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オリジナル連載

時事新報史

第4回:創刊当初の評判

 

























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  『時事新報』(以下『時事』と呼ぶ)は順調に部数を伸ばしていった。当時1万2、3000部を発行し、大新聞の中で群を抜いていた『東京日日新聞』(以下『東日』)は、『時事』登場によって、たちまち7、8000部まで減少したともいわれている。  


 しかし部数は必ずしも評価とは結びつかない。現に『東日』は、「御用新聞」という、すでにマイナスでしかないレッテルを甘受していた。それでも多くの読者を有していたのは、新聞界に『東日』社主・福地源一郎(桜痴)の文章力に及ぶ有力者がいなかったからである。他紙の記者は自由民権運動の闘士ばかりで、書生と紙一重であった。慶応義塾塾生や義塾出身の若き民権家も、多くの新聞に有力記者として、何人かは主筆(論説委員長)として筆をふるっていた時代である。


 『時事』の場合も、福沢の新聞として一目置かれていたものの、それが支持に直結していたわけではない。いな、むしろ創刊後しばらくの間『時事』に向けられたのは、多くの困惑と疑問の声であった。

 たとえばここに、上野から高崎行きの夜馬車で乗り合わせた数人の男たちがいる。薄暗い車内、官吏風の男が持っていた『東日』の話題から、新聞各紙の品評が始まった。『東京横浜毎日新聞』『郵便報知新聞』『朝野新聞』などの評判が語られたのち、書生風の男がこう切り出す。 


福澤諭吉

「イヤ何といっても時事新報は面白いぜ、ただに官民調和と号して、租税を増加しろの、海陸軍を盛んにしろのと、やみくも奇論を担ぎ出して新聞を売らむとするには、閉口極まるけれど、文章は例の福沢流で柔らかにやるし、漫言という滑稽文もあって中々面白い。殊に外務省にはソレ言うにいわれぬ訳合いもあって、外交上の種は人の知らぬ事までよく書き立てやす。朝鮮の一条が起こった時なんぞも、時事新報は、韓地の事状にくわしい通信者を置かれた位の大景気、当節では報知も毎日も売高は及ばぬと言う世評だ、ナント福沢氏は豪勢な人物サ。」


これを聞いていた戸長風の男。


「いやいや福沢さんだって何もその様にえらい人でも有りますまい。……当節は政府の提灯(ちょうちん)を持って、海陸軍拡張しろの、租税は多くとれのト言わるるは、実もってその意を得ぬ事で、われわれは一向に信用が出来ぬ。」


「ナニ福沢さんはその様なむずかしい事はお嫌いで、銭もうけばかり心掛けておらるるのだ。」


とは、商人風の男。


 明治16年出版の『明治新聞奇談』という本に出てくる『時事』の評判である。福沢流の読みやすい文章や紙上の様々な企画は評価が高い。報道に強いという点でも信用されている。売り上げも好調。しかし、みな一様に社説に対しては納得がいかない様子で、しょせん政府の提灯持ちだとか、無原則な金儲け主義の手段だとかと酷評している。


 この本に限ったことではない。少々長文にわたるが、当時の福沢・時事批判記事を2つ紹介してみよう。


 「今それ該新報〔時事新報〕の本尊と知られたる福沢翁は、最早決して昔日の福沢翁にあらず。……今日はすでに老耄(ろうもう)して、何の糞役にも立つものにあらず。新報の発刊以来、社説として紙上に載するもの幾十篇、大率みな翁が手稿に出ずるがごとくなれども、その見るべきもの、果たして幾ばくかある。その学術または社会上にわたるもののごときは、さすがは年の功だけありて、時に旨きところなきにあらざれども、政治上の一段に至っては、ほとんど絶えて取るところなしと云うも可なり。その官民調和論などと云うがごときは、翁が得意の持論に似たれども、こは五、六年前にあって唱うべし。……今日に当たり、かかる論を主唱するは、陳腐もまた甚だしきものにあらずや。……翁今なお天上天下唯我独尊をもって気取ると雖も、もはや改新自由の民を説法するの力なく、よしや説法するも、また決して一人の信ずる者あるなし。」(『扶桑新誌』、明治15年9月1日付)

次は新聞を相撲にたとえた記事から。


「イヤー旨く組み合わせを付けたぜ。東の方が民権で、西の方が官権だ。……西の方で大関が日日新聞、……次がオヤオヤ行司がにわかに力士になったぜ。ふんどしかつぎが幕の内になることは昔から聞いてるが、行司が力士になったのはこのたびが初めてだ。……この間まで行司だ行司だと麦飯屋の看板のようにすましておったジジさんも、年に似合わぬ元気を出し、行司から力士とは、これまでに三田(みた)ことのない面白おかしい相撲が出来るだろう。しかしあのジジさんは、中々抜け目のない人だから、何でも世の中は喧嘩せぬが宜しい、民権だの官権だのと意気地を張ったところが仕方がない、と了見を極め、それから行司にはなったものの、されば木戸を打って相撲を始めようとすると、行司と力士とは実入りが違い、懐合い算用通り行かぬところから、にわかに早変わりの力士となって、官権新聞に入り込んだのだろう。」(『日の出新聞』、明治15年9月13日付)


 ここに取り上げた記事は、特に福沢に批判的であった新聞雑誌のものであるが、多かれ少なかれ福沢の主張は、自分だけが悟っていると言わんばかりで偉そうに映っていたらしく、この頃『時事』の社説子としての福沢に付けられたあだ名は「三田天狗」(みたてんぐ)であったという。私人間での名誉毀損とか侮辱だとかという感覚が今よりよっぽどおおらかで、かつ表現は露骨であった当時において、前述の『日の出新聞』(明治15年8月11日付)などは、福沢のことをこう表現した。


「法螺(ほら)を福沢、虚(うそ)を諭吉(ゆうきち)、馬鹿とも狂痴とも言えばいえ、知る人ぞ知る、己の心群がる雀のチュウチュウいうも、何ぞ鶴の心意気を知らんと、西洋学の悟道(さとり)を得て、鼻高々と鞍馬山増長坊と開化の巨擘(おやだま)、三田の隊長福沢諭吉大先生」


 結局のところ、批判の的は『時事』の社説での主張であった。ではこれほど集中砲火を浴びている「官民調和論」とはなんぞや?



資料
高瀬巳之吉『明治新聞奇談』(明治16年)、『明治文化全集』第17巻新聞編所収。
伊藤正雄『福沢諭吉論考』(昭和44年、吉川弘文館)

 
著者プロフィール:都倉武之(とくら・たけゆき)
1979年生まれ。2007年慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。 現在、慶應義塾福沢研究センター専任講師。
専攻は近代日本政治史。 主要業績に、「明治十三年・愛知県明大寺村天主教徒自葬事件」『近代日本研究』18号(2002年3月)、『福沢手帖』115号(2002年12月)、「資料 機密探偵報告書」『福沢諭吉年鑑』31巻(2004年12月)、「愛知県におけるキリスト教排撃運動と福沢諭吉」(一)・(二)『東海近代史研究』25・26巻(2004年3月・2005年3月)、「日清戦争軍資醵集運動と福沢諭吉」『戦前日本の政治と市民意識』(慶應義塾大学出版会、2005年)、「福沢諭吉の朝鮮問題」(『福沢諭吉の思想と近代化構想』、慶應義塾大学出版会、2008年)など。

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