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目次一覧
 
第1回 連載の視座/発会式
 
自発的結社の原点―その(1)
 
自発的結社の原点―その(2)
 
同窓会から交詢社構想へ
 
「知識交換世務諮詢」(ちしきこうかんせいむしじゅん)の登場
 
交詢社「緒言」-専門分化への危機意識
 
社則「緒言」から「交詢社設立之大意」へ
 
「社会結合」と結社像の転換
 
「社会結合」と結社像の転換
 
交詢社設立の中心人物たち―小幡篤次郎2
 
交詢社設立の中心人物たち―馬場辰猪
 
交詢社設立の中心人物たち―馬場辰猪(2)
 
交詢社設立の中心人物たち―馬場辰猪(3)
 
交詢社の初年―『交詢雑誌』
 
『会議弁』と交詢社―演説の時代―
 
第16回 交詢社の2つの意図―国会開設運動と交詢社(その1)
 
 
著者について
    近代日本の中の交詢社  
 
       
     
   

第8回 「社会結合」と結社像の転換

前回までに交詢社「緒言」とそれに付加された「交詢社設立之大意」をみてきた。両者はともに交詢社が目的とする「知識交換」と「世務諮詢」を説明していた。規則に付されたということもあってか、「緒言」は短文ながらも格調高く、分かりにくいところもある。それを「設立之大意」が具体的にかみくだいて説明したといえる。だが、異なる内容もあった。たとえば「設立之大意」で説かれた電信・郵便といった新たな情報手段を駆使した交際のあり方は「緒言」にはない。なかでも最大の相違点は、「設立之大意」が交詢社の目的のみならず、設立の理由を明らかにした点にある。それは、人々の結びつきが消滅しつつあるという時代認識に立ち、新たな「社会結合」が必要とされているという課題意識から生まれたものだった。今回は交詢社設立者たちと同時代の人々の認識もあわせつつ交詢社の設立意図を探ってみたい。

★「社会結合」という課題

前回の最後にも引用したが、「設立之大意」最終段落には、「社会結合」については未だに形をなしておらず、このまま放置しておくと人々の結びつきはいよいよ消滅して、人々の精神的な独立は孤立に性質を変えてしまうに違いないと記されている。

もちろん「社会結合」のあり方に大きな変化をもたらしたのは明治維新である。最終段落冒頭でも、「王政一新廃藩置県の後は、社会旧来の仕組を一変し」たと記されている。明治維新にはじまった社会変動の大きさは今日の私たちにはなかなか想像できない。激動の時代をつぶさに目撃した福沢の証言をみてみよう。

西南戦争直後に書かれた『明治十年丁丑公論』(ていちゅうこうろん)という作品の中に幕末維新の様子をのべた部分がある。本書は、西南戦争で明治政府への反乱を起こした西郷隆盛を擁護しようとして福沢が筆をとったもので、彼によれば(西郷は)生涯に2度政府の転覆を企てたことがあるという。その1度目は倒幕、2度目は西南戦争である。以下の文章は、その1度目の倒幕のなかで多くの幕臣たちがなめた辛酸の度合いを福沢が記したものである。

「(西郷の)初度の転覆においては最も惨酷を極め、第一政府の主人を廃して之を幽閉し、故典旧物を残毀(ざんき:そこないこわす)して毫も愛惜する所なく、その官員を放逐し、その臣下を凌辱し、その官位を剥ぎ、その食禄を奪ひ、兄弟妻子を離散せしめてその流浪飢寒を顧(かえり)みず、数万の幕臣は静岡に溝瀆(こうとく:自ら首を締め、溝に陥って死ぬ)に縊(くび)るゝ者あり、東京に路傍に乞食する者あり、家屋敷は召上げられて半ば王臣の安居となり、墳墓は荒廃して忽ち狐狸の巣窟となり、惨然たる風景又見るに堪へず。啻(ただ)に幕臣の難渋のみならず、東北の諸藩にて所謂方向を誤りたるものは、その主従の艱苦も亦云ふに忍びざるもの多し」(『丁丑公論』)

幕臣や幕府側についた藩の武士にとってじつに厳しい現実があった。さらに、維新によって成立した明治政府が近代化断行のために、廃藩置県、徴兵令、秩禄処分などを行った。幕末維新の政治変動によって旧幕臣にかぎらず武士層のほぼ全体が特権を奪われると同時に捨てられたといってよい状況におかれていく。士族たちの不満は鬱積し、ついに明治7年、反乱が起きる。明治10年の西南戦争において武力衝突の頂点にして最後を迎える。このように短期間に社会構造は劇的に変化していた。

交詢社設立が構想された明治12年は西郷の没後であり、士族の不満が国会開設を求める自由民権運動に向かい、それに豪農をはじめとする民権結社の運動が結びつきつつあった頃であった。激変する時代の中で、人々が新たな結合のあり方、社会秩序のあり方を模索していた。たとえば板垣退助ら愛国社の「再興趣意書」(明治11年)には交詢社に先駆けて同様の問題意識が記されている(文意を現代語で要約した)。

人は互に交際し、親愛し合うことなしに人生をやすらかでしあわせに過ごすことはできない。現在我国の一大改革に際し、封建を廃して郡県制として、旧法や古い制度を廃棄したといってもこれに代わる規則は完備されていない。封建の時代には諸侯が各々領地を構え、そこでは人々がまじわり親しみ、心の方向の帰着するところを知っていた。廃藩置県におよんで藩屏の結合はなくなって人々は方向を失い、互いの心はいよいよ疎隔して帰着するところがわからない状態に至っている。(「愛国社再興趣意書」)

★「交詢社発会之演説」

「設立之大意」がのべた「社会結合」とはどのようなものだったのだろうか。それを知る手がかりとなる福沢の演説がある。明治13年1月25日、交詢社発会式当日の演説である。明治31年以降25年間慶応義塾の塾長をつとめた鎌田栄吉が「非常に面白い」ものだったと回想している。

「(発会演説の)その前に交詢社設立の由来とかいう名文が出ましたが、その趣意書とは違ったことを述べられました」(鎌田栄吉「自伝を語る」)

面白いはずであった。ここで言われている「交詢社設立の由来とかいう名文」は「交詢社設立之大意」と推察されるが、「設立之大意」最終段落でのべられていた「社会結合」の意味、それが危機に瀕していることが以下のように分かりやすく説明されていたからである。(現代語で文意を要約した。文意を明確にするために意訳した部分がある)

交詢社設立の速やかさ、社員の多さは「創立メンバーの才学勉強、誠意徳望によるもの」であると同時に「社会の時勢」に乗じたからであることから福沢は説きはじめる。封建の時代には300諸侯がひとつの藩を領し、藩士・領民、あたかも今日の「一会社」のように人心が結合されていた。藩は有形無形すべてのことが1箇所に集まるところであり、知識交換世務諮詢の中心というべき存在であったことを福沢は説いてゆく。京都、大阪、江戸の3都には各藩の支社である藩邸があり、人物の行き来、手紙のやりとり、金銭の為替、物品売買など万事は藩を通じて行われていた。また、3都には藩邸が集まっているので情報のやりとりをしやすく、各藩は藩邸という支社を通じて全国の状況を把握できた。

藩は新聞や探偵業、商売や運送を司るわけでもなく、知者や学者が寄り集まる場所でもない。ただ多くの知識が集まり、それを散じる中心にすぎない。それが人々の便利を生み出せた理由を福沢は銀行にたとえて説明する。銀行の人々は必ずしも富豪ではない。だが、多くの資本を集めてこれを散ずれば富豪と同じ便利を提供することができる。このように藩が知識集散の中心となり、それが習慣となってゆけば藩は世の中の信任を得る。藩は属する人に信用を与え、藩の名義を帯びる人の言行は信用の厚いものになってゆく。そのことでさらに知識交換も行われやすくなってゆき、人々は様々な便利を享受できるようになるという循環を福沢は説明する。

だが、廃藩置県によってこのような機能を果していた藩はなくなってしまった。それは知識集散の300の中心を失ったことにほかならない。交詢社はその代わりをつとめるもので、今後を想像すれば「全国人民の為に知識集散の一中心」となるだろうと福沢は述べていた。(「交詢社発会演説」)

★「交詢社設立之大意」最終段落-結社像の転換

以上のように、交詢社が構想された時代は人々がよるべない状態におかれており、そこから脱け出るための模索が試みられていた時代であったといえるだろう。そうだからこそ、従来の結社とは異なるものを創立すべきだ、ということになったようである。「設立之大意」最終段落は次のようにのべている。(現代語に要約)

 現在の世に社を結ぶものは少なくない。ただ、それらの多くは商売・工業・文学技芸・救助・保護を目的とする一科一事の専門結社である。交詢社はそうではない。人間にとって最も緊要である社会結合を達するためのものであり、社が体をなすに従って社中でまた社を結び、次第に専門に従事しようとする者である。「一科一事の専門」結社から「社会結合」の結社へ、という訳である。

ここで想起されるのは本連載第2回でふれた、福沢が渡欧先で注目した「商人会社」「学校」「病院」といった自発的結社である。それらは「一科一事の専門」結社であった。彼が実地に移した慶応義塾という学塾も同様である。上記の「設立之大意」最終段落の内容をみると、同じ結社という事業であっても交詢社はそれまでとは異なる結社観に基づいていたということになる。それが福沢の中でどこまで明確に自覚されていたのかについては必ずしも明らかではない。そこには福沢以外の交詢社創立当事者たちの存在とその個性も反映されていたようにも思われる。次回以降では彼らを視野にいれて考えてみたい。

★交詢社幹事―小幡篤次郎

小幡の名は第6回をはじめ、たびたび登場したから、ご記憶の方もおられるだろう。交詢社を実質的に切り盛りしたのは彼であった。第4回、第5回で紹介した交詢社の初期構想期における福沢書簡をみても、小幡を中心に構想が進められたことがうかがえる。

交詢社発会式では彼が創立事務委員の代表として事務報告を行い、翌々日の第1回常議員会で福沢が常議員長に選ばれると、彼は幹事に小幡を指名した。以来、福沢が亡くなる明治34年まで長きにわたって彼は幹事を務めることになる。その間、交詢社の運営は彼を中心に行われ、毎年春に開催された大会では、司会および庶務会計報告は小幡自らが行った。前回ふれた鎌田栄吉は「交詢社は小幡さんが主任になってやっておられました」と回想している。小幡抜きに交詢社は語れないようである。

★生まれ

彼は1842年(天保13年)、中津藩士の家に生まれた。福沢と同郷で8歳年少である。福沢が自身の体験から身分制度について記した「旧藩情」によれば、幕末の中津藩には約1500人の藩士がおり、大きく上士と下士に分かれていた。人数の割合は3分の1が上士であったという。武士といっても両者にはずいぶんな違いがあったようで、上士は藩の要職への道が開かれ、生活に困ることがない。一方、下士は上士に平伏しなければならず、両者間の言葉づかいも異なる。彼らは経済的にも貧しい暮らしを強いられ、両身分間の婚姻も認められていなかった。

ところで、小幡の生まれた家は供番といい、他藩にいうところの馬廻格で郡奉行などの地位にも就くことのできる上士の家系であった。下士の家に生まれた福沢とは異なり、石高も200石(福沢の家は13石)と小幡は不自由のないめぐまれた家庭に生まれたといえる。

だが、ひとつ重要な点があった。彼が血筋上長男だったものの、家系上次男であった事実である。彼が生まれる前に実父が若くして隠居処分を受け、その時分に子がなかったために養子をとって小幡家を相続させていた。したがって、小幡は、その後の小幡家の血統上長男として生を受けながらも生家の跡を継ぐ資格はなく、他家の養子となるのでなければ部屋住み(次男以下で分家・独立せず親や兄の家に在る者)をよぎなくされる身であった。この点、福沢同様に武士の制度に対して矛盾を感じざるをえない境遇にあったといえる。事実、彼が「嫡子に限り家督相続を為すの弊を論ず」(明治8年『民間雑誌』第十一編)という論説を発表し、兄弟姉妹間の均分相続を主張したことは、そのような境遇に由来しているだろう。

★福沢塾へ

元治元年(1864年)、福沢が自らの塾(慶応義塾以前の福沢塾)の人材発掘を兼ねて中津に帰省してきた。22歳の小幡は同郷の5人の青年(実弟甚三郎も含む)と共に福沢塾での洋学修行に勧誘され、江戸へ出ることになる。当時の福沢塾は幕末の世相を反映して、政情視察に奔走する塾生もいるなど乱雑な雰囲気があったというが、小幡が入塾すると、彼の生来の穏やかで重厚な人柄が塾の空気を落ち着かせたという。勉学においても、一からの洋学修行だったにもかかわらず、すぐに頭角を現した。入塾2年後には塾頭になり、弟甚三郎と共に幕府開成所の助教にも任ぜられ、慶応4年(1868年)には我国初の『英文熟語集』を出版した。慶応義塾創業の宣言書「慶応義塾之記」は、文案小幡、福沢加筆といわれる(『慶応義塾五十年史』および『慶応義塾百年史』)ように、慶応義塾における小幡の存在は学問、実務の両面において福沢のよき共同者というべき存在となっていった。

同時代の人々の記録でも、福沢と小幡とが強い信頼関係にあったことが証言されている。明治時代に人物評論で名をはせた鳥谷部春汀は、福沢が小幡に門下生としてではなく友人として接し、2人は異体同心の関係であったことを述べている。才気煥発の福沢と温厚篤実の小幡の2人のコンビネーションが草創期の慶應義塾を創り出したといえる。福沢と共に啓蒙書を世に送り出した小幡は、同時代においては一級の知識人として広く知られた存在であった。例えば明治初年についての田中正造の回想の中でも「尺(尺振八―筆者注)、中村(中村正直)、福沢、小幡等の翻訳書大に世に行はれんとす」と記されている。尺振八と中村正直は共に慶應義塾と並ぶ私塾、共立学舎、同人社を開いた人物で、中村の『西国立志編』は福沢『西洋事情』、内田正雄『與地史略』と並んで明治の3大ベストセラーである。小幡はそのような人物たちと並び称された時代を代表する知識人であった。

★明治会堂での交詢社第一紀年会演説―結合、結社、政党

小幡が草創期の交詢社をどのように考えていたのかを知る手がかりとなるものに、「交詢社第一紀年会報告」と題された演説がある(『交詢雑誌』37号)。設立1周年を祝って明治14年1月25日に開催された集会で、庶務会計報告と共に彼が期待する交詢社像に言及しているのは一考の価値があるだろう。以下にその内容を簡潔に紹介しよう。

冒頭、小幡は社員数の微減に触れ、付和雷同して入社した人々が去ったためと説明した後、核心の部分に入る。現在の我国で「結社協同」という行為の難しさをのべ、その理由を「結合」の歴史的なあり方に基づいて説明しようとする。大昔の時代、結合の度合いが最も強固だったのは種族、宗教、将卒の結合であった。これらの結合は現在に至るまでに大きく減少し、文明諸国ではわずかに存在するのみであるが、なかでも中世以後で、最も団結力のあるものは政党であるという。政党は1国の文明が進むに応じて勢力を増し、国民を挙げて甲党乙党のいずれかに属さなければ世に立つことができないというように、つまり「政党外に人なし」というほどの「大団結大勢力」に成長したものである。その結果、人間万事皆結社をお¬こさなければ勢力の乏しさを覚え、習い性となって、大は政党より、小は民間の些細なことに至るまで皆団結協同するようになっている。

これに対して、我国には「結社の本源である政党」はなく、種族・宗教・将卒の結合は衰えているから、結社協同のためには最も障害の多い時代といわざるをえない。このような時代にあって交詢社の結合の隆盛具合をみると、我国の文明も政党を出す日も遠くはないだろう。政党ができて結社の習慣が世におきれば、交詢社もいよいよ盛んになるに違いない。

上記の演説の主張から分かることは、小幡の基本課題であり、キーワードが「結合」であること、その実現手段として「結社協同」が考えられていることである。さらに、結社観の基礎が「結社の本源である政党」にあるとされている。この捉え方が何に由来するものかについて小幡は語っていない。しかし、それを解く手がかりの1つは、彼が持続的に関心をもち続けたフランスの思想家アレクシス・ド・トクヴィル(1805-59年)の名著『アメリカのデモクラシー』に求めることができそうである。それについては次回に。

【出典】

・交詢社と小幡についての鎌田栄吉の回想については

 

『鎌田栄吉全集』第1巻、199頁

・「旧藩情」は『福沢諭吉全集』、第7巻所収

・小幡「嫡子に限り家督相続を為すの幣を論ず」は改版『明治文化全集』第5巻(明治文化研究会、日本評論新社、
  1969年)所収
・小幡についての鳥谷部春汀の人物評論については
  「物故の三名士」『春汀全集』(博文館、1909年)第3巻所収
・田中正造の回想については
  「田中正造昔話」『田中正造全集』(岩波書店、1977年)、第1巻、89頁
   
 
 
 
 
 
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