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連載

The Cambrige Gazette


グローバル時代における知的武者修行を目指す若人に贈る
栗原航海(後悔)日誌@Harvard

『ケンブリッジ・ガゼット:Lessons Learned』

第7号(2006年12月)
 

 

■ 目次 ■

 

3. 外国語、内容、そして行動

 今回のテーマは「外国語、内容、そして行動」です。いつもの通り、結論を先取りして簡単に申し上げます。グローバルな舞台で知的武者修行を志す人々は、好むと好まざるとにかかわらず、また多かれ少なかれ外国語を修得する必要に迫られている。こうして我々は外国語学習を、@誰が、A何のために、また何を、B如何なる流暢さの外国語で話す必要があるのかという視点から再検討してみなければならない。従って、日本国民の@全員が、A無目的に、またB無闇やたらに流暢な外国語を話す必要がないことは明白である。翻って国際的な知的対話が不可欠な分野のプロフェッショナルが、専門分野で必要とされる国際共通語で質の高い直接的・継続的・多角的で双方向の情報交換ができないとなると、そのプロフェッショナルは世界では通用しないのがグローバル時代の厳しい掟である。しかし、外国語が大切であるとしても、小誌で常に強調する一流の専門知識、教養等、「内容と行動」が伴わなければ、言葉が役割を果たさない道具と化する。以上が今月の話題です。

誰が外国語を必要とする「ヒト」か?


 まず外国語は、「誰」が「何の目的」から必要なのかを考えてみましょう。自称「変人」の私は人々を次のように評価します。@良き家族の一員かどうか、A良き隣人かどうか、B能力の有るプロフェッショナルかどうか、C教養と礼節をわきまえた一市民かどうか、以上4つの評価基準です。私が、@家族を大切にする人かどうか、またA道ですれ違った時に感じ良い挨拶ができる隣人かどうかと考える時、外国語は何の基準にもなりません。家族団欒の会話やご近所付き合いを外国語でする人はいないでしょう。C知性・品性を具えた一市民かどうかに関しても、健全なる「良識」を具えているかどうかが問題で、外国語の知識は別段必要の無い資質です。

 次にBプロフェッショナルの場合を考えてみます。当然のこととして(a)能や歌舞伎等の伝統芸能の方々、それに(b)スポーツ選手やファッション・モデル、ピアニスト、板前さんといった言語を使わない「ワザ」で勝負をされている方々も外国語が必須ではありません。勿論、サッカーのオシム監督の指示を的確に選手に伝えたりするとなりますと、当然、正確に翻訳する方々が必要となります。そして(c)国際的な交流が活発な分野におきましても、記号や数式という特殊言語を使用する物理学者、数学者、天文学者といった方々も流暢な外国語が必須という訳ではありません。

 では人文科学・社会科学といった人間や社会を扱う学問はどうでしょう。これに関しても、日本文学やギリシャ文学を志している「ヒト」が他の言語を必須とする訳ではありません。以前、本学ファカルティ・クラブで食事をしていた時、背後から日本語が聞こえてきました。日本からのお客様を本学の日本研究者がおもてなしをしている様子でした。盗み聞きする訳ではなかったのですが、テーブルが近かったため聞こえて来た話から推測すると明治以前の演劇の話のようでした。しかしこの場合、日本のお客様は別段米語が必須である訳ではありません。逆に本学研究者が日本語を必須として心得ていなくてはならないのです。また昨年2月に中国を訪れた際、長春のエレクトロニクス・メーカーの方とお話をしました。その方は会社の製品とその納入先やライバル企業との技術水準の差はご存知ですが、中国経済全体や世界経済のことはほとんどご存知ありませんでした。しかしこの方も、私の話す「日本訛りの英語」を聞き取る必要はありません。この方はグローバルな競争分野ではあるが「中国の一産業における事情通」として素晴らしい情報をお持ちで、私自身感心しながらその方のお話を聞いていました。こうして私こそが経済学と産業の知識、そして英語で報告書を作成する作業能力が問われた訳です。少々理屈っぽくなりましたが、こう考えますと本当に外国語の学習を必要としているのは、「グローバルな形で競争する分野で、グローバルに双方向で直接的な知的対話をすべき人々」だけです。

 勿論、外国語が必須でない方々も外国語が話せるに越したことはありません。では、「如何なる流暢さ」の外国語を話せば良いのでしょうか。私は言葉の流暢さを評価する際、@挨拶程度(Thank you!等が話せる)、A旅行程度(ホテルに泊まり、食事が出来る)、B気楽な日常生活や簡単なビジネス会話程度(一対一で何とか意思の疎通が出来る)、C大勢の中でのディスカッションが出来る程度、D演説が可能となる程度、以上5段階をおおよその目安として考えています。こう考えますと、「グローバルな競争分野においてグローバルに双方向で直接的な知的対話をすべき人々」以外の人、すなわち「普通の人々」は、@であれば外国人と楽しく挨拶ができ、Aであれば海外旅行が楽しくなり、Bであれば簡単なビジネス出張や海外生活ができる訳です。

 従ってここでの問題は、Bと、C及びDとの間の大きな隔たりです。この問題は母国語である日本語でも同じです。「誰もが言葉を話せるものだから、言葉について発言する資格があると思っている(Ein Jeder, weil er spricht, glaubt auch über die Sprache sprechen zu können.)」とゲーテが語った通り、日本語を日常的に使う私達は、「日本語は大丈夫」と無意識のうちに思っています。が、実は母国語であったとしても、CとDは非常に難しいレベルであり、専門的知識を必要とする議論に参加し、また人々を感動させる演説をするともなれば、どの言語でも大変なことです。こう考えると、「グローバルな競争分野においてグローバルに双方向で直接的な知的対話をすべき人々」が、ハーバード大学での研究会等、大勢の中でのディスカッションができる(C)かどうか、また外国の専門家の前で演説が可能(D)かどうか、これこそが日本が取り組むべき外国語学習の問題だと私は考えます。少し厳しい言い方をすれば、「グローバルな競争分野においてグローバルに双方向で直接的な知的対話をすべき日本人」が、国際的な会議で一言も発言せず、或いは原稿を棒読みして相手を退屈させるような演説を、しかも聞き辛い米語ですることこそが日本の問題だと考えています。では日本には、どれ程の数の「グローバルな競争分野においてグローバルに双方向で直接的な知的対話をすべき日本人」が必要なのでしょうか。残念ながら私には分かりません。勿論、多ければ多いほど良いことには違いありません。ただ国民全員でないことは確かです。同時に、長谷川慶太郎氏が仰った通り、外国語を含む大量の情報を速読し、大量の勉強をして選別眼を養い、ジャンク情報を捨象する能力を持つのは少数者に限られることでしょう。こうした能力を養うには、相当量の個人の努力が必要となります。この意味で「志」の高い才能溢れる若人の方々に、怯むことなく、CやDのレベルの外国語を学んで頂きたいと思っています。

 

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著者プロフィール:栗原潤 (くりはら・じゅん)
ハーバード大学ケネディスクール[行政大学院]シニア・フェロー[上席研究員]
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