近代日本の中の交詢社  
 
       
         
   

第8回 「社会結合」と結社像の転換

前回までに交詢社「緒言」とそれに付加された「交詢社設立之大意」をみてきた。両者はともに交詢社が目的とする「知識交換」と「世務諮詢」を説明していた。規則に付されたということもあってか、「緒言」は短文ながらも格調高く、分かりにくいところがあった。それを「設立之大意」が具体的にかみくだいて説明したといえる。だが、異なる内容もあった。たとえば「設立之大意」で説かれた電信・郵便といった新たな情報手段を駆使した交際のあり方は「緒言」にはない。なかでも最大の相違点は、「設立之大意」が交詢社の目的のみならず、設立の理由を明らかにした点にある。それは、人々の結びつきが消滅しつつあるという時代認識に立ち、新たな「社会結合」が必要とされているという課題意識から生まれたものだった。今回は交詢社設立者たちと同時代の人々の認識もあわせつつ交詢社の設立意図を探ってみたい。

★「社会結合」という課題

前回の最後にも引用したが、「設立之大意」最終段落には、「社会結合」については未だに形をなしておらず、このまま放置しておくと人々の結びつきはいよいよ消滅して、人々の精神的な独立は孤立に性質を変えてしまうに違いないと記されている。

もちろん「社会結合」のあり方に大きな変化をもたらしたのは明治維新である。最終段落冒頭でも、「王政一新廃藩置県の後は、社会旧来の仕組を一変し」たと記されている。明治維新にはじまった社会変動の大きさは今日の私たちにはなかなか想像できない。激動の時代をつぶさに目撃した福沢の証言をみてみよう。

西南戦争直後に書かれた『明治十年丁丑公論』(ていちゅうこうろん)という作品の中に幕末維新の様子をのべた部分がある。西南戦争で明治政府への反乱を起こした西郷隆盛を擁護しようとして福沢が筆をとったもので、彼によれば(西郷は)生涯に2度政府の転覆を企てたことがあるという。その1度目は倒幕、2度目は西南戦争である。以下の文章は、その1度目の倒幕のなかで多くの幕臣たちがなめた辛酸の度合いを福沢が記したものである。

「(西郷の)初度の転覆においては最も惨酷を極め、第一政府の主人を廃して之を幽閉し、故典旧物を残毀(ざんき:そこないこわす)して毫も愛惜する所なく、その官員を放逐し、その臣下を凌辱し、その官位を剥ぎ、その食禄を奪ひ、兄弟妻子を離散せしめてその流浪飢寒を顧(かえり)みず、数万の幕臣は静岡に溝瀆(こうとく:自ら首を締め、溝に陥って死ぬ)に縊(くび)るゝ者あり、東京に路傍に乞食する者あり、家屋敷は召上げられて半ば王臣の安居となり、墳墓は荒廃して忽ち狐狸の巣窟となり、惨然たる風景又見るに堪へず。啻(ただ)に幕臣の難渋のみならず、東北の諸藩にて所謂方向を誤りたるものは、その主従の艱苦も亦云ふに忍びざるもの多し」(『丁丑公論』)

幕臣や幕府側についた藩の武士にとってじつに厳しい現実があった。さらに、維新によって成立した明治政府が近代化断行のために、廃藩置県、徴兵令、秩禄処分などを行った。幕末維新の政治変動によって旧幕臣にかぎらず武士層のほぼ全体が特権を奪われると同時に捨てられたといってよい状況におかれていく。士族たちの不満は鬱積し、ついに明治7年、反乱が起きる。明治10年の西南戦争において武力衝突の頂点にして最後を迎える。このように短期間に社会構造は劇的に変化していた。

交詢社設立が構想された明治12年は西郷の没後であり、士族の不満が国会開設を求める自由民権運動に向かい、それに豪農をはじめとする民権結社の運動が結びつきつつあった頃であった。激変する時代の中で、人々が新たな結合のあり方、社会秩序のあり方を模索していた。たとえば板垣退助ら愛国社の「再興趣意書」(明治11年)には交詢社に先駆けて同様の問題意識が記されている(文意を現代語で要約した)。

人は互に交際し、親愛し合うことなしに人生をやすらかでしあわせに過ごすことはできない。現在我国の一大改革に際し、封建を廃して郡県制として、旧法や古い制度を廃棄したといってもこれに代わる規則は完備されていない。封建の時代には諸侯が各々領地を構え、そこでは人々がまじわり親しみ、心の方向の帰着するところを知っていた。廃藩置県におよんで藩屏の結合はなくなって人々は方向を失い、互いの心はいよいよ疎隔して帰着するところがわからない状態に至っている。(「愛国社再興趣意書」)

★「交詢社発会之演説」

「設立之大意」がのべた「社会結合」とはどのようなものだったのだろうか。それを知る手がかりとなる福沢の演説がある。明治13年1月25日、交詢社発会式当日の演説である。明治31年以降25年間慶応義塾の塾長をつとめた鎌田栄吉が「非常に面白い」ものだったと回想している。

「(発会演説の)その前に交詢社設立の由来とかいう名文が出ましたが、その趣意書とは違ったことを述べられました」(鎌田栄吉「自伝を語る」)

面白いはずであった。ここで言われている「交詢社設立の由来とかいう名文」は「交詢社設立之大意」と推察されるが、「設立之大意」最終段落でのべられていた「社会結合」の意味、それが危機に瀕していることが以下のように分かりやすく説明されていたからである。(現代語で文意を要約した。文意を明確にするために意訳した部分がある)

交詢社設立の速やかさ、社員の多さは「創立メンバーの才学勉強、誠意徳望によるもの」であると同時に「社会の時勢」に乗じたからであることから福沢は説きはじめる。封建の時代には300諸侯がひとつの藩を領し、藩士・領民、あたかも今日の「一会社」のように人心が結合されていた。藩は有形無形すべてのことが1箇所に集まるところであり、知識交換世務諮詢の中心というべき存在であったことを福沢は説いてゆく。京都、大阪、江戸の3都には各藩の支社である藩邸があり、人物の行き来、手紙のやりとり、金銭の為替、物品売買など万事は藩を通じて行われていた。また、3都には藩邸が集まっているので情報のやりとりをしやすく、各藩は藩邸という支社を通じて全国の状況を把握できた。

藩は新聞や探偵業、商売や運送を司るわけでもなく、知者や学者が寄り集まる場所でもない。ただ多くの知識が集まり、それを散じる中心にすぎない。それが人々の便利を生み出せた理由を福沢は銀行にたとえて説明する。銀行の人々は必ずしも富豪ではない。だが、多くの資本を集めてこれを散ずれば富豪と同じ便利を提供することができる。このように藩が知識集散の中心となり、それが習慣となってゆけば藩は世の中の信任を得る。藩は属する人に信用を与え、藩の名義を帯びる人の言行は信用の厚いものになってゆく。そのことでさらに知識交換も行われやすくなってゆき、人々は様々な便利を享受できるようになるという循環を福沢は説明する。

だが、廃藩置県によってこのような機能を果していた藩はなくなってしまった。それは知識集散の300の中心を失ったことにほかならない。交詢社はその代わりをつとめるもので、今後を想像すれば「全国人民の為に知識集散の一中心」となるだろうと福沢は述べていた。(「交詢社発会演説」)

★「交詢社設立之大意」最終段落-結社像の転換

以上のように、交詢社が構想された時代は人々がよるべない状態におかれており、そこから脱け出るための模索が試みられていた時代であったといえるだろう。そうだからこそ、従来の結社とは異なるものを創立すべきだ、ということになったようである。「設立之大意」最終段落は次のようにのべている。(現代語に要約)

 現在の世に社を結ぶものは少なくない。ただ、それらの多くは商売・工業・文学技芸・救助・保護を目的とする一科一事の専門結社である。交詢社はそうではない。人間にとって最も緊要である社会結合を達するためのものであり、社が体をなすに従って社中でまた社を結び、次第に専門に従事しようとする者である。「一科一事の専門」結社から「社会結合」の結社へ、という訳である。

ここで想起されるのは本連載第2回でふれた、福沢が渡欧先で注目した「商人会社」「学校」「病院」といった自発的結社である。それらは「一科一事の専門」結社であった。彼が実地に移した慶応義塾という学塾も同様である。上記の「設立之大意」最終段落の内容をみると、同じ結社という事業であっても交詢社はそれまでとは異なる結社観に基づいていたということになる。それが福沢の中でどこまで明確に自覚されていたのかについては必ずしも明らかではない。そこには福沢以外の交詢社創立当事者たちの存在とその個性も反映されていたようにも思われる。次回以降では彼らを視野にいれて考えてみたい。

【出典】

『丁丑公論』(『福沢諭吉全集』第6巻、543-544頁)

 

「愛国社再興趣意書」(板垣退助監修、遠山茂樹、佐藤誠郎校訂『自由党史』上、岩波文庫、第12刷、

  1976年、222-223頁)
鎌田栄吉「自伝を語る」(『鎌田栄吉全集』、鎌田栄吉先生伝記及全集刊行会、昭和10年、第1巻、197頁)
 
「交詢社発会之演説」(『交詢社百年史』、54頁-56頁)
 
   
   
   
 
 
 
   
       
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