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連載

The Cambrige Gazette


グローバル時代における知的武者修行を目指す若人に贈る
栗原航海(後悔)日誌@Harvard

『ケンブリッジ・ガゼット:Lessons Learned』

第4号(2006年9月)
 
 

先人の努力

 こうした事態に反省し、少しずつではありますが、日本に最も近い朝鮮半島の歴史を勉強するようになりました。そうした過程で、多くの日本人が日韓関係において心を砕いて努力したことを知りました。遠く17世紀にまで遡りますと、紆余曲折はあったものの徳川幕府が中国の明・清が採る「冊封(サクホウ)外交」の下にある朝鮮に対し、慶長の役の終了(1598年)後、9年の歳月をかけて、相手側の警戒心・猜疑心を氷解させ、「互いに欺かず、争わず、信(よしみ)を通じて交わる」精神で、日朝関係を改善した歴史を知ることができました。また、赤穂浪士の吉良邸討ち入りで元禄の江戸が大騒ぎとなっていた1703年、儒学者の雨森芳洲は、体系的な日朝語学教育の欠如を指摘し、自らプサン(釜山)に在る草梁倭館でハングルを学び、『交隣須知』を著したことも学びました。更には、前述した「動乱の中の王妃」、梨本宮方子妃が、1916年、15歳の夏に大磯の別荘で自らの婚約を新聞報道を通じて知り、「怒りとも悲しみともいえない熱い涙」を流したものの、その4年後には「日韓の架け橋」として政略結婚を自らの運命として受け入れ、そして戦後は生活苦のなかにあっても韓国において社会事業を成して「韓国障害児の母」と韓国国民から敬愛された人生を送られたことを知りました。このように、私は本学図書館が所蔵する芳洲の『交隣須知』や方子女王の『すぎた歳月』を読みながら日本の先人が残した日韓友好に向けた努力を少しずつ学んでおります。

 私が皆様と同じような年代(未だ純情な20代)であった頃、第一の愛読書は東大新書版の『きけわだつみのこえ』でした。同書(とハンカチ)を片時も離さず、旅行や飲み会に、それこそ何処にでも持ち歩いて行きました。同書の中に、敗戦翌年の5月(東京では極東国際軍事裁判が開廷し、現在のソニーである東京通信工業が設立された頃)、日本から遠く離れたシンガポールで、戦犯として処刑された京都帝国大学出身の一日本兵の手記があります。その方は、手元にあった京都学派を代表する哲学者田辺元博士の『哲学通論』の余白に言葉を残されました。チョッと長いのですが、ご辛抱頂きここに引用させて頂きます(私としては全文引用したい気持ちですが…)。すなわち、「私は何ら死に値する悪をした事はない。悪を為したのは他の人々である。しかし今の場合弁解は成立しない。江戸の敵を長崎で討たれたのであるが、全世界から見れば彼らも私も同じく日本人である。彼らの責任を私がとって死ぬことは、一見大きな不合理のように見えるが、かかる不合理は過去において日本人がいやというほど他国人に強いて来た事であるから、行きどころはないのである。日本の軍隊のために犠牲になったと思えば死にきれないが、日本国民全体の罪と非難とを一身に浴びて死ぬと思えば腹もたたない。笑って死んで行ける」、と。更には、「この日本降伏が全日本国民のために必須なる以上、私一個の犠牲のごときは忍ばねばならない。苦情をいうなら、敗戦と判っていながらこの戦を起した軍部に持っているより仕方がない。しかしまた、更に考えを致せば、満州事変以来の軍部の行動を許してきた全日本国民にその遠い責任があることを知らねばならない」と述べ、「万事に我が他より勝れたりと考えさせた我々の指導者、ただそれらの指導者の存在を許して来た日本国民の頭脳に責任があった」と語っています。この方は、「今私は世界全人類の気晴らしの一つとして死んで行くのである。これで世界人類の気持ちが少しでも静まればよい。それは将来の日本に幸福の種を遺すことなのである」と語り、帝国日本が軍靴で踏み躙った朝鮮半島を含む諸外国の憤りを少しでも和らげることを願い、また敗戦国日本の再生を祈りつつ、微笑みながら自らの命を我が国に捧げられました。

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著者プロフィール:栗原潤 (くりはら・じゅん)
ハーバード大学ケネディスクール[行政大学院]シニア・フェロー[上席研究員]
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