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連載

The Cambrige Gazette


グローバル時代における知的武者修行を目指す若人に贈る
栗原航海(後悔)日誌@Harvard

『ケンブリッジ・ガゼット:Lessons Learned』

第3号(2006年8月)
 

 

■ 目次 ■

 

「ヒトの和」から「ヒトの輪」へ

 高い「志」を持つ「ヒト」が、コミュニケーションを通じて、その「志」を共有する仲間を見つけ、「ヒトの和(harmony)」が生まれてゆく過程で或る種の「共同体(community)」が形成されることは自然な成行きでしょう。すなわち、友達作りであり、仲間作りであり、同好会の創設です。そして「共同体」設立の趣旨に賛同する高い「志」を持つ人々は自ずと集まってくるに違いありません。こうして、「ヒトの輪(network)」が「ヒトの和」を通じて形成されてゆく訳です。皆様は「また、当たり前じゃないか」と思われるでしょう。その通りです。しかし、現実問題として、「ヒトの輪」を構築し円滑に運営し、更に発展させるとなると、容易ではありません。これに関して私の経験を述べてみたいと思います。

@高い「志」の重要性
 高い「志」と「ヒトの和」に関して、前項でリーダーシップとコミュニケーションを私が重視していることをご理解頂けたと思います。私を含め人間は弱いもので、チョッと気を緩めただけでも「志」を忘れ、「ヒトの和」の大切さを忘れてしまいます。偉大な儒学者佐藤一斎先生も、「志」を第一の心がけとされて、「志なき輩は仮令(たとい)万巻(まんがん)の書を読破候ても、学問心掛候とは申がたく候」、すなわち、「志」が無けば、いくら学んでも意味が無いと仰っておられます。これに関して、私は幸運に恵まれ、多くの尊敬する友人から「志」を忘れないようにと常に刺激を受けています。現在、私は本校のセンター・フォー・ビジネス・アンド・ガバメント(Mossavar-Rahmani Center for Business and Government(M-RCBG))の一員として様々な活動を実施しております。同センターは興味深い研究センターで、実践的研究を重視し、米国の市場規制政策やコーポレート・ガバナンス、企業の社会的責任(Corporate Social Responsibility (CSR))、エネルギー政策、教育問題、中国経済社会、途上国援助問題等、悪く言えば、「寄せ鍋」のような研究センターです。こうしたセンターの性質を好意的に捉えれば、対象である現実の世界を反映している研究センターと言えましょう。従って、隣の同僚が全く異なる分野のことを行っている事もあります。と同時に、研究活動分野の幅広さ故に、センター外の研究者、すなわち、ケネディ・スクールをはじめ、本学経済学部、本学ロー・スクール(HLS)、HBSといった本学内の他の機関、更には学外であるMIT、ボストン大学、タフツ大学、ブランダイス大学等の研究者が頻繁に出入りしている研究センターでもあります。

 このセンターで、私達が交わす質問は、変な表現になりますが、「やさしさの中に厳しさが混じった」性質を持っています。例えば、「ジュンは、今何を研究しているの?」から始まり、「それはどんな意味があるの?」や「(当該分野の権威である)○○教授からの評価は どう?」と、分野が異なるが故に或る意味で「冷たい質問」が飛んで来ます。また、我々シニア・フェローが集まり、各自の活動を報告する会合では、(a)自らの活動の特色を、(b)我がセンターの存在意義に照らし合わせながら、(c)前置き無しで、(d)簡潔に、そして(e)雄弁に語らなくてはなりません。シニア・フェローとしては、「ひとりぽっち」の東洋人で、9割以上の仲間が「英語世界(the English-speaking world)」出身ですから、会合での英語の語彙、表現力、そして話のスピードは皆様ご想像する通りの「想像出来ない」レベルです。その時、私の口頭表現力及び傾聴能力は、厳しい試練に遭遇していると言っても過言ではありません。こうして私は常に「何のために」活動を行っているか、換言すれば私の「志」は何か、を問われる環境にいる訳です。

 また、我がセンターは、次の点でも私達の「志」を試す場所となっています。すなわち、M-RCBGの特徴は研究の多様性と共に、研究水準の高さです。実践を志向した研究を重視するとなると、自ずと学際的研究になる訳ですから、専門が異なる相手同士で部分的にコミュニケーションが不能になる事態は恒常的に発生します。私は、その際に問われるのが私達の「志」だと考えております。すなわち、学際的研究であるが故に発生する作業上の効率低下を、そうした犠牲を上回る研究成果が最終的に得られるならば、私達は短期的・狭義上の効率の低下は喜んで受け入れるでしょう。こうして、研究上の高い、換言すれば欲張った目標を意識して、長期的・広義上の効率を望むかどうか、これはひとえに私達の「志」の高さにかかっていると思います。もともと学際的研究を行う訳ですから、相手に自分と同じ分野で同等の専門知識を持っていないと言っても始まりません。それ自体、学際的研究の意義を否定することになります。逆に、互いに知識を補完しあうからこそ、高い学際的研究を実現することが出来る訳です。この意味で、私達がパートナーとする相手は分野が何であれ一流でなければ、学際的研究の本来の意義が失われます。また、ここで付言したいことは、M-RCBGに集まる研究者の資質の驚くべき高さです。彼等はチョッとコツを掴むだけで容易に専門外の分野でも、一流の専門知識を習得してしまう人達ばかりです。その意味では私達も自分の専門分野にあぐらをかいてのんびりとはしておれません。

 こうして、実践を志向する高水準の学際的研究を行うM-RCBGは、私の「志」の正当性と、その「志」に対する私の真剣さを毎日検証する場所の一つと申せましょう。冒頭で述べましたが、現在私は日米中の三極政治経済関係を中心に研究を行っています。ご承知のように中国における正確な「情報」は、正しく「ヒト」に伴って動き、尚且つ「ヒソヒソ」という形で駆け巡ります。この意味で、私はセイチ教授等と中国高級官僚達の語り合う「ヒソヒソ」話に参画できる喜びを感じております。セイチ教授を囲んだ東アジア関連の会合で、議論が白熱し、早口の中国語が飛び交うと、通常のスピードでさえついて行くのに必死の私は、自らの情報収集能力の限界を痛切に感じます。「議論が一番佳境に入っている時が最も重要な情報が交わされているのに…残念無念!!」、と。そうしていると、セイチ教授が私を気の毒がって、熱い議論を一旦止め、直前に行われた議論の概要を私に解説して下さいます。その時の皆に対する私の罪悪感は言葉では表現できません。「貴重な時間を私のためだけに割いて頂いて、それも大教授のトニーさん(セイチ教授)に要約をして頂いて…」、と。議論の流れを堰き止めている訳ですから、或る意味では私の存在は全員の議論にとって貢献どころか障害となっている訳です。私は、今世紀初頭における東アジア最大の課題は「中国の発展過程で噴出する問題に対し、日米両国が協力して如何に中国に助言と苦言を案出するか」と考えております。若い優秀な方々が、私以上の能力をもって米中の熱い議論に参加して頂くことを願ってやみません。前述の米中間の熱い対話に際して、私の「存在意義」は、@良かれ悪しかれ、臆面も無く果敢に突撃する唯一の日本人であることと、A多忙な彼等に私が中国経済関連論文、それも英語・中国語だけでなく、日仏独で書かれた論文も彼等に紹介し、それらを概説するという点、以上2点と理解しています。

 このように自らの「志」を常に試される私ですが、そうした状況だからこそ「ヒトの和」に対する喜びもひとしおであると思っています。2005年度は、韓国の有名な経済ジャーナリスト、カン・ヒョサン(姜孝祥/※※※)氏が加わり、我がセンターの東アジアのメンバーの出身が日中韓の3ヵ国と香港及び台湾となって、私としては理想的な東アジアの「ヒトの和」が生まれたと喜んでいます。こうしたメンバーで、日中韓の料理を楽しみ、将来を語る一時は最高の経験だと思っています。韓国料理を楽しむ或る会合で、中国共産党の幹部と国営放送局である中国中央電視台出身のフェローは、カン氏に対して韓国におけるマスコミの意義を聞きました。それに答えて同氏は、「我々民主主義国のマスコミは政府を批判的に観ることに存在意義を見出している」と平然と答えました。私はビールを飲みつつ、目を白黒して驚いている中国の人々を横目で眺めながら笑いを噛み殺していました。中国の方々は我々と異なり、自由なマスコミ報道で予測不能な動きを示す世論や事前に結果が分からない民主主義国における選挙を、社会システムの重要な要素としては未だ信じていないと実感した次第です。また、イェール大学ロー・スクール(YLS)出身で米中法律協会(US China Law Society/留美中国法律学会)の中心的存在である劉向民(※向民)氏は我々を自宅に招いて中華料理を御馳走して下さいました。そして私が辛口の四川料理が大好きと知って以来、劉氏とは研究だけでなく食文化でも一層深い知的対話が出来るようになったと喜んでいます。こうして、ケンブリッジで日中韓香台の我々東アジアの仲間達は、「東アジアで政治情勢が不安定になると互いに、寿司、カルビ、紹興酒が恋しくなるねぇ。日本の寿司職人が東アジアで活躍出来なくなるのも大変だ」と笑いながら話しております。

 食文化を通じた交流で感じた一つの教訓をご紹介したいと思います。日本国内でもそうでしょうが、国際的には一層顕著に表れる現象として注意しなくてはならないのは、同じ言葉で表示された事柄でも、異なる土地と文化に住む私達はその同異を検証しなくてはならないという点です。中華料理がお好きな方なら、四鰓鱸(※※※)としても有名な上海料理の松江鱸魚(※※※※)を堪能されたご経験があると思います。が、多くの方が知る通り、調理するのは私達が日本で目にする鱸(すずき)とは全く違う魚です。従って、同じ漢字だからと言って、私達は異なるものを指している訳です(中国語をご存知の方はより身近なもので意味が異なるものをご存知だと思います)。また、日本料理の鱸と言えば、松江の鱸の奉書焼きが有名ですが、これをフランスの友人に「君の国の鱸の紙包み蒸し焼き([loup de mer/bar] en papillote)と同じだよ」と説明して良いかどうか未だに迷っています。私達の日常の常識に基づいて、たとえ類似の概念でも他国の事物を推量する際は注意し過ぎることはありません。何事も必ず、外国の「ヒト」と共に、具体的に検証する必要があると感じています。尚、余談で恐縮ですが、料理する魚が異なっても、同じ料理の名前が取り持つ縁で中国の(松江が在る)杭州と日本の松江は姉妹都市関係を締結していると聞き、理由が何であれ、敵対関係よりは友好関係の方が良いと私は喜んでおります。

A「閉じた輪」と「開かれた輪」
 「ヒトの輪(network)」には巷間言われるように(a)「閉じた(closed)」ものと、(b)「開かれた(open)」ものがあります。まず、「閉じたヒトの輪」についての例をご紹介しましょう。ブッシュ・シニアが大統領であった1991年1月17日、第1次湾岸戦争が勃発しました。当時、日本の政府及び主要企業は、情報収集のために「危機管理室」等の名称で、関連情報収集と対応策の立案を行う組織を設置しました。当時、私は日本政府の或る方から興味深いお話を伺いました。その方が或る業界各社に問い合わせたところ、一つの事実が判明したそうです。それは各社が懸命に収集している情報は、同業他社が如何なる対応をしているか、そのことだけとのことでした。その方は少々誇張して仰ったと思いますが、皆様もそれでは何の意味も成さないのはお分かりでしょう。まるで海を一度も見た経験が無い人々が、誰一人として実際に海に行って確かめもせず、皆が海についてどのような「イメージ」を懐いているかを互いに聞き合い、そうした過程で収斂したコンセンサスという「イメージ」を全員で海だと思い込むようなものです。このように「閉じたヒトの輪」は、仲間内の結束は強化されている半面、外界とは全く関係無く、全ての情報が真実と乖離した形であり続ける危険性があります。

 もうひとつ、「閉じたヒトの輪」に関して、私が遭遇した例をご紹介します。原油価格高騰を反映して、私もエネルギー市場に関する詳細情報を収集する必要が出てきました。幸い、小誌前号で触れた米日リーダーシップ・プログラム(USJLP)を通じて知り合ったケイト・ハーディン女史が、現在、ケンブリッジ・エネルギー研究所(Cambridge Energy Research Associates (CERA))のロシア地域担当ディレクターであることから、彼女とこの夏、情報交換を行う予定にしております。今回、CERAの日本語訳を調べるため、CERA会長でピューリッツァー賞も受賞したダニエル・ヤーギン氏の著書『市場対国家―世界を作り変える歴史的攻防(The Commanding Heights: The Battle for the World Economy)』をアマゾン・ドット・コムのウェブ(日本語版)で探し出した時、大変驚きました。解説に、CERAのCambridgeを、英国のCambridgeと書いているではありませんか。私はこの時、「この情報を書かれた方は米国のCambridgeとは『ヒトの輪』を持たない方なのだなぁ」と思い、「閉じたヒトの輪」のみに依存することの恐ろしさを私自身感じた次第です。

 とは言え、「閉じたヒトの輪」の長所もあります。本来、仲間内での結束の強さは、『孟子』「公孫丑下」が説くように、「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず(天時不如地利、地利不如人和)」である訳ですから仲間内の和は強固なほど良いことは確かです。従って、上記の危険性を承知している「ヒト」は、「開かれた輪」と共に「閉じた輪」をバランス良く利用します。小誌創刊号で触れたアジア・ヴィジョン21(Asia Vision 21 (AV21))はこうした例の一つです。アジアの指導的な人々が集い、中長期の展望に関してオフレコで自由闊達に議論しようとする会合AV21では、会合の趣旨や主題、そして出席者に関しては公表されますが、「誰が何を話したか」は対外的に一切公表されない形で討論が進行します。その理由は、「ハーバード大学では一切隠し事をしない」という知的姿勢を保ち、参加者にあらゆる場で「本音」を述べることを期待するかわりに、運営側の本学は具体的発言が外に出ないという保証を参加者に与える必要があるからです。この条件の下では、外に情報が漏れるという不安を持たずに、安全保障、経済政策、企業戦略に関して活発な質の高い知的対話を楽しめる訳です。今年のAV21が終わった夜、林芳正参議院議員と日銀の堀井昭成理事と3人で大学近くの洒落たショット・バーに行き、「日本にもAV21のようにグローバルに侃侃諤諤の議論が出来る枠組みが出来ればなぁ」と語り合いました。

 因みに、私は本学における情報交換の手段及び機会を次のように整理しています。すなわち、@研究者が発表した論文・コメント、A授業やシンポジウム等の一般公開の会合、BAV21のように会合の存在と出席者だけが公表される会合、そして、C会合の存在すら公表されない会合、以上4種類です。「閉じたヒトの輪」はBとCであり、「開かれたヒトの輪」は@とAです。「開かれたヒトの輪」のための手段・機会である@及びAで交わされる情報は次の二つの理由から重要だと考えます。すなわち、(a)民主主義体制下では「世界の動向を注視する人々(the attentive public)」に良質の情報を与える責務を本学は負っていること、また、(b)詳細な情報が交換される会合である「閉じたヒトの輪」(BとC)の知的水準を維持するためには、一般公開の議論のなかで発言する人々の中から、優秀な「ヒト」を見出して、「閉じたヒトの輪」に常に新しい「ヒト」を加える必要があること、以上です。

※はこのサイトでは表示されない文字です。PDFファイルには表示されています。

 

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著者プロフィール:栗原潤 (くりはら・じゅん)
ハーバード大学ケネディスクール[行政大学院]シニア・フェロー[上席研究員]
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