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ウェブでしか読めない
 
オリジナル連載(2008年12月16日更新)

福沢諭吉の出版事業 福沢屋諭吉
〜慶應義塾大学出版会のルーツを探る〜

第34回:慶應義塾出版社の活動(その1)
 

目次一覧


前回 第33回
朝吹英二とは…(その4)

次回 第35回
慶應義塾出版社の活動(その2)

本連載は第40回を持ちまして終了となりました。長らくご愛読いただきありがとうございました。

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このところ4回にわたり朝吹英二について少々寄り道をしてきたので、再び福沢諭吉自身の出版活動をたどっていくことにしよう。

さて、明治7年1月に合資会社としての慶應義塾出版社が誕生したことについては、本連載の第29回をご参照のほど。今回はその誕生を受けて、同年2月15日付の上野景範(うえの かげのり)・森有礼(もり ありのり)宛福沢書簡をご覧いただきたい。いつものように適宜現代風に改めた。

〔前略〕プリンチングヲッシのこと、早速仲に入って取り持って下さり、いろいろとありがたく思います。これに付属する活字製造の器械や品物等も引き受けるかとのこと、もちろん私方で活版所を引き受ける上は、ぜひ活字も必要の文字を製造いたしませんと実現しませんので、共にお払い渡し願いたく思います。ただ恐れるところは、活版の器械は二つでも三つでも、その日から用を足すのですが、活字にいたっては、私方の著書はすべて平易の文字だけを用いてきましたので、不用の文字がたくさんあっては実に困り果てます。もちろん今後あちこちから活字の注文もあるでしょうから、次第に売り払うことはできるでしょうが、カピタル〔capital〕(元手)を一度に出せば、そのインテレスト〔interest〕(利益)を算入しないわけにはいきません。私方の考えは、以上の通りです。とにかく値段次第、あるいはこの値段で現金払い、あるいは月賦、あるいは年賦、あるいはいくらかを現金でいくらかを年月賦とか、おっしゃるようにいたしたく思います。結局私方はこの局を買って、その局で利益を得ようとするのではなくて、すでにできあがっている局をもって私方の働きを便利にし、その働きをもって利益を得ようとするだけです。だからこの局を買い受けた理由をもって損害を受けなければ、満足するところでございます。〔後略〕

     
学問のすゝめ
 
学問のすゝめ 五編
     

冒頭のプリンチングヲッシとは英語のprinting office(印刷所)のことで、福沢は苦心してこのようにカタカナで表記している。宛名の上野景範・森有礼は、当時外務省で外務少輔を務めていた人物である。この二人の共通点は共に鹿児島に生まれ、早くから洋学に触れて英語を学び、海外経験を得ていたことである。特に森は福沢らとともに、明治6年に明六社を結成し、翌7年からは『明六雑誌』を刊行して、啓蒙活動を展開していた。この書簡では、まず福沢から彼ら二人へ活版印刷所の払い下げを取り持ってくれたことに対する謝意が述べられ、さらに活字や活字製造のための機械の購入についても依頼している。書簡中の「局」とは、官営の印刷所のことであろうか。このような官有物の払い下げに関する福沢の着眼点の鋭さや手続きの迅速さについては、すでに本連載の第1415回で三田の土地の取得の際に触れた通り。今回も恐らく、福沢の情報網に引っかかってきた政府所有の活版印刷所の払い下げ計画に早速飛び付いて、誕生したての慶應義塾出版社への転用を計ったものと思われる。当時、明六社を通じてかねてから親交のあった森がたまたま外務省の要職にいたことから、おそらくその森を通じて同郷の上野にも接触し、そして福沢への払い下げと話は進んでいったことであろう。森はその後、明治9年に福沢を証人として広瀬阿常という女性との間に婚姻契約を交わして結婚した。これが日本における最初の契約結婚とされる。さらに明治18年、第一次伊藤博文内閣で初代文部大臣に就任すると教育改革に乗り出したが、明治22年の大日本帝国憲法発布の当日、国粋主義者によって暗殺されてしまう。

一方、この書簡の中で注目すべき点は、福澤自身が「私方の著書はすべて平易の文字だけを用いてきました」と述べていることである。本連載でも繰り返し触れてきた通り、福沢の出版活動は一般国民の啓蒙教育に最大限の重点が置かれていたために、その内容は極力難解なものを排除して平明簡易なものを追求し続けていた。そのため、出版に使用する活字も平易な文字のみ必要で、絶対に使わないような難しい漢字の活字が大量に余ってしまうことを予想している。出版人福澤は同時に経営者福沢でもあり、不用在庫品の山積に対する懸念がもうすでにこの段階で示されている。

いずれにしても、この払い下げ自体で儲けようとするつもりは毛頭なく、自らの出版活動の利便性を向上させるための払い下げであることを強調している。そしてその出版活動の先には、他ならぬ近代日本の啓蒙活動という道がつながっていたのである。

出版人福澤諭吉にとって、また経営者福沢諭吉にとって明治7年は、慶應義塾出版社に活版印刷所が設立された画期的な年にあたり、同年1月に発行された『学問のすゝめ 四編』『学問のすゝめ 五編』は従来の木版印刷から活版印刷へと切り換えられた。続いて2月に刊行が開始された『民間雑誌』は、『学問のすゝめ 四編』『学問のすゝめ 五編』と同一の活字で印刷されている。

この『民間雑誌』については、また次号で…。

     
学問のすゝめ
 
学問のすゝめ
     
民間経済録
   
【写真1】 上野景範(『国史大辞典』第一巻29頁より)
【写真2】 森 有礼(慶應義塾福沢研究センター蔵)
【写真3】 『学問のすゝめ 四編』(慶應義塾福沢研究センター蔵)
【写真4】 『学問のすゝめ 五編』(慶應義塾福沢研究センター蔵)
【写真5】 『民間雑誌 第一編』(慶應義塾福沢研究センター蔵)
著者プロフィール:日朝秀宜(ひあさ・ひでのり)
1967年生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科史学専攻博士課程単位取得退学。専攻は日本近代史。現在、日本女子大学附属高等学校教諭、日本女子大学講師、慶應義塾大学講師、東京家政学院大学講師。
福沢についての論考は、「音羽屋の「風船乗評判高閣」」『福沢手帖』111号(2001年12月)、「「北京夢枕」始末」『福沢手帖』119号(2003年12月)、「適塾の「ヲタマ杓子」再び集う」『福沢手帖』127号(2005年12月)、「「デジタルで読む福澤諭吉」体験記」『福沢手帖』140号(2009年3月)など。
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