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ウェブでしか読めない
 
オリジナル連載(2007年7月17日更新)

福沢諭吉の出版事業 福沢屋諭吉
〜慶應義塾大学出版会のルーツを探る〜

第17回:「福沢屋諭吉」の消滅?!
  

目次一覧


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この連載の第3回目では、「福沢屋諭吉」が明治2年に誕生した際の史料を二点ほどご覧いただいた。それらの内、『書物屋仮組連名帳』という組合の台帳に記載された「福沢屋諭吉」に関する部分をここでもう一度見てみよう(石川幹明『福沢諭吉伝 第二巻』岩波書店 1981年 5頁)。

     明治二巳年十二月三日           芝区金杉川口町 善兵衛地借
   一、新加入 東京御府願済                        福沢屋諭吉

ところが、同じ史料の明治5年分には、驚くべきことに次のような記載がある。

     明治五申年八月二日                三田二丁目十三番地
   一、新加入                                 福沢諭吉

明治2年の時は「地借」だったのに対して、明治5年になると「地借」が取れてかわりに「三田」の住所が何とも誇らしげである。そんなことよりも、「福沢屋諭吉」から「屋」が取れて「福沢諭吉」となり、しかも「新加入」となっている。「福沢屋諭吉」はどこへ行ってしまったのであろうか。
 その問題に迫る前に、関連する諸史料をもう少し読んでみることにしよう。


その史料とは、東京都公文書館所蔵「明治五年諸願伺綴込 勧業課」の中の第三十四号「書物問屋行事共より三田二丁目福沢諭吉同渡世新規加入為致度願」(『福沢諭吉全集 第21巻』岩波書店 1964年 294〜295頁)である。いつものように、句読点を付けて適宜現代風に改めてみた。

       恐れながら文書でお願い申し上げます。
   一 書物問屋の行事が申し上げます。三田二丁目の福沢諭吉が、このたび書物問屋
     へ新規加入して生活していきたいとの旨を申し出ましたので、身元を調べたところ
     信用できる者なので、問屋への加入をお命じ下さるようにお願い申し上げます。
     もちろん仲間一同、不都合なことはありませんので、どうかお役所のご帳面へお書
     き加え下さるように、このことをお願い申し上げます。           以上                                     書物問屋行事        明治五申〔年〕八月二日                浅倉久兵衛 黒印                                       大渓平兵衛 黒印                                  第二大区小九ノ区                                   三田二丁目十三番地                                     願人 福沢諭吉 黒印          東京御府

これによると、従来の「福沢屋諭吉」とはまったく別に、「福沢諭吉」が書物問屋への新規加入を願い出ていることがわかる。書物問屋の行事も東京府の役人も、「福沢屋諭吉」と「福沢諭吉」が同一人物であることは当然承知のはずなのに、その点には一言も触れていないのが何だか不思議である。それどころか、書物問屋の行事は福沢の身元調査を再度実施して、信用できる者だと東京府に対して報告している始末である。
 続きを読んでみよう。

    文書でお請け申し上げます。
                       第二大区小九ノ区三田二丁目十三番地主
                                           福沢諭吉
   右の者はこのたび書物問屋へ加入することをお願いしたところ、願いの通り
   命じられありがたく存じます。よってお請け申し上げます。        以上      明治五申年八月四日                                    書物問屋行事                                       浅倉久兵衛 黒印                                    同                                       大渓平兵衛 黒印        東京御府

福沢諭吉の新規加入は無事に認められたことが読み取れるが、なぜ福沢はこのような手 続きをしたのであろうか。また、この手続きに伴って「福沢屋諭吉」は一体どうなってしまったのであろうか。
 それはまた、次回以降のお楽しみに…。

   
著者プロフィール:日朝秀宜(ひあさ・ひでのり)
1967年生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科史学専攻博士課程単位取得退学。専攻は日本近代史。現在、日本女子大学附属高等学校教諭、日本女子大学講師、慶應義塾大学講師、東京家政学院大学講師。
福沢についての論考は、「音羽屋の「風船乗評判高閣」」『福沢手帖』111号(2001年12月)、「「北京夢枕」始末」『福沢手帖』119号(2003年12月)、「適塾の「ヲタマ杓子」再び集う」『福沢手帖』127号(2005年12月)、「「デジタルで読む福澤諭吉」体験記」『福沢手帖』140号(2009年3月)など。
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