢」(ちしきこうかんせいむしじゅん)の登場
 
交詢社「緒言」−専門分化への危機意識
 
社則「緒言」から「交詢社設立之大意」へ
 
「社会結合」と結社像の転換
 
「社会結合」と結社像の転換
 
交詢社設立の中心人物たち―小幡篤次郎2
 
交詢社設立の中心人物たち―馬場辰猪
 
交詢社設立の中心人物たち―馬場辰猪(2)
 
交詢社設立の中心人物たち―馬場辰猪(3)
 
交詢社の初年―『交詢雑誌』
 
『会議弁』と交詢社―演説の時代―
 
第16回 交詢社の2つの意図―国会開設運動と交詢社(その1)
 
 
著者について
    近代日本の中の交詢社  
 
       
     
   

第2回 自発的結社の原点―その(1)

前回は交詢社発会式の様子をみたが、そもそも福沢諭吉が結社を始めた関心の源は何であったのだろうか。それは福沢の外遊経験、なかでも渡欧にあった。慶応義塾の創業は日本の自発的結社の歴史の中で画期的な試みであったが、今回はそこに至る前に重要なできごとであった彼の渡欧経験をみてみたい。

福沢は文久2年(1862)、幕府遣欧使節の随員として欧州諸国を訪れた。慶応義塾創業の6年前のことである。彼が見聞したできごとは「西航記」「西航手帳」という日記、手帳に記録された。そこに記された内容は、著述においては『西洋事情初編』に結実し、事業としては慶応義塾の創業に結実した。そこから交詢社へいたる道筋が生まれてくるのである。

★渡欧経験―文久2年(1862)

 

福沢は生涯で3度、洋行を経験した。最初は咸臨丸での渡米、2回目が今回とりあげる文久2年の遣欧使節、3回目が再度の渡米である。当時、三度の海外見聞は得がたい経験であった。それが福沢の視野を大きくもし、深くもした。

この年、幕府は安政の五カ国条約(アメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランス)の未履行部分の延期を目的に、これらの国々と直談判に臨んだ。文久の遣欧使節団である。この当時、福沢は幕府の外国方(今の外務省にあたる部署)で外交文書を翻訳する仕事に就いていた。使節の出発間際、通詞(通訳)の人間に差支えが生じ、幸運にも彼が代役となる。

この使節団は西回りで欧州に向い、約1年をかけてパリ、ロンドン、ロッテルダム、ハーグ、ベルリン、ぺテルブルグなどを中心に歴訪した。福沢は乗船の日から日記をつけ、パリで購入した黒革の手帳に見聞記録を記した。その多くを披露する余裕はないが、彼は鉄道などの文明の利器、議会や病院といった目に見えるものに驚いたばかりでなく、それらを可能にする背後の仕組みに注意を払った。例えば鉄道については、マルセイユ―パリ間の路線距離のみならず、地形による費用の多寡、建設資金の調達方法、貨物を含めた運賃までの聞き書きを記している。

そうした背景に関心を寄せることができたのは、日本で蘭学を勉強していたことが大きかった。欧州滞在中、外国人が学術上のことについて熱心に説明してくれたが、先方が思うほどには珍しくなかったと彼は述べている。(「福沢全集緒言」) 汽車・汽船・電信などの科学原理に関してはすでに原書を読んで一通り理解できていた。貴重な旅中、時間を節約するにしかずと、本や辞書で調べても分からないことを外国人に聞いてまわったという。

例えば、日本では3人以上で内々に申し合わせする者を徒党と言う。当時では、よこしまな事と政府の高札に明記され、最も重い禁制である。しかし、英国には政党というものがあって、政権の授受を争うと聞く。これが分からない。現代の我々には常識である。しかし、当時の日本人からすれば、文化がまるで異なっていた。更にいえば実験で再現できるものと違い、文化や社会、政治制度は日常生活が積み重なった歴史・風俗・習慣の中から生まれてくるものである。分からなくて当然であった。そうなればこそ、「適当の人を見立てて質問を試みるに、先方の為めには尋常普通分かり切りたる事のみにして、いかにも馬鹿らしく思うようなれども、質問者においては至極の難問題のみ」(「福沢全集緒言」)となる。パリで手紙を出そうとした際に、その手はずを外国人に聞いて初めて郵便制度を知る。要領を得ない。翌日からその人の家まで訪ねて何度も質問をすること3、4日。漸く腑に落ちたという。先の政党に関する疑問の続きを彼自身に語ってもらおう。

「党派には保守党と自由党と徒党のようなものがあって、双方負けず劣らず鎬(しのぎ)を削(けず)って争うているという。何のことだ、太平無事の天下に政治上の喧嘩をしているという。サアわからない。コリャ大変なことだ。何をしているのか知らん。少しも考えの付こうはずがない。あの人とこの人とは敵だなんというて、同じテーブルで酒を飲んで飯を食っている。少しもわからない」(『福翁自伝』)

政党や議院の由来、帝室(王室)と議院の関係など狭義の政治のみならず、生命保険・海上保険会社など多くの社会制度を見聞してまわった。こうして「西航記」「西航手帳」に記された内容は、帰国後の勉強と織り合わされ、4年後の『西洋事情初編』となって世に出されることになる。

★『西洋事情初編』3冊の出版―慶応2年(1866)

この本は福沢の著作で最も広く読まれたものの1つで、偽版を含めると20から25万部というベストセラーとなった。この書が著述家として福沢の名を全国に広めることになる。
その巻頭にいわく、

「洋籍の我が邦に舶来するや、日既に久し。その翻訳を経るものまた少なからず。しかして窮理(物理)、地理、兵法、航海術等の諸学、日に開け月に明らかにして、我文明の治を助け武備の欠を補うもの、その益豈(あ)にまた大ならずや。しかりと雖(いえど)も余、密かに謂(おもえ)らく、独り洋外の文学技芸を講窮するのみにて、その各国の政治風俗如何を詳らか(つまびらか)にせざれば、たといその学芸を得たりとも、その経国(国を治める)の本(もと)に反(かえ)らざるを以て、ただに実用に益なきのみならず、却って害を招かんもまた計るべからず」(『西洋事情初編』、巻之一、「小引」 以下、下線は筆者による)

続いて、総論的にわが国と異なる西洋の制度風俗一般が「備考」として説明される。この部分にこそ、彼の洋書の読書と渡航経験を練り合わせたエッセンスが詰められていた。以下の項目が約30ページ(『福沢諭吉全集』第1巻)にわたって説明されている。

「政治」「収税法」「国債」「紙幣」「商人会社」「外国交際」「兵制」「文学技術」「学校」「新聞紙」「文庫」(図書館)「病院」「貧院」「唖院」「盲院」「癩院」「痴児院」「博物館」「博覧会」「蒸気機関」「蒸気船」「蒸気車」「電信機」「瓦斯灯」

これらをみて、気づくのは「商人会社」「学校」「新聞紙」「病院」「「貧院」「唖院」「盲院」「癩院」「痴児院」という公共的な役割を担う団体が多くとり上げられていることである。いずれも福沢は「会社」「社中」と呼んでいる。

例えば学校であれば、
「学校は政府より建てて教師に給料を与えて人を教えしむるものあり、あるいは平人(民間人)にて社中を結び学校を建てて教授するものあり」

病院では、
「病院は貧人の病んで医薬を得ざる者のために設けるものなり。政府より建つるものあり、私に会社を結んで建つるものあり」
という具合に説明されている。

このような政府以外の公共的団体は、政府の「公」と対比して私的結社という。より広い意味では、人々の自発的な意志によってできる結社なので、自発的結社という。彼が「会社」「社中」と呼んだものはこの自発的結社であり、今日でいう企業とは異なる。慶応義塾の創業に際して、福沢はこうした西洋の自発的結社「会社」を参考にした。事実、創業当時の慶応義塾の自己表記が「慶応義塾会社」「慶応義塾同社」となっていたことは、そのことを示しているだろう。ただし、それは単に西洋のものを日本に移したというものではなかった。福沢自身の思想や時代条件が絡みあって生み出されてくるのである。

今回みたように、後の交詢社へとつながる福沢の自発的結社への注目の原点は、彼の渡欧経験にあった。そこで得た関心は、まず『西洋事情初編』として世に出された。次回は、事業として生み出された慶応義塾の創業についてみてみよう。

   
 
 
 
 
       
           

他ジャンル

ジャンルごとに「ウェブでしか読めない」があります。他のジャンルへはこちらからどうぞ。
ページトップへ
Copyright © 2005-2007 Keio University Press Inc. All rights reserved.