慶應義塾の機関誌『三田評論』は平成10年3月号で通巻1000号を迎えた。一私学の機関誌として、明治・大正・昭和・平成の4代に亙り、これほど長い生
命を保ち続けたということ自体、きわめて異例のことといわねばなるまい。1000号といっても、長い年月の間にはさまざまな時代の洗礼を受けてきたわけ
で、戦中戦後の紙不足とか言論統制とかによって、休刊を余儀なくされた時期もあり、その歩みは決して平坦なものではなかった。
創刊されたのは明治31年(1898)3月のことで、最初は『慶應義塾學報』という誌名であった。現在の『三田評論』に改題されたのは大正4年1月(第210号)のことである。
この雑誌が創刊された明治31年という年は、慶應義塾の創立から数えて丁度40年目に当たっていた。その間、義塾に学んだ者の総数は1万余名に達し、その
内卒業生は1800名に及ぶに至った。すぐれた思想家であり教育家であるとともに、たぐい稀な新聞人であった福澤先生が、こうした義塾社中を対象とした何
等かのコミュニケーションの必要を感じ、毎月1回発行の機関誌の刊行を思い立ったのは当然のことかも知れない。しかもその前年、明治30年に学制改革に関
する大綱を発表、主力を大学に置くことを決めたことによって、その経済的基礎を固めるために基本金募集に着手したという背景も忘れてはなるまい。いわば
『百年史』が伝えるように、「義塾の主義精神を広く知らせるために企画されたものであるが、他方では義塾の出身者や義塾に理解を寄せる人々との連絡を密接
にするためでもあった」のである。その点では『学士会月報』や『早稲田学報』のような同窓会誌的な側面をもつことも否み得ないが、それと共に佐藤朔元塾長
が指摘されているように、「三田評論は単に塾内の動静を塾員や教職員、学生や父兄に知らせるためだけにあるのではなくて、学問、教育の問題を初めとして、
時宜に適した社会的な、国家的な諸問題を取り上げて」ゆくところに、この雑誌のいま一つの役割があった。創刊80年を記念して昭和55年9月に刊行された
『三田評論総目次』を読むと、単に慶應義塾出身者にとどまらぬ執筆陣の豊富さと、テーマの多彩さに於て、さながら明治以来の時代の縮図をみる想いがする。
その点『三田評論』は一私学の機関誌の枠をこえた大きな足跡を、わが国の文化史に印しているといえよう。
(注)
『三田評論』というのはかつて明治32年2月から41年まで発行された学生による機関誌の誌名であった。しかしこれは41年11月発行の第49号で廃刊
し、以降は学術雑誌『三田学会雑誌』へと発展的に変容したのであったが、この誌名が7年後義塾の正式の機関広報誌名として蘇ったのである。
|