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ウェブでしか読めない
 
オリジナル連載(2009年4月13日更新)

福沢諭吉の出版事業 福沢屋諭吉
〜慶應義塾大学出版会のルーツを探る〜

第37回:慶應義塾出版社の活動(その4)
 

目次一覧


前回 第36回
慶應義塾出版社の活動(その3)

次回 第38回
再び福沢屋諭吉

本連載は第40回を持ちまして終了となりました。長らくご愛読いただきありがとうございました。

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今回は、明治7年4月4日付の荘田平五郎(しょうだ へいごろう)宛福沢書簡(慶應義塾『福沢諭吉書簡集 第一巻』岩波書店 2001年 298〜301頁)をご覧いただきたい。適宜現代風に改めてある。

〔前略〕分校といって、教える人が時々交代するのでは、教師と生徒との間に親交も深めることができません。以前に出版局の出店でも時々交代しては、商売に不都合がありました。〔後略〕

 
  荘田平五郎
     
 文中の「分校」とは、大阪慶應義塾(明治6年11月開校)と京都慶應義塾(明治7年2月開校)のことで、そこの教員が短期間で交代すると教育上好ましくない点を指摘している。その際に具体例として福沢の経験から示されたのが、「出版局の出店」である。本連載の第27回第28回でも触れたように、慶應義塾出版局を通じて全国に教科書や啓蒙書を出版し、国民を教化することによって日本の近代化を目指そうとする雄大な構想が福沢にはあった。その構想に基づいて、出版局がまず手始めに大阪へと進出したわけである。   大阪慶應義塾跡記念碑、京都慶應義塾跡碑

その中心的な担い手となったのが、あの朝吹英二(彼については、本連載の第30〜33回をご覧のほど)。ところが、先の荘田宛福沢書簡によると、大阪ではどうしても「出店」意識が拭い去れず、おそらく東京三田と大阪との間で局員がしばしば交代したのであろう。それに伴う営業上の損失を福沢は指摘している。

結局のところ、福沢は教育においても商売においても人と人とのつながりを何よりも大切にした。しかしながら、その当然のことがわかっているようでいて、実際にはなかなかできないことは、当時も現在も同じような状況にある。

  朝吹英二

 

【写真1】 荘田平五郎(慶應義塾福沢研究センター蔵)
【写真2】 大阪慶應義塾跡記念碑(慶應義塾広報室提供)
【写真3】 京都慶應義塾跡記念碑(慶應義塾福沢研究センター蔵)
【写真4】 朝吹英二(慶應義塾福沢研究センター蔵)

著者プロフィール:日朝秀宜(ひあさ・ひでのり)
1967年生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科史学専攻博士課程単位取得退学。専攻は日本近代史。現在、日本女子大学附属高等学校教諭、日本女子大学講師、慶應義塾大学講師、東京家政学院大学講師。
福沢についての論考は、「音羽屋の「風船乗評判高閣」」『福沢手帖』111号(2001年12月)、「「北京夢枕」始末」『福沢手帖』119号(2003年12月)、「適塾の「ヲタマ杓子」再び集う」『福沢手帖』127号(2005年12月)、「「デジタルで読む福澤諭吉」体験記」『福沢手帖』140号(2009年3月)など。
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