4.編集後記
「栗原後悔日誌@Harvard(The Cambridge Gazette: Lessons Learned)」の創刊号の本文は
以上です。冒頭で述べた通り、私の体験談がすべて役立つとは思っていません。が、たと
え一部分でも興味を持てる箇所があるとしたら、この小誌の存在意義があると思っています。さて、日誌・日記と言えば、紀貫之の『土佐日記』や石川啄木の『ローマ字日記』等に加えて、ドイツの大数学者ガウスの『数学日
記(Mathematisches Tagebuch)』を思い浮かべます。この『日記』はガウスが18歳の時(1796年3月)から37歳の時(1814年7月)まで書かれたのですがぺージ数は僅か19ぺージです。
しかし、その中には146の研究に関するアイデアが詰まっており、ガウスのモットー「寡作なれど熟したり(pauca sed matura/Weniges,
aber Reifes)」を正しく具現した日記で後世の
研究者にとって大いに参考になったことでしょう。それに比べれば、私の後悔日誌は何と貧相な日誌であることかと自ら恥ずかしくなります。しかし、有能な若人に「他山の石」
としての「教訓」を伝えられたらと願いつつ、
毎月記すことにします(脱線で恐縮ですが、私はガウスがノルウェーの若き数学者アーベル
の代数における歴史的な証明を無視したことを大変残念に思っている人間の一人です。たとえ大天才ガウスでも大きな間違いをすると思うと、改めて多角的・重層的な協力・相互
補助の精神の重要性を感じます)。
実は私自身、重々しい教訓やお説教を嫌う天邪鬼です。それ故に、変な表現になって恐縮ですが、「教訓臭くない教訓」を小誌を通じて述べてゆきたいと思っています。と申しま
すのも、一部の先輩諸氏及び同僚が頻繁に用いる「いまどきの若い連中は…」から始まる
「教訓」を私自身が最も怖れているからです。
逆に、先人のなかには何の努力もしてこなかった人さえが存在していることも動かし難い事実です。まさにセネカが述べた言葉「高い年齢に達した老人が、長い間生きてきたことを証明する証拠として、年の数以外には何も持っていない例がよくある(saepe grandis natu
senex nullum aliud habet argumentum, quo se
probet diu vixisse, praeter aetatem./Often a man
who is very old in years has no evidence to prove
that he has lived a long time other than his age.)」
が指し示している人は少なくありません。か
く言う私自身も油断をすればセネカが批判し
たような年長者になる危険性を十分はらんで
います。従って、若い方々を応援する意味から、また、非力で怠惰な自らを叱咤激励する意味からも、「栗原後悔日誌@Harvard」を綴ってゆきたいと思っています。
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