平成七(一九九五)年に野茂英雄がメジャーリーグデビューしてから二十年が過ぎ、日本人選手がアメリカに渡って活躍することが珍しくない時代になった。
今、二刀流・大谷翔平選手の動向が注目されている。しかし、百年以上も前の大正二(一九一三)年に、シカゴ・ホワイトソックス対ニューヨーク・ジャイアンツというメジャー同士の試合が日本で、しかも三田の地で行われたことはほとんど知られていない。舞台となったのは、慶應義塾三田綱町グラウンド。今回は知られざる日米野球史を紐解くことにする。
両チームは、世界周遊野球団としてバンクーバーを発って十六日間の船旅の後、十二月五日に横浜へ到着した。翌六日、彼らは三田綱町グラウンドに立つ。
慶應義塾長・鎌田栄吉が始球式のボールを投げ、ホワイトソックス対ジャイアンツの試合が開始された。結果は九対四でホワイトソックスが勝利をおさめる。
翌日、慶應義塾は両チーム連合軍と相まみえた。当時日本一と言われたエース菅瀬一馬をマウンドに送った義塾であったが、十四安打を浴び、メジャーとの記念すべき初対決は十六対三の大敗となった。
この日はダブルヘッダーで、第二試合は再びホワイトソックス対ジャイアンツ。十二対九でホワイトソックスの連勝となったが、この試合でジャイアンツの一塁手フレッド・マークルがレフトの垣根を越え、さらにそこを流れている古川をも越える場外ホームランを放った。翌日の新聞では、「左翼の垣根を越へて球は芝から麻布まで届いた」(『東京日日新聞』)と報道されている。この時代の東京は十五区制。綱町グラウンドは芝区にあり、古川を区境とした向こう側は麻布区であった(第二次大戦後、芝、麻布、赤坂の三区が合併して現在の港区となる)。
応援の過熱から早慶戦が明治三十九(一九〇六)年以降中止されたままの時期であったが、本場メジャーリーグのプレーを見るため、そして慶應の応援のために、早稲田をはじめ各大学の野球部員が三田に駆けつけ、食い入るようにグラウンドを見つめていたという。
三十年もの長きにわたってジャイアンツを指揮した名監督ジョン・マグローは、日本投手のコントロールの良さに驚き、「いつの日か日本の街頭に『本日、日米野球戦』という広告が出る日が来るだろう」と語った。また、この来日でメジャーの選手から直接コーチを受けた義塾野球部は近代野球の扉を大きく開き、一段と飛躍していくことになる。
明治三十六(一九〇三)年の早稲田からの挑戦によって幕が開いた第一回早慶戦の場となった三田綱町グラウンドは、日本野球国際化の原点となる舞台でもあった。メジャーへの挑戦、それは三田の地でスタートしたのである。
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