Web Only
ウェブでしか読めない
 
オリジナル連載(2008年7月17日更新)

福沢諭吉の出版事業 福沢屋諭吉
〜慶應義塾大学出版会のルーツを探る〜

第29回:慶應義塾出版社への改組
 

目次一覧


前回 第28回
慶應義塾出版局の活動(その10)

次回 第30回
朝吹英二とは…(その1)

本連載は第40回を持ちまして終了となりました。長らくご愛読いただきありがとうございました。

『ウェブでしか読めない』に関するご意見・ご感想はこちらへ


『時事新報史』はこちらから
『近代日本の中の交詢社』はこちらから
 

本連載の第18回から第28回まで、慶應義塾出版局の創設とその活動についていろいろと見てきたが、その出版局は明治7年1月に一つの大きな転機を迎えることになった。すなわち、従来の慶應義塾出版局を改組して合資会社とし、ここに慶應義塾出版社が誕生したのである。福沢諭吉の著作活動が精力的に展開される中で、その出版活動の方も福沢諭吉(個人)→福沢屋諭吉(個人商店)→慶應義塾出版局(慶應義塾)→慶應義塾出版社(合資会社)というように、次々と発展していった。

この慶應義塾出版社の出資者に交付された株券が、慶應義塾『慶應義塾百年史上巻』(1958年)603頁に掲載されている。中央に額面の「金五十円」、右に「筆端能く一生を経緯す」、左に「努力以て天下を冨実す」と記されている。まさに筆一本の力でここまでやってきた福沢の生き方そのものを表した文章である。さらにこの株券の周縁部分には筆・そろばん・はかりが描かれている。本連載でもこれまでに触れてきた通り、福沢にとって著作・出版活動は商業的な実践活動に直結するものであった。文筆業はすなわち実業そのものであったのである。特に商業を卑下する近世的な考え方に対し、徹底して批判的であった福沢諭吉にとって、株券に筆・そろばん・はかりをともに描くことは、まさに理想の実現であったわけである。

慶應義塾出版社株券

さて、そのような出版社の収入面を見てみよう。まず出版物の売上高から出版諸雑費を差し引く。次にその残額の内、95%を著者に渡して5%を出版社が手数料として受け取っていた。印刷用紙は毎月千俵内外の土佐半紙を仕入れ、純益は1年間で約7万円!

さらに、福沢は日頃から塾員に対して商売の道を熱心に勧めていたので、出版社員が実業界へ乗り出すに際しては、積極的な援助を惜しまなかった。例えば、恩田清次は三田通りに松屋呉服店、萩友五郎は同じく三田通りに鶴屋質店、朝吹英二は大阪で慶應義塾出版社大阪出張所、飯田平作と山口半七は下関で書籍兼呉服店など、それぞれ出版社から資金を借り受けて事業を展開していった。その資金は、何と慶應義塾関係者に出版社へ預金をさせて、それを貸し付けていたという。

このように慶應義塾出版社は、まず何よりも出版事業が中心であることは言うまでもないが、それだけではなくその社内で商業教育を実践的に施す教育機関でもあり、さらには預金と貸付の業務を行う金融機関でもあったのである。

一方、福沢諭吉の著作・出版活動の方もますます盛んで、慶應義塾出版社誕生の明治7年1月には『学問のすゝめ 四編』『学問のすゝめ 五編』がそれぞれ刊行された。

学問のすゝめ 四編   学問のすゝめ5編
   
【写真1】 慶應義塾出版社株券
  (『慶應義塾百年史上巻』 603頁)
【写真2】 『学問のすゝめ 四編』
  (慶應義塾福沢研究センター蔵)
【写真3】 『学問のすゝめ 五編』
  (慶應義塾福沢研究センター蔵)
著者プロフィール:日朝秀宜(ひあさ・ひでのり)
1967年生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科史学専攻博士課程単位取得退学。専攻は日本近代史。現在、日本女子大学附属高等学校教諭、日本女子大学講師、慶應義塾大学講師、東京家政学院大学講師。
福沢についての論考は、「音羽屋の「風船乗評判高閣」」『福沢手帖』111号(2001年12月)、「「北京夢枕」始末」『福沢手帖』119号(2003年12月)、「適塾の「ヲタマ杓子」再び集う」『福沢手帖』127号(2005年12月)、「「デジタルで読む福澤諭吉」体験記」『福沢手帖』140号(2009年3月)など。
ブログパーツUL5

他ジャンル

ジャンルごとに「ウェブでしか読めない」があります。他のジャンルへはこちらからどうぞ。
ページトップへ
 
Copyright © 2005-2006 Keio University Press Inc. All rights reserved.