「塾生皆泳」という言葉を聞くと、「それ何?」という塾生・塾員と、「五〇m完泳できないと、夏にプールで集中授業を受けさせられたよなぁ」と懐かしがる塾員に二分されると思う。
今回は、「塾生皆泳」の歴史をひも解いてみたい。
慶應義塾の体育教育の理念は、福澤先生の「まず獣身を成して而して後に人心を養う」という言葉に尽きると思われる。
体育会水泳部が創立されたのは一九〇二年だが、それ以前も鎌倉や葉山の海で、塾生による水泳は行われていた。一九三〇年には三田・綱町に二五mのプールが竣工している。
「塾生皆泳」が活字として残っているのは、『三田評論』一九三九年十月号。「第三十七回葉山水泳部報告」と題された文章に掲載されている。同年当時の小泉信三塾長にお願いして、葉山水泳部パンフレットに書いて戴いたものとある。その冒頭で「塾生皆泳。これが私の当面の理想である。」とあり、最後に「米国の大学に能く百ヤアドを泳がざる者に学士の称号を許さぬものあるは、決して故なき事ではない。慶應義塾々生よ、皆な泳げ。諸君が大なる善行を為すべき機会は、常に意外に近く諸君の身辺に待つのである。」と結んでいる。
第二次世界大戦後、義塾に女子学生が初めて入学したのは一九四六年。その三年後の教育改革で保健体育科目四単位が必修になっている。義塾は、実技二単位を、週一回通年実施の「基本体育」と夏季または冬季に実施する集中授業「選択体育種目」各一単位と規定した。戦後の荒廃のなか、そのときの体育の授業はどういうものだったのだろう。
日吉で水泳の授業を行うにはプールが必要になる。日吉プールの建設は一九六〇年。その翌年から水泳の授業が始まる。塾生は泳力テストを受け、五〇mを泳ぎ切ることができなかった者は、選択体育種目として必ず水泳を履修しなければならなかった。そこには、自分の身を守るため、そして溺れている人を助けられる力をつけるためという、小泉信三の「塾生皆泳」への熱い思いがあったのである。
時は流れ、一九九一年六月に大学設置基準の大綱化が行われた。臨時教育審議会会長代理から大学審議会会長まで務めて、この改革を進めたのは当時の石川忠雄塾長である。設置基準の改正に伴い、一九九三年度から義塾の多くの学部で保健体育科目は必修科目ではなく選択科目となった。それとともに「塾生皆泳」という言葉は聞かれなくなっていった。しかし、今も幼稚舎の「幼稚舎皆泳」をはじめ、創立一五〇年の二〇〇八年に完成した協生館室内プールで実施されている大学の水泳にも、その精神は生きている。 (体育研究所主事 黒田修生)
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