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連載

The Cambrige Gazette


グローバル時代における知的武者修行を目指す若人に贈る
栗原航海(後悔)日誌@Harvard

『ケンブリッジ・ガゼット:Lessons Learned』

第7号(2006年12月)
 
 

行動のための言葉と内容

 時代を遠く遡り、約1200年前の804(延暦23)年、遣唐使と共に弘法大師(空海)が乗船した第一遣唐船は難破して現在の福建省霞浦県の海岸に漂着し、彼等には海賊との嫌疑がかけられます。遣唐使をはじめ他の学僧が中国官僚に出した手紙はその嫌疑を解くこと叶わず、50日程、全員が船の中で過ごすことを余儀無くされます。そうしたなか空海が書いた手紙が優れて達筆・名文であったことから正式に遣唐使節と認められ、漸く長安行きを許されることになりました。皆様、空海の日本での向学心と弛まぬ努力が無ければ、彼等は50日どころかそれ以上の日々を空しく福建省の海岸で過ごしたことでしょう。こう考えますと昔も今も外国語は重要であり、また言葉だけでなくその内容、そしてその両者の先には明確な目的意識に裏付けられた行動が無ければ、言葉そのものが生かされることはなく、更には言葉が磨かれることもないでしょう。私もハーバード大学に来て外国語と専門知識とは互いに影響し合う間柄だという認識を一層強めています。日本の或る方が私に向かい、「栗原さん、英語の力が無ければ専門知識を身に付けることができませんか?」と聞かれました。私はこれに対して「そう考えることもできますが、私はむしろ高い水準の専門知識を身に付けようとすれば必然的に英語の能力も高めなくてはという気持ちになると思います」と答えました。私の経験では国際会議に参加した人は、(単に黙って座っている人を別として)外国語、特に英語の必要性を十分過ぎる程感じていると思います。それ故に次の国際的会合では自らの主張を正確に伝え、相手の主張を正確に理解し、そして互いの情報交換の質と効率を高めるという目的から国際共通語を真剣に学ぶのだと思います。換言すれば流暢な外国語は前提条件ではなく、積極的な国際的情報交換の結果及び証拠として優れた人々の資質の一つになっていると思います。バーガー教授と共に2004年秋にお目にかかって感銘を受けた日本電産の永守重信社長も、外国語に関してご著書『情熱・熱意・執念の経営』の中で同様のことを仰っています―「わが社の国際化は急ピッチで進展していますが、よく言葉の問題はどう克服しているのかという質問を受けます。そんなときに私は次のように答えています。『外国語は出来るに越したことはありませんが、必要条件にはなりません。… 要は、本人にどれだけチャレンジ精神があるかです』」と。当然ではありますが、情熱と才能が溢れる永守社長の英語は素晴らしいものがございます。私の場合も日米関係やアジアの問題を正確かつ多角的に検討する必要に迫られ、日本語に加えて英語を学び、同時に中国の台頭とグローバリゼーションの進展により、中国語をはじめ仏独韓露といった言語に堪能な人々との情報交換を行うようになってきました。従って私は言葉そのものより、調査対象を良く知るため、また調査活動をより合理的・効率的にするために様々な言語を学んできた訳であります。

 こうした経験に基づき若い皆様方に、外国語に関して2つの助言を申し上げたいと思います。第一の助言は面談時での情報交換の問題です。The Cambridge Gazetteの昨年8月号でも書きましたが、ディヴィッド・エルウッド本校校長が昨年7月に来日した時に日程調整で一番苦労したのが、英語が堪能で専門知識をお持ちの方とのアポイントメントでした。一般的な話として、学界の国際公用語が英語であるが故に米国研究者には、@無意識のうちにノーマル・スピードで会話することを当然と考えていること、A一流の米国研究者は英語文献をほとんど読了しているので、英語文献に記載されていない非英語情報の面白い点「だけ」を非英語圏の研究者から聞きたがること、以上2つの特質があります。これに対し、日本を含む非英語圏の研究者には、B英語文献を十分読んでいない場合、英語文献で既に紹介された情報を入念に解説する嫌いがあり、情報交換のための貴重な時間を空費する危険性が存在すること、C非英語圏にいるが故に仕方が無いが、英語によるノーマル・スピードでの情報交換に慣れていないことが多く、時間を効率的に使えない場合があること、以上2つの特質があります。またD言葉の問題ではないのですが、チョッとした仕種や顔の表情の変化、所謂非言語コミュニケーション(non-verbal communication)が面談時に大きな役割を果たします。小誌7月号でも触れた人類学者のエドワード・ホールは、著書『沈黙の言葉(The Silent Language)』の中で人間の微妙な動作を見抜く力に長けた名探偵シャーロック・ホームズが活躍する『花嫁の正体(A Case of Identity)』に言及しています。そして非言語コミュニケーションがまったく異なる日本ではホームズ探偵は活躍できなかっただろうと語っております。以上、米国と非英語圏の合計4つの特質と非言語コミュニケーションの問題が複雑に絡み合い、米国研究者と非英語圏の研究者が情報交換を行う際に意思疎通がままならず、有益な意見交換ができない事態に私は少なからず遭遇しております。幸いにも昨年の7月は、年金問題及び少子・高齢化問題に関し、本校卒業生である厚生労働省の高倉信行年金課長と榎本芳人大臣官房国際課課長補佐が対応して下さり充実した意見交換ができました。皆様、こうした日米における面談上での特質や非言語コミュニケーションの重要性を認識し、ノーマル・スピードを心がけ、また日本の現状に関する外国語文献にも注意して、国際的な知的対話に慣れることをお勧めします。

 第二の助言は翻訳文献に関するもので、私の場合、原則的に「原書主義」を採っています。その理由は、@翻訳者のご苦労は十分認識しますが、数学のような厳密な形で正否が判断可能な場合は別として、社会科学や芸術論の場合、著者の誤謬と翻訳者の誤訳との判別が不可能で、結局、原書で確認する必要に迫られること、A前述したように専門分野に関しては翻訳文献の数が極端に少なく、また翻訳も時間的に相当のラグが発生するために原書で読まないと針の穴から一昔前の天井を覗くような危険が発生すること、以上2つです。冒頭で触れたバーガー教授との会食の際も、同教授の著書の仏訳版(Made in Monde)に有る多くの誤訳の問題について話し合いました。また或る時、国際問題研究所(IIE)のアダム・ポーゼン氏が日本の新聞に小論を発表しましたが、結論部分が反対に訳されており、翌朝興奮した彼から電子メールが来たのには思わず吹き出しました。私の返事は「大丈夫だよ。僕は以前から君の意見を聞いていたから誤訳だとすぐ気付いたよ」でした。

 不可避ともいえる誤訳の多さに加えて、たとえ正確な翻訳であっても原書が書かれた国・地方の価値観・習慣や専門知識や各国語が持つ独特の意味合いを読者が知らなければ、「誤読」という危険性が発生します。また厳密には誤訳・誤読ではありませんが、各国の言葉が持つ特徴を理解していなければ魅力を理解できない場合も数多くあります。敬愛する福田恒存氏が小論「シェイクスピア劇の演出」の中で、「シェイクスピアの原文は音の強弱が交互に響き、リズム感が生まれて軽やかなテンポのブランク・ヴァース(blank verse)で書かれており、その妙味は翻訳では台詞に移しきれず、原作の美しさの90%は『死んで』しまい、残り10%に、翻訳の『正確さ』と『含蓄』を込める」旨の主張をされており、私自身が納得した記憶があります。また私の惨めな中国語の発音では、李白、陶潜、劉庭芝等の平仄を重視する漢詩の魅力はほとんど削ぎ落とされているに違いないとほぼ諦観に近い心境にあります。このように外国語を理解することは本当に難しいと言えましょう。話はチョッと飛びますが、訪日した米国人俳優が「翻訳過程を通じて本質的な意味と微妙なニュアンスが失われる」問題に遭遇する姿を描いた映画『ロスト・イン・トランスレーション(Lost In Translation)』は非常に面白い映画です。映画の中で主人公が本当に通訳者の言っていること「だけ」を信じて良いのだろうかと不思議がるシーンは爆笑ものです。誤解を招かぬよう付言しますが、海外の文化・文明を知らずに情報を受信してもほとんど理解不能であることを承知しているが故に、私は翻訳を不要とは思っていません。私も『聖書』や西洋古典に関して想像を絶する浅い知識しか無かった時代、題名自体が洒落であるエラスムスの『痴愚神礼賛(Moriae Encomium/The Praise of Folly)』や、メルヴィルの『白鯨(Moby Dick)』を読んだ時、ほとんど理解できなかったという苦い経験があります。もし翻訳者による配慮の行き届いた解説付きの訳本が無ければ再読する勇気が湧き出なかったでしょう。

 さて、「日本語は美しい言葉」という表現を聞きます。これに関しても私は未だ納得しておりません。「美しい日本語」というのは理解できますが、「日本語は美しい言葉」というのは外国語に比べて美しいという考えなのでしょうか。私は冒頭に申しましたように「誰」が「何」を「如何に」話すかということが重要と思っています。従って、ゲーテの言葉「言語がそれ自体正しいとか、優れているとか、美しいということはない。言語に具現された精神こそが、正しいのであり、優れているのであり、美しいのである(Nicht die Sprache an und für sich ist richtig,
 tüchtig, zierlich, sondern der Geist ist es der sich darin verkörpert.)」に私は共鳴します。もし、昔の日本語が美しかったというのでしたら、それは昔の日本人の「心」と「行い」が美しかったのだと考えています。2004年6月末、サントリー・ホールで開かれたドイツ日本研究所(DIJ)の新旧所長交代式に参列した時、ベルリンにお戻りになる予定のイルメラ・日地谷=キルシェネライト所長が最後のスピーチで川端康成の『雪国(Schneeland)』の一節を引用されました。その時私は初めてドイツ語で川端文学に触れることができました。ドイツ語はゴツゴツして品が無いと意地悪な言い方をする私の悪友がいますが、その時は本当に美しく聞こえ、これは川端文学と朗読されている同所長のお心が美しいからだと納得した次第です。

 皆様、言葉が美しいかどうかは言葉に秘められた内容、すなわち、「中身」次第だとお分り頂けたと思います。換言すれば高い「志」を持ち、その「志」を多くの方々に理解して頂いて「ヒトの和と輪」を築くため、また多くの方々の「志」を理解するために、奥深い内容が詰まった「美しい言葉」が必要となるのです。10年程前、国際関係の専門家、ジョージ・ワシントン大学(GWU)のヘンリー・ナウ教授が東京を訪れた時に、私の妻と共に3人で懐石料理を楽しみました。料亭に向かう直前、妻は「私は(専門的な話ができないので)大丈夫かしら?」と不安そうに言いました。それに対して、私は「大丈夫だよ。今晩、君はスマイル担当だよ。君の素敵な笑顔で心をこめて『ようこそ日本にいらっしゃいました』と言えば十分じゃないか」と答えました。こうしてその夜、3人で素晴らしい夜を過ごしたことは言うまでもありません。また、18世紀の英国詩人アレクサンダー・ポープは「言葉の表現は思想の衣装(Expression is the dress of thought.)」と言っております。すなわち、「美しい言葉」は、「心」と話の「内容」を一層豊かにし、「ヒトの和と輪」を広げることができます。ですから、母国語である日本語を筆頭として、「美しい言葉」を学んで頂きたいと思います。換言すれば、言葉は内容と行動を精神的に洗練するための大切な「道具」です。一流のプロフェッショナルであるイチロー選手は私達に道具を大切にすることを教えてくれます。そして名手イチローが入念に手入れされた道具であるグラブで見せるファイン・プレーは、「ヒト」と素晴らしい道具が織り成す好循環の結果でありましょう。才能ある若い皆様が、流暢で高い知的水準の言葉を操って、名手イチローのように世界の舞台で活躍されることを心から願っております。

 

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著者プロフィール:栗原潤 (くりはら・じゅん)
ハーバード大学ケネディスクール[行政大学院]シニア・フェロー[上席研究員]
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