福沢諭吉が一万円札の肖像に納まってから、はや20年余りがたった。今ではかつての聖徳太子に代わって、お札の代名詞としてすっかり定着しつつあるものの、当の福沢本人は『福翁自伝』の中で自らを「商売に不案内」と述べている。実際に福沢自身が携わった事業といえば、慶應義塾に時事新報社…。確かにこれらの他には、あまり思い浮かばない。
そんな「商売に不案内」な福沢が唯一「生涯の中で大きな投機のようなことを試みて、首尾よく出来たことがあります」(『福翁自伝』)と述べている事業がある。その事業とは一体何か? そしてなぜ福沢が「一大投機」に乗り出したのであろうか? その謎を探るためには、『福翁自伝』を見てみよう。
福沢は、すでに幕末から『西洋事情』を始めとして、数々の著作翻訳活動を展開していたのだが、江戸時代の慣行として著作者は草稿を執筆するだけで、その後はすべてを書林(書店・本屋)に一任していた。つまり、版下書き(版木用の清書)・版木彫り・版摺り・製本・売り捌きの全工程のみならず、職人の雇用・製本用紙の買入・値段の設定までも含めて、すべてを書林が取り仕切っていたのである。肝心の著作者本人は、書林の言うがままの「当合扶持」(あてがいぶち)を授けられるのみであった。これに対して福沢は、「江戸の書林が必ずしも不正の者ばかりでもないが、とかく人を馬鹿にする風がある」と憤慨し、「ソコデ私の出版物を見るとなかなか大層なもので、これを人任せにして不利益はわかっている。書林の奴らに何ほどの知恵もありはしない、高の知れた町人だ、何でも一切の権力を取り上げて此方(こっち)のものにしてやろうと説を定めた」と、“独立自尊”の真骨頂を存分に発揮する。
まず手始めに、江戸数寄屋町(すきやちょう)の鹿島屋〔加島屋〕という大きな紙問屋との間に、土佐半紙百何十俵を千両余りの即金で買い付ける約束をする。江戸の大書林といえども150両から200両程の紙を買うのがやっとの時分に、1桁多い千両の大商い! その大量の紙を当時は芝新銭座(しばしんせんざ)にあった慶應義塾に引き取って、土蔵一杯に積み込んで置く。次に書林から版摺りの職人を貸してもらい、何十人も集めて仕事をさせる。職人達は蔵の中に積んである途方もない紙の分量に度肝を抜かれるものの、そこはさすがにその道のプロだけあって、これだけの紙が保有されているならばここでの仕事は永続するにちがいないとソロバンをはじく。そうなればもうしめたもので、問わず語りに職人の口から業界の内部情報を聞き出すことに成功し、いつのまにか内実を把握してしまうに至る。ついには、版木師や製本仕立師までを次々とスカウトしてきて、とうとう全工程を福沢の直轄下に組み込むことに成功する。その結果、書林は単に手数料を取って売り捌くのみになってしまった。福沢は『福翁自伝』の中で「ただこのことばかりが私の商売を試みた一例です」と振り返っているが、確かに「著訳社会の大変革」であった。
上記のように従来の慣行を破って、著訳者である福沢自身が出版事業の自営化に乗り出すと、その一方で既得権益を侵害された書林から苦情が出てきてもおかしくはない。そこで福沢は、自らの出版事業の開始に際して、書林の問屋仲間に加入することにした。その時の屋号が他ならぬ「福沢屋諭吉」!
時に明治2年11月のこと、ここに福沢諭吉による「福沢屋諭吉」が誕生した。
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