・福沢諭吉の右腕、小幡篤次郎(1842 〜 1905)初の著作集(全5 巻+別巻)。 ・小幡篤次郎の業績を単行本だけでなく、論説・書簡等も集成。 ・第五巻では、「英式艦砲全書 一 〜 二」「舶用汽機新書 巻之一 〜 二」「書簡集」を収録。
福沢諭吉の弟子であり協力者でもあった小幡篤次郎(1842 〜 1905)の著作を、全5 巻+別巻にまとめた初の著作集。単行本として刊行された作品はもちろん、論説や書簡等も幅広く収録し徹底したテキストクリティークを行うことで、福沢諭吉と慶應義塾を支え、日本の近代化に尽力した小幡篤次郎の業績を多角的に伝える。第五巻では、「英式艦砲全書 一〜二」「舶用汽機新書 巻之一〜二」「書簡集」を収録。
英式艦砲全書 一 英式艦砲全書 二 舶用汽機新書 巻之一 舶用汽機新書 巻之二 書簡集
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小幡篤次郎(おばた・とくじろう) 天保13(1842)〜明治38(1905)年。教育者、慶応義塾長、慶応義塾社頭、貴族院議員。200石取りの中津藩上士の子として豊前国中津(現大分県中津市)に生まれる。漢学を学び藩校進脩館で教育に従事していたが、元治元(1864)年協力者を求めて中津を訪れた福沢諭吉に乞われ、弟仁三郎(のち甚三郎)ほか5名と共に出府し福沢の塾に入学した。慶応2(1866)年には、早くも当時は学生代表のような存在であった塾長を務め、明治元年頃まで在任。同時に2年から幕府開成所の英学教授手伝となり、4年には弟甚三郎と共著で最初の著作となる『英文熟語集』を著した。 幕末から明治初年にかけて入塾した永田健助らの回想では、小幡は福沢の講義に学生として出席する一方で後進の指導にも当たり、図書館制度導入などにも尽力、義塾が目指した「半学半教」の中心的役割を果していた。こうした小幡の貢献は衆人の認めるところで、明治23年3月5日付『朝野新聞』には「慶応義塾あることを知るもの、必ず小幡篤次郎君あることを知り、福沢翁の名を知るもの、誰か君の名を記せざらん」と書かれている。 4年に執筆され5年に刊行された『学問のすゝめ』初編は、「同著」として小幡の名が記されている。同書はもともと旧中津藩士に向けて書かれたものであり、同藩上士の家柄であった小幡の名を借用したとするのが通説ではあるが、小幡の学識に対して福沢の信頼は厚く、『文明論之概略』緒言には小幡の閲読を乞い、添削を受けて理論の「品価」が大いに増したと述べている。 また中津市学校の校長や東京師範学校中学師範科の創立に際しての校務など、義塾外の教育機関でも重要な役割を担った。さらに交詢社の設立に尽力、東京学士会院会員、貨幣制度調査委員なども務めた。福沢の死後社頭に就任したが、胃癌をわずらい明治38年4月16日没。墓所は東京広尾の祥雲寺。 小幡は中津に図書館をつくりたいと考えていた。没後遺言によって生家と蔵書の半数が寄贈され、42年に中津図書館が開館した。現在は中津市立小幡記念図書館になっている。平成5(1993)年に近接地に移転し、生家は中津市歴史民俗資料館となった。 主な著訳書に『天変地異』(1868)、『生産道案内』(1870)、『英氏経済論』(1871〜77)、『弥児氏宗教三論』(1877)など。(西沢直子執筆『福沢諭吉事典』より)
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