知的戦いの盾:微笑み
1990年代、特に後半に入ってからは、海外
の冷たい視線をかいくぐり、質が高く有意義
な情報交換を、それも継続的に如何に実施す
るかが私自身の最大の課題となりました。
「お手並み拝見」という冷ややかな態度を採る本学の研究者を前にして私は如何なる実力
と態度で臨むべきか。限られた能力しか持たない私は、まるで徒手空拳で熊や虎と戦うよ
うな気持ちでしたが状況が許しません。このようにグローバルな知識社会は本当に恐ろしい世界です。正しく冷酷な知的戦いと言って良いでしょう。ではこの知的戦いのなかで何
が盾で、何が矛となるでしょうか。勿論、盾
と矛の中心部分は前述の5つの要件です。し
かし、盾の外面と、矛の尖端は何かと申しま
すと、私は盾の外面が微笑みで、矛の尖端は
ジョークであると考えております。
塚本副理事長をケンブリッジに迎えた前述の会合では、ローレンス教授が日本の通商政策に関して大変厳しい質問をなされました。
同副理事長は、「ローレンス教授からは、1980
年代から大変手厳しい御意見を頂くのでこち
らもワクワクしてきます」と仰りつつ微笑ん
で同教授の質問に的確に答えられました。数日後、ローレンス教授と廊下でばったり出会
うと、「ジュン、この前の会合は本当に参考に
なったよ」と微笑みながら語りかけて下さいました。この意味で、塚本副理事長と私は、
次のような日本人同胞に対して厳しい態度で臨んでいます。すなわち、グローバル時代の
到来と叫びながらも、原稿を棒読みし、海外の聴衆に対して全く視線を向けず、苦虫を噛
み潰したような表情で講演する日本人。彼等
こそが、質の高い情報発信に期待がかかる日本で、対外イメージを悪くさせている、と。
こうした理由から若い読者の皆様には、日頃から微笑みを絶やさぬよう心がけることをお勧めします。というのは土壇場になって微笑
むのは難しいということを経験的に感じているからです。話がチョッと逸れますが、スポーツにしろ、芸術にしろ、そして学問にしろ、
評論することと実際に行うこととは全く別であることを十分認識する必要があります。6月現在、ドイツでサッカーのワールドカップが、そして英国ではテニスのウィンブルドン選手権が開催されています。お茶の間のテレビで観戦する私達は各選手や各チームの犯したミスを躊躇することもなく厳しく批判する気持ちに駆られます。しかし、テニスであれ、サッカーであれ、実際にそのボールを手にしたことがある方なら、傍観者による評論と当事者による実践とは完全に異なることを容易に理解できると思います。従って、頭の中で「海外では微笑みが知的戦いの盾」と理解していたとしても、日頃から心がけないで急に実践に移せば、「こわばった微笑み(?)」という摩訶不思議な微笑みとなるでしょう。そうなれば、ラフカディオ・ハーンが『アトランテック・マンスリー』誌1893年5月号に掲載した小論(“The Japanese Smi1e”)のような考察が再び出てくるかも知れません。
微笑みと言えば、私はフランスの哲学者で
あるアランの『幸福論(Propos sur le bonheur)』
を思い出します。学生時代に邦訳本を読み、
社会人になった途端に、アマゾン・ドット・
コムの影響からか今は消えてしまった銀座の
イエナ書房に原書を買いに行きました。その時は値段の高さに驚きましたが、その御蔭か
大事に思い、繰り返し読んだことを今も懐かしく思い出します。私はアランを通じて、「楽
しませる(《faire plaisir》)」という「生きるワザ
(《art de vivre》)」を教えてもらった御蔭で、日頃から微笑むことの重要性を学びました。私の微笑みは、名画『モナリザ』や永遠のアイ
ドルであるオードリー・ヘップバーン、そし
てウィンブルドンで無敵を誇るロジャー・フェデラーの微笑みに比べれば明らかに非力です。それでもハーバード大学をはじめとして
海外の知的戦いにおいて、冷たい視線と共に
飛んで来る厳しい質問に対して、微笑みを盾
とした回答は好意的に受け止められました。
このようにして、知的な意味で窮地に陥った
私は微笑みによって幾度となく救われた経験
を持っています。皆様も是非日頃から微笑む
ことを心がけてみてはいかがでしょうか。
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