慶應義塾の機関誌『三田評論』は明治三十一(一八九八)年に、『慶應義塾學報』として創刊された。単なる学園だよりを脱しようと『三田評論』と改題したのは、大正四年の二一〇号からである。改題にあたっては、『三田公論』『独立公論』『福澤思潮』らの候補があったそうだが、最終的には以前の学生雑誌のタイトルが票を集めた。元の学生雑誌はきわめて抗争的に塾の行政批判をし、板倉卓造、小山完吾、沢木四方吉、高橋誠一郎等のちの論客たちがいたようだ。
そして『三田評論』はユニークな雑誌として号を重ね、関東大震災で印刷所が倒壊しての休刊や戦争による八年の中断はあったものの継続刊行され、戦後は昭和二十六(一九五一)年に復刊を果たした。
当時は戦後の混乱もやや収まったところで、本格的に復興に向け資金募集キャンペーンが開始された。昭和二十八年には戦後初めての塾員名簿が四万二千名を掲載して発刊されたが、これもこうしたキャンペーンの成果であろう。その後本誌は、六〇〇号、八〇年、一〇〇年と節目を越えてきている。
連載のコーナーは、昭和六十一年から各界の塾員訪問記Cogito がスタート。これはラテン語でわれ思う≠ニいう意味。翌々年にはErgo sum(ゆえにわれあり)という今の演説館のようなコーナーができた。あわせるとわれ思う。ゆえにわれあり≠ニいうデカルトの言葉となる。当時の編集委員のこだわりだろう。いずれも一〇〇〇号でリニューアルしている。
その他本誌は少しずつリニューアルを重ね、たとえば、両観音開きの目次も一〇〇〇号を機に廃止された。口絵写真が定番になったのは、昭和四十年代からだが、当時はカメラ好きの教職員の手による写真が多かった。たった一、二ページだが時代を語る写真が多い。
一九九八年三月号で一〇〇〇号を数え、ちょうど創刊一〇〇年とも重なったため、四月二十三日の開校記念日にパレスホテルにおいて、記念式典と祝賀会を催した。永年、表紙絵に、カットに、ヒトコマ漫画に、写真で、速記で、と貢献してくださった藤城清治君、阿部愼蔵君、ヒサクニヒコ君、畔田藤治君、小島二三子君のほか、活字を拾う時代から携わった戸根木印刷株式会社にも表彰状が授与された。他方、招待者には創刊号の復刻版が配布された。また、日を改めて畔田君の写真展を新宿高野ギャラリーで開催し好評を得た。
義塾を伝える機関誌としてだけでなく、義塾の幅広い人脈によって成り立つ多岐に渡る記事、独自の切り口での特集など、義塾の個性にこだわりつつも社会評論誌としての気概も忘れずに、さらに、ウィットにも富んだ機関誌であり続けることを願いたい。 (広報室 石黒敦子)
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