ペットから体内微生物まで 愛と支配のドラマティクス
▼慶應義塾大学の人気講座を書籍化。「飼う」ことを考える。 ▼各分野の第一線で活躍する著名講師陣が執筆。
「生命」の意味を限りなく広く捉えていく「生命の教養学」。 「飼う」というキーワードは、意想外の広がりをもたらす。 今回の「飼う」の各論は、身近なペットと人との関係、養殖という食べ物、そして実験動物から古代ローマやナチズム、そして現代日本の人身売買まで見渡していく。さらに、人体の腸内の微生物の機能(ヒトは、微生物を飼っているのか、微生物に飼われているのか?)をあきらかにし、飼うことの倫理学を中心に置く。
はじめに
「飼う」という言葉を聞くと、まずペットを思いうかべる人が多いだろう。あるいは、ペットでなくても、なんらかの動物を「飼う」ことがイメージされるだろう。 歴史を通じて、人間は、野生の動物を飼い慣らして家畜化し、食糧として、毛皮として、実験動物として、牧羊犬のように他の動物を飼うための相棒として、さらに自らに寄り添ってくれる存在として、そして他にもさまざまなかたちで活用することで自らの「生命」を支えてきた。 そんなことはあたりまえで、とりたてて注目することではないと思うかもしれない。しかし、たとえば、自らの家族の一員として「ペットを飼う」場合と、食肉として供するために「豚を飼う」場合を考えてみよう。あるいは、同じ食用にするのでも「豚を飼う」のと「養殖魚を飼う」のでは、かなり違う世界が広がっているのではないか。 飼われるのは動物に限られない。人も飼われうる。「会社」と「家畜」の合わさった造語である「社畜」という言葉を思いうかべるとよい。あるいはもっと直接的に奴隷を考えてみればよい。また、動物が動物を、時には自らの体内に「飼う」こともある。 それぞれの場合において「飼う」こととはどういうことなのか。同じ「飼う」にしても、だれが何を「飼う」のかで、まったく異なる世界が見えてくる。さまざまな「飼う」世界、「飼う」を通じて見えてくる世界の探索が本書の主題である。
本書の内容をさらに紹介する前に、本書の生い立ちについて述べておこう。本書は慶應義塾大学教養研究センターで開講されている極東証券寄附講座「生命の教養学」の2016年度の講義録である。この講座は2006年以来「生命とは何か、〈生きる〉とはどういうことなのか」という問いから始まる知的探究への誘いとして構想されてきた。この大きな問いの探求にあたって年度ごとに異なるテーマを設定してきたが、2016年度の切り口を「飼う」に定めたのである 。 この講座の特徴は、慶應義塾大学日吉キャンパスに位置する文学部、法学部、経済学部、商学部、理工学部、薬学部、医学部のすべての学生に開かれている点である。それがこの講座における「教養」の定義とつながっている。その定義とは「思考の材料を特定の学問領域に偏ることなく広く求め、さらに各領域の研究成果に充分な敬意を払い、そこから獲得された雑多な材料をもとに新たな知を組織化しようとする態度」というものである。さまざまな学問的関心をもつ受講生が、いわゆる文系・理系といった偽の対立に惑わされず、幅広い領域から「教養」を涵養する場を提供するべく本講座は企画されている。 「生命」の「教養」を涵養するために、2016年度は「飼う」にかかわる広範な領域から講師をお招きした。畜産学、心理学、歴史学、実験動物学、倫理学、微生物学といった学問分野の第一線で活躍しておられる研究者に講師をお引き受け頂いた。さらに企業で養殖技術とそのビジネス化に携わる方、そしてNGOで活動されている方々にご登壇いただいた。本講座史上過去最高の80余名の学生が2016年の4月から7月にかけておこなわれた授業に出席し、毎回の講義後は濃密な質疑が途切れずに続いた。質問の質の高さに講師がおどろくこともしばしばだった。質問にはそれ以前の講義を踏まえたものもあり、別々の講師による講義が網の目状に接続して前述の意味における「教養」が立ち上がる瞬間をたびたび目にすることができたのである。
本書で扱われる内容をもう少し詳しく紹介しよう。 本書の前半では、それぞれ、ペットとペット以外の動物を飼うことについて論じた講義を集めている。「役に立たない動物」であるペットをわざわざ飼うようになった18世紀から20世紀のヨーロッパにおける人と動物の関係の変化とはどういうものか。ペットとの愛着関係はいまどのように活用されているのか。殺処分される猫の状況はどうなっているのか。動物実験を行うためにラットを飼う、食用のために豚を飼う、あるいはチョウザメを新たに養殖するときにどういうことが配慮されているのか。どのような技術的な進歩がうみだされてきたのか。新しいビジネスはどのようにたちあがるのか。ペットにせよ畜産にせよ、動物を飼うことに関してどういう倫理学的な検討が行われてきたのか。 本書の後半では「人間が人間を飼う」現象、また、飼う飼われる側双方の共犯関係を扱う。前者については、古代ローマの奴隷の状況と、現代日本における人身売買の現状が取り上げられる。「飼う」側の人は、「飼われる」側の人とのあいだにどのような切断線をひいてきたのか。現在の日本に生きる私たちにとって無縁の問題だと言えるだろうか。 後者の「共犯関係」については、まずナチス支配下のドイツ人が検討される。最新の歴史学は、人が自由と解放を感じながら自ら進んで服従する場合を示す。それとは別の共犯関係が、私たちが体内に「飼っている」腸内細菌と私たちとの関係に見いだされる。腸内細菌の最新研究は、むしろ腸内細菌が人間を飼っているのかもしれないというのである。そこから、どのようなヴィジョンが見えてくるだろうか。
こうしてさまざまな「飼う」場面を広い視野のなかで見ていくことによって、私たちはほとんどめまいがするような「生命」の有様にふれることになるだろう。ペットを可愛がり犬猫の殺処分を許せないと感じながら、同時に豚を食する。動物のと殺に感じる禁忌は、魚に対してはおぼえない。食用の、あるいは動物実験用の動物を倫理的に扱うこととはどういうことか。 「飼う」世界は一筋縄ではいかない。「飼う」ことについて考えることは、それが必然的に伴う権力と支配の側面に向かいあうことである。それは、また愛をだれにどのように向けるかについて考えることでもある。私たちは、本書において、愛と支配の万華鏡的世界を目の当たりにすることになるだろう。 お忙しいなか、しばしば遠くから講義にかけつけ、さらに講義録の作成にご協力いただいた講師の先生方に深く感謝を申し上げる。本講座と本書の刊行を可能にする寄附をされた極東証券株式会社に厚く御礼を申し上げる。2016年度本講座の企画委員の方々と慶應義塾大学教養研究センターのスタッフに謝意を表する。そして本書の編集にあたられた慶應義塾大学出版会の佐藤聖氏に深謝する。
赤江 雄一
はじめに(赤江雄一)
T ペットと人 ペットしか見えない都市空間ができるまで 近代ヨーロッパにおける動物たちの行き(生き)場 はじめに/18世紀ヨーロッパとペット蔑視/19世紀ヨーロッパと動物虐待防止運動/20世 紀ドイツにおける動物保護思想の過激化(光田達矢) ペットとのコンパニオンシップから得られるもの ペット飼育の現状/ペットとの関係から得られるもの/動物介在介入(いわゆるアニマルセ ラピー)(濱野佐代子) ペットを飼うこと 地域猫と殺処分をめぐる ……
著者略歴は書籍刊行時のものを表示しています。
【編者】 赤江雄一(あかえ ゆういち) 慶應義塾大学文学部准教授。1971年生まれ。リーズ大学大学院博士課程(Ph.D.)。専門は西洋中世史(宗教史・文化史)。共著に『知のミクロコスモス−中世・ルネサンスのインテレクチュアル・ヒストリー』(中央公論新社、2014年)、『はじめて学ぶイギリスの歴史と文化』(ミネルヴァ書房、2012年)などがある。
【著者】 光田達矢(みつだ たつや) 慶應義塾大学経済学部専任講師。1976年生まれ。ケンブリッジ大学歴史学部博士課程(Ph.D.)。専門は、ドイツと日本における食と動物の近代史。主要論文に“Entangled Histories: German Veterinary Medicine, c. 1770-1900”, Medical History 61(2017)などがある。
濱野佐代子(はまの さよこ) 帝京科学大学生命環境学部准教授。博士(心理学)。獣医師。臨床心理士。白百合女子大学大学院博士課程発達心理学専攻単位取得満期退学。専門は、発達心理学、人間動物関係学。著作に『日本の動物観』(共著、東京大学出版会、2013年)、『発達心理学事典』(分担執筆、日本発達心理学会編、丸善出版、2013年)などがある。
斉藤朋子(さいとう ともこ) mocoどうぶつ病院院長、獣医師、NPO法人ゴールゼロ理事長。北里大学獣医学部卒業。東京都動物愛護推進員。
平岡 潔(ひらおか きよし) 株式会社フジキン ライフサイエンス創造開発事業部特任主査技術士(水産部門)。1967年生まれ。近畿大学大学院農学研究科水産学専攻修士(農学修士)。技術士(水産部門)取得。水産庁次世代型陸上養殖の技術開発事業委員(平成26年〜28年)。
纐纈雄三(こうけつ ゆうぞう) 明治大学農学部農学科教授。1952年生まれ。米国ミネソタ大学大学院(Ph.D.)。専門は、応用獣医学、動物繁殖学。著作に、『ブタの科学』(朝倉書店、2013年)、『日本農業技術体系34. 養豚経営におけるベンチマーキング』(農文協、2015年)などがある。
下田耕治(しもだ こうじ) 慶應義塾大学医学部動物実験センター長、教授。1954年生まれ。北海道大学卒業。専門は、実験動物学。
奈良雅俊(なら まさとし) 慶應義塾大学文学部教授。1959年生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程単位取得。専門は、倫理学。著作に、『入門・倫理学』(共著、勁草書房、2018年)、『シリーズ生命倫理学 第12巻 先端医療』(共著、丸善出版、2012年)などがある。
大谷 哲(おおたに さとし) 東海大学文学部特任講師(2018年4月より)。1980年生まれ。東北大学大学院文学研究科博士後期課程修了。専門は、古代ローマ史。訳書に、ロバート・ルイス・ウイルケン著、大谷哲ほか訳『キリスト教−千年史(上下巻)』(白水社、2016年)がある。
原 由利子(はら ゆりこ) 反差別国際運動(IMADR)事務局長(2016年11月まで)、人身売買禁止ネットワーク(JNATIP)運営委員。英国エセックス大学人権大学院卒業。創価女子短期大学、明治大学、津田塾大学、清泉女子大学非常勤講師。共著に『世界中から人身売買がなくならないのはなぜ』(合同出版、2010年)がある。
田野大輔(たの だいすけ) 甲南大学文学部教授。1970年生まれ。京都大学文学部卒業。専門は、歴史社会学、ナチズム研究。著作に、『魅惑する帝国――政治の美学化とナチズム』(名古屋大学出版会、2007年)、『愛と欲望のナチズム』(講談社選書メチエ、2012年)などがある。
福田真嗣(ふくだ しんじ) 慶應義塾大学先端生命科学研究所特任准教授。1977年生まれ。明治大学大学院農学研究科修了。博士(農学)。専門は、腸内環境制御学。著作に、『おなかの調子がよくなる本』(ベストセラーズ、2016年)などがある。2013年、文部科学大臣表彰若手科学者賞受賞。2015年、科学技術・学術政策研究所「科学技術への顕著な貢献2015」受賞。2017年、第1回バイオインダストリー奨励賞受賞。
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