「闘いのとどろきを聞かなければならない」 ミシェル・フーコー
▼フーコーの権力論は1970年代半ば、『監視と処罰』と『知への意志』で頂点に達する。だが『狂気の歴史』に始まり、六八年五月を経て深化した、ラディカルな思索は、運動の退潮に伴い、権力と抵抗の二元論として受容された。闘争や抵抗は、その事実ではなく可能性のみが語られるようになった。しかしこの時期、フーコーの思索には新たな展開が生じていた。〈統治〉概念の導入を契機に、権力論が再構成され、倫理、自由、主体化、パレーシアの概念を軸に、独自の主体論が立ち上がる。そして〈統治〉する〈主体〉が姿を現す。 ▼後期フーコーは「権力があるところに、抵抗がある」には留まらない。権力関係を成立させる〈自由〉に賭けるのだ。自由を用いる統治する主体は、「主観的な」真理によって、自己と他者の振る舞いを導き、他者から導かれる。 闘争とは、既存の導きのあり方を問い、導きの向きを変えることだ。それは絶えることのない、他者の導きへの叛乱であり、自己への反逆である。後期フーコーにおける生の美学、自己の倫理、自由の実践は、自己と他者への統治的なはたらきかけを指す。統治論が問うのは「いかにこのように統治されないか」である。現在性の哲学、現代統治性批判としてのフーコー思想は、この地点からこそ読まれるべきだ。
▼後期フーコー権力論の転回、その可能性の核心を捉える俊英の鮮やかなデビュー作。

社会思想史研究 No. 38 (2014年9月)「書評」(266頁)に書評が掲載されました。評者は重田園江氏です。
毎日新聞 2013年10月27日付 朝刊 今週の本棚・新刊で、『フーコーの闘争 <統治する主体>の誕生』(箱田徹・著)をご紹介いただきました。 本文はこちら

序 章 フーコー統治論をめぐる状況 1 はじめに 2 後期フーコーと統治論はいかに論じられてきたのか 3 本書の構成
第1章 誘惑される権力――抵抗の先行性と不可能性をめぐって 1 概念としての抵抗の不在 2 監獄情報グループと〈耐えがたさ〉の政治性 3 誘惑する権力―― 「汚辱に塗れた生」の権力論 4 抵抗と権力から導きへ
第2章 規律訓練とエロスの技法―― 〈導き〉のキリスト教型権力モデル 1 権力装置のタ ……
著者略歴は書籍刊行時のものを表示しています。
箱田 徹(はこだ てつ) 立命館大学衣笠総合研究機構専門研究員。 1976年生まれ。京都大学経済学部経済学科卒業。神戸大学大学院総合人間科学研究科地域文化学専攻修士課程修了、同大学院人間文化科学専攻博士課程修了。博士(学術)。 著書に、『フーコーの後で――統治・セキュリティ・闘争』(芹沢一也・高桑和巳編、共著、慶應義塾大学出版会、2007年)、訳書に、ジャック・ランシエール『アルチュセールの教え』(共訳、航思社、2013年)、クリスティン・ロス『六八年五月とその事後の生』(インスクリプト、近刊)などがある。
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