今回はまず、本連載の第35・36回でも触れた明治7(1874)年2月23日付の荘田平五郎(しょうだ へいごろう)宛福沢諭吉書簡(慶應義塾『福沢諭吉書簡集 第一巻』岩波書店 2001年 291〜295頁)の一部をご覧いただこう。いつものように適宜、現代風に改めてある。 |
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〔前略〕私は今となっては翻訳する気はなく、今年はあらゆることをやめて読書と勉強をするつもりでございます。段々と身体は健康になって、ウカウカしていると、次第に知識を狭めるようになるでしょうから、一年ほど学問するつもりです。〔後略〕 |
これまでも本連載で紹介してきたように、明治初年の福沢は精力的に執筆・出版活動を展開していた。それらの多くは、福沢自身の三度にわたる欧米体験や語学力を活かして、欧米の書物の翻訳や欧米の紹介、あるいは啓蒙的な内容のものであった。 |
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そのような活動に対して、この荘田宛書簡ではキッパリと断筆宣言をしている。実は当時、『文明論之概略』のプランが完成して、いよいよ本格的な論述に取り掛かろうとする時期にあたっていて、このことが断筆宣言の背景になったものと思われる。
『文明論之概略』は、翌明治8(1875)年に出版された。文明とは何か、文明はどのようにして発達するのか、欧米の文明と日本の文明との差異は何かなどを論じた上で、日本が独立を保つためには、国民が文明を発達させて推進していかなければならないと主張する。『文明論之概略』は、福沢の思想を集大成した代表作であるとともに、近代日本を代表する大作ともなった。 この明治8年における『文明論之概略』の出版は、福沢の執筆・出版活動にとって大きな転機と位置付けることができる。『文明論之概略』以前の出版物は、欧米の翻訳・紹介書や啓蒙書が主で、一般国民に向けて特に初等教育用としてかなり通俗的な内容のものが多かった。
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ところが、『文明論之概略』以降の出版物は、福沢の思想を展開したり、時事問題に対して論説したりする内容のものが大幅に増えていく。以下に、明治8年以降数年間の出版書目を年表風に追いかけてみよう。
明治9(1876)年 『学者安心論』『学問のすゝめ 十七編』
明治10(1877)年 『分権論』『民間経済録 初編』
明治11(1878)年 『福沢文集』『通貨論』『通俗民権論』『通俗国権論』
明治12(1879)年 『福沢文集 二編』『通俗国権論 二編』『民情一新』『国会論』
明治13(1880)年 『民間経済録 二編』
明治14(1881)年 『時事小言』
上記の書名を見ただけでも、『○○論』という類のものが増えていることがわかる。書名だけではなく、内容も前述のように大きく転換した。出版人福沢として、明治8年の『文明論之概略』はまさに大転換点であったということができる。
さて、このように新たなる道を歩み始めた福沢に明治13(1880)年末、時の政府から突然の呼び出しがかかる。大隈重信・伊藤博文・井上馨の参議から福沢に対して、新聞紙の発行を依頼するというもの。当初は断り続けた福沢であったが、政府に国会開設の一大決意があることを打ち明けられると、従来の自説とも合致する政府の意向に福沢は新聞紙発行を快諾する。
早速、準備にとりかかる福沢であったが、事態は思わぬ展開に。憲法の制定をめぐる様々な構想、北海道の開拓使官有物払下事件、自由民権運動、政府内部の権力闘争などが複雑に絡み合う明治14年の政変によって、大隈一派は下野し、何と前述の新聞紙発行計画も立ち消えとなってしまった。これらの一連の流れについては、本連載と同じく慶應義塾大学出版会の“ウェブでしか読めない”シリーズ『時事新報史』で都倉武之氏が詳述しているので、ぜひともそちらをご覧いただきたい。
この計画の頓挫を福沢は自伝の中で、「明治十四年のころ、日本の政治社会に大騒動が起こって、私の身にも大笑いな珍事が出来ました」と振り返っている。福沢は自ら「大笑い」としているが、実はその落胆は非常に大きく、またその怒りはすさまじいもので、伊藤・井上に対してはかなり厳しい抗議の書簡を送りつけている。元来、福沢は幕府や政府からは独立した立場を貫いていたが、この一件以降は政府不信がますます募り、生涯にわたって在野を堅持し続けることになる。 |
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そして、明治15(1882)年3月1日、福沢は独自に新聞『時事新報』を創刊する。本局は、あの慶應義塾出版社! これまでの書籍出版から新聞発行へと大きく舵を切ることになったのである。これに伴って、一般書籍の出版業や実業資金貸付の金融業は、社員の中島精一に譲渡された。さらに明治17(1884)年には、慶應義塾出版社から時事新報社へと社名が変更され、ここに慶應義塾出版社の名称は姿を消した。『時事新報』をめぐる以降の動きは、引き続き前述の都倉氏による連載でお楽しみいただきたい。 |
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さて、本連載においてはこれまでに、福沢諭吉→福沢屋諭吉→慶應義塾出版局→慶應義塾出版社→時事新報社という一連の流れを概観してきた。ここでもう一度、福沢屋諭吉が果たした歴史的な役割について、振り返ってみることにしよう。
まず、出版事業の自営化。従来の慣行では、著作者は草稿を執筆してそれを書林(書店・本屋)に渡すだけで、書林が出版・販売の全工程を掌握していた。著作者に対する金銭の支払いも甚だ不透明で、著作者よりも書林の存在が極めて大きかったわけである。そこに登場したのが福沢屋諭吉で、著作者自身が出版事業を自営化することによって、書林からの自立をはかることに成功した。このことは、書林の支配からの単なる経済的な脱却のみならず、著作者の権利の自覚をも促すことになった。福沢屋諭吉の誕生は、著作権確立への道につながっていたのである。
次に、啓蒙書の出版。折からの義務教育の開始とも相俟って、福沢屋諭吉によって出版された啓蒙書は教科書として全国の学校で活用され、日本の近代化を特に初等教育・地方教育の面から支えることになった。
そして、ユニバーシティプレスの先駆け。慶應義塾における教育・研究活動と、福沢屋諭吉による出版活動とが有機的に結び付けられた。
さらに、実業教育機関としての試み。慶應義塾関係者に対しては、商売の練習場として出版の現場を提供したり、事業資金を貸し付けたりすることによって、実学を実践する機会が与えられた。
いずれにしても、このようにして福沢諭吉が抱く理念・理想を一つの形として具現化したものが、他ならぬ福沢屋諭吉であった。
以上、40回にわたってお付き合いいただいてきた本連載も今回で無事に最終回を迎えることができた。まだまだ書き足らないこと(特に福沢屋諭吉の前史と著作権の問題)や、あるいは私の筆力では十分に書き尽くせなかったことなど、ご不満な点は多々あろうかと思われるが、どうぞご海容いただきたい。そして何よりもご高覧ご愛読いただいた皆様、誤記をご指摘していただいた皆様、ご意見やご感想をお寄せいただいた皆様に対して、心より感謝を申し上げる次第である。
どうもありがとうございました。
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