Web Only
ウェブでしか読めない
 
オリジナル連載(2007年6月15日更新)

福沢諭吉の出版事業 福沢屋諭吉
〜慶應義塾大学出版会のルーツを探る〜

第16回:『学問のすゝめ』刊行!

  

目次一覧

前回 第15回
「福沢屋諭吉」三田へ!(その2)

次回 第17回
:「福沢屋諭吉」の消滅?!

本連載は第40回を持ちまして終了となりました。長らくご愛読いただきありがとうございました。

『ウェブでしか読めない』に関するご意見・ご感想はこちらへ


『時事新報史』はこちらから 

『近代日本の中の交詢社』はこちらから 

 

明治4年3月、福沢諭吉と慶應義塾の三田移転に伴って、「福沢屋諭吉」もまた三田へと移転した(この連載の第14・15回をご参照のほど)。その三田では早速、旧島原藩邸の長屋を利用して職工を住み込ませ、印刷工場とした。工場の監督は以前の新銭座時代から引き続いて、旧中津藩士の八田小雲と松口栄蔵に任せる。八田は版下・下絵の作成も担当する器用な人物で、松口は専ら事務を担当した。

さて三田へ来て初めての出版が、翌4月の『啓蒙手習之文(けいもうてならいのふみ)』初版窮理図解(その内容については、この連載の第9回をご参照のほど)。同年2月に福沢は、内田晋斎(うちだ しんさい)という人物に対して『啓蒙手習之文』の版下作成を督促していたが(この連載の第8回をご参照のほど)、あれほど福沢を急がせた背景には三田移転に伴う超多忙な事情があったのかもしれない。続いて6月には、『訓蒙窮理図解(きんもうきゅうりずかい)』再刻。これは物理学の入門書で、初版は明治元年。さらに12月には、『世界国尽(せかいくにづくし)』再刻。これは、この連載の第10〜13回で触れた杉山新十郎からの指摘を受けて、明治2年に刊行された初版の内容をいくつか訂正したものである。

そして翌明治5年になると、2月にあの有名な「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり…」で始まる『学問のすゝめ』がついに刊行! この『学問のすゝめ』は福沢の代表的な著作の一つとなるのだが、実はその発端は一地域限定の小冊子に過ぎなかった。

ここで、『学問のすゝめ』が世に出るに至った経緯をたどってみることにしよう。そもそものきっかけは、福沢の郷里にあった。明治4年の廃藩置県後、福沢は旧中津藩主の奥平昌邁(おくだいら まさゆき)を説いて、中津に「中津市学校」という洋学校を設立した。福沢はこの学校に対して有形無形の協力を惜しむことなく、特に人材の面では慶應義塾から初代校長として小幡篤次郎(おばた とくじろう)、教師として松山棟庵(まつやま とうあん)らが赴任した。この学校設立に際して、福沢が学問の趣意を中津の人々へ示すために記した小冊子が他ならぬ『学問のすゝめ』なのである。封建的な身分制度を否定し、学問の持つ有用性を平易な言葉で述べたこの『学問のすゝめ』は、まさに新しい時代における新しい学校の幕開けにふさわしい内容で、読む者に深い感動を与えた。

間もなく、これほどの内容を持つものを中津だけに留めておくのはあまりにももったいないということで、一般の読者に向けて全国的に出版することになった。その結果、空前絶後の大ベストセラー・超ロングセラーとなったことは、周知の通りである。明治5年2月の時点では『学問のすゝめ 全』としてこの1冊で完結したものの、その後に2編・3編…と続々と刊行されて、最終的には17編まで出版された。そこで、最初の『学問のすゝめ 全』は明治6年に2編が刊行された際に、『学問のすゝめ 初編』と改められた。

童蒙おしえ草

また明治5年の夏から秋にかけては、『童蒙をしへ草(どうもうおしえぐさ)』初編・二編。これは、イギリスのチェンバーによる『モラルクラスブック』を翻訳したもので、西洋の道徳的なお話が集められている。

折しも明治5年8月には政府により学制が定められ、日本でも近代的な学校教育制度が発足した。当初は、上述の『啓蒙手習之文』『訓蒙窮理図解』『世界国尽』『学問のすゝめ』『童蒙をしへ草』などが教科書として全国の小学校で広く使用され、特に『世界国尽』は各地の小学生が暗唱して歩いたという! かねてより「下民教育」「小民教育」の重要性を力説していた福沢(この連載の第4・7回をご参照のほど)にとって、全国各地で小学生が暗唱する『世界国尽』は一体どのように聞こえたことであろうか?

このように三田に移転した直後の「福沢屋諭吉」は、明治4年から翌5年にかけて精力的に出版活動を展開した。特に福沢が得意とする啓蒙書の類が折からの学制と見事に適合して、全国に向けて飛ぶように売れていった。すると、さすがの「福沢屋諭吉」も従来の体制ではとても処理できなくなり、やがて組織の大幅な変更に乗り出すことになる。

時に明治5年8月のこと。それはまた、次回以降のお楽しみに…。

【写真1】『訓蒙窮理図解』再刻 見返し(慶應義塾福沢研究センター蔵)
【写真2】『童蒙をしへ草』初編 見返し(慶應義塾福沢研究センター蔵)
【写真3】『童蒙をしへ草』二編 見返し(慶應義塾福沢研究センター蔵)
   
著者プロフィール:日朝秀宜(ひあさ・ひでのり)
1967年生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科史学専攻博士課程単位取得退学。専攻は日本近代史。現在、日本女子大学附属高等学校教諭、日本女子大学講師、慶應義塾大学講師、東京家政学院大学講師。
福沢についての論考は、「音羽屋の「風船乗評判高閣」」『福沢手帖』111号(2001年12月)、「「北京夢枕」始末」『福沢手帖』119号(2003年12月)、「適塾の「ヲタマ杓子」再び集う」『福沢手帖』127号(2005年12月)、「「デジタルで読む福澤諭吉」体験記」『福沢手帖』140号(2009年3月)など。
ブログパーツUL5

他ジャンル

ジャンルごとに「ウェブでしか読めない」があります。他のジャンルへはこちらからどうぞ。
ページトップへ
 
Copyright © 2005-2008 Keio University Press Inc. All rights reserved.