この連載を通じてこれまでに、福沢諭吉→福沢屋諭吉→慶應義塾出版局→慶應義塾出版社という流れを追いかけてきた。福沢屋諭吉は明治5年に慶應義塾出版局への発展的解消によって、姿を消したように見えたものの(本連載第17回・第18回)、その後も福沢の著作の中にひょっこり顔を出したりもしていた(本連載第23回)。 |
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今回は、明治7年に刊行された『戊辰以来新刻書目便覧』という史料をごらんいただきたい。この本の凡例には、明治元年からおよそ7年間の東京における出版社の集録とある。 |
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早速、この中の「東京府管下書物問屋姓名記」を見てみよう。東京中の書物問屋の名前が連なっているが、何とその中に「三田二丁目 福澤 福沢屋諭吉」と記されている! 消えたはずの福沢屋諭吉が、一体なぜ?
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前述したように明治5年、慶應義塾出版局の開設に伴って福沢屋諭吉の名称は消滅したものと思われていたのが、この史料によると書物問屋の業界内では依然として福沢屋諭吉の名称が継続して登録されていたことが読み取れる。一般の読者に向けては慶應義塾出版局・出版社あるいは福沢諭吉個人の名称を使用し、書物問屋に向けては福沢屋諭吉の名称を使用するといった、使い分けをしていたことが判明した。さらに、福沢屋諭吉時代に刊行された書物を点検してみると、何と一冊も福沢屋諭吉とは記されていなかったことがわかる。それではなぜ、このような使い分けをしていたのであろうか? その辺の事情については、残念ながら福沢自身は何も語らなかった。どうも最初のいきさつからいって、福沢屋諭吉という屋号は従来の書物問屋の慣行に対する福沢なりの反発心から生まれ、使用された経緯があるので(本連載第2回)、その時のことを後々まで福沢自身が大切にしておいたのかもしれない。 |
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その後、明治8年9月3日、太政官布告第135号によって出版条例が改正された。これにより、版権に関する詳細な規定と罰則が設けられ、福沢の悲願であった偽版対策としての版権=専売権が確立した。その一方で、検閲の所管官庁が文部省から内務省へと移管し、書林組合は自然消滅することになった。これをもって福沢屋諭吉は、登記上の屋号としてもその終焉を迎えることになったのである。 |
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