今回は、前回に引用した明治7年2月23日付の荘田平五郎(しょうだ へいごろう)宛福沢書簡(慶應義塾『福沢諭吉書簡集 第一巻』岩波書店 2001年 291〜295頁)
の末尾に記された内容について見てみよう。まずは、その部分を再びご覧いただきたい。
〔前略〕『学問のすゝめ』は第七編まで脱稿しました。
このごろは余程ボールド(大胆)なことを言っても問題ありません。出版免許の課長は肥田君と秋山君です。
しっかりとした担当者で好ましいです。〔後略〕
この書簡で福沢が述べている通り、「このごろ」(明治7年2月頃)は確かに大胆な表現や内容の出版物が相次いだ。具体的には、明治7年2月の「農ニ告ルノ文」『民間雑誌 一編』と「国法の貴きを論ず」『学問のすゝめ 六編』、同年3月の「国民の職分を論ず」『学問のすゝめ 七編』などである。『民間雑誌』の創刊号を飾った「農ニ告ルノ文」は、農民に対する『学問のすゝめ』のような体裁をとりながらも、農民の租税負担が過重であり、華士族に対する家禄支出の不合理性を主張して、痛烈な政府批判となっている。「国法の貴きを論ず」は、赤穂義士の敵討を私裁として批判し、法を施行できるのは政府のみと主張した。「国民の職分を論ず」は、忠臣義士の討死や切腹を無益なものとして批判し、福沢お得意の比喩を用いて、主人のお使いで一両の金を落としてふんどしで首をくくる権助(ごんすけ)もまた義僕であり、無益な死という点では忠臣義士と同等であるとした。
『学問のすゝめ』は大ベストセラーだっただけに世間の反響もすさまじく、「国法の貴きを論ず」は「赤穂不義士論」として、「国民の職分を論ず」は「楠公権助論」として、批判・中傷・脅迫などの福沢攻撃は急速に高まっていった。これらのうち、赤穂義士については福沢も例として文中で示しているが、楠公=楠木正成については一言も触れていないにもかかわらず、権助と結びついて一人歩きしていくことになる。いずれにしても、当時の人々の赤穂義士や楠木正成に対する熱烈な思いが怒りとなって福沢に向かって爆発してしまった。
一方、この書簡中の「肥田君と秋山君」とは、肥田昭作(ひだ しょうさく)と秋山恒太郎(あきやま つねたろう)のことで、それぞれ慶応4年と明治2年に入塾した福沢の門下生である。当時、新聞・雑誌などの刊行物は、文部省の検閲を受けなければならなかった。彼らが文部省の役人として出版免許のことを担当しているので、かなり大胆な意見を著作物の中で述べても平気だというような楽観論を福沢は述べている。福沢の持ち前の批判精神がかなりなまでに高揚した時期ではあったが、その背景にはこうした2人の門下生が文部省内で出版免許を担当する立場にあったという安心感が存在していたことがこの書簡からは読み取れる。
しかし実はこの時、政府内部では福沢の考え方に対して厳罰に処すべきであるという意見も存在し、それは課長レベルではどうにもならないような相当危険な水域にまで達していたのである。特に司法省権中判事の北畠治房(きたばたけ はるふさ)による福沢弾劾は激烈で、「農ニ告ルノ文」は反政府思想であり福沢を扇動者と位置付けている。この件の詳細は、坂井達朗「「出版免許の課長」は本当に「大丈夫なる請け人」であったか」『三田評論』957号(1994年4月)をご覧いただきたい。坂井氏によると、北畠による福沢批判の上申書は大木喬任(おおき たかとう)司法卿によって握り潰され、福沢本人の気がつかないところで事なきを得たと推測されている。
『学問のすゝめ』に対する世間の反響は、おそらく福沢が予期し得なかった質と量を伴うものであったことと思われるが、「農ニ告ルノ文」のように福沢がまったく知りえぬところでも相当危ない橋を渡っていたことになる。まさに出版活動は、命懸けである。
出版という活動を通じて世の中に自分の考えを明らかにして伝える際、今も昔も読者の存在は無視できない。熱心な愛読者によって著者や著作物は支えられているが、その読者が時に批判者となって痛烈な攻撃を浴びせてくる場合もある。しかしその場合も内容をよく読んで正面から堂々と反論してくるのであれば、著者としても再反論ができ、両者の間にはあたかもキャッチボールのごとく、言葉と思想のやりとりが可能となる。困るのは、内容を曲解したり、ひどい場合には内容を読まずに「赤穂不義士」「楠公権助」という扇動的な言葉のみに踊らされて、暴力的な脅迫をしてくる場合である。そしてもっとも恐ろしいのは、今も昔も国家権力による言論の弾圧であることに変わりはない。
【写真1】 |
荘田平五郎(慶應義塾福沢研究センター蔵) |
【写真2】 |
肥田昭作(慶應義塾福澤研究センター所蔵) |
【写真3】 |
秋山恒太郎(慶應義塾福澤研究センター所蔵) |
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